梶原景時

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「何故かは知らんが、どうもこの男を他人とは思えないのだ」
梶原景時 について、石田三成
「景時君、メロンパン買ってきて(♥️)」
梶原景時 について、源義経
「景時君、ついでに俺の分もメロンパン買ってきて(♥️)」
梶原景時 について、源範頼
「ワシに逆らうやつは頼朝公に逆らうのと同じことなのだ!!」と御家人らを恫喝する景時さん。

梶原 景時(かじわら かげとき 1140年? - 1200年2月6日) は、平安時代サムライで、源氏一党の風紀委員長でもある。坂東平氏の血筋を引く鎌倉景政(1068年 - 没年不詳、通称は権五郎。桓武平氏鎌倉氏で頼朝が属する河内源氏鎌倉氏とは別系統)の末裔にあたる。

略要[編集]

委員長キャラである為、マゾヒストからは崇拝の対象となっている。源頼朝のことが大好きで、頼朝を自分だけのものにしたがっていた。そのため、頼朝の妻である北条政子、頼朝に甘えられるのは僕だけと勘違いしている頼朝の弟源義経などとは犬猿の仲であった。

「綱紀粛正」が口癖で、規則に従わないものや頼朝に異議を申し立てるものを容赦なく粛清した為、皆から嫌われた。一方で、我侭坊主である義経に真正面から対抗した為、心の中では義経を煙たがっている他の御家人から反義経の先鋒として知らない間に担ぎ出され、いざ義経が本当に滅ぼされると、義経を死に追いやった張本人として自分を煽った御家人達からスケープゴートとしてバッシングされる羽目になった。そして頼朝の死後、そんなに頼朝が好きならあの世で添い遂げてろと景時排斥を目論む北条時政らによって粛清された。

後世には極悪人のイメージで伝わる景時だが、実際には義経や源範頼パシリ扱いされ、パイ投げされるなどの酷い仕打ちを受けていたいじめられっ子であった。また景時は典型的なツンデレでもあり、頼朝を主人公とするエロゲーでは政子を差し置いてメインヒロインとして登場することもある。しかし景時はいくらツンデレでも野郎男であったため、周囲の男達から反感、嫌悪こそ買ったが萌えの対象となる事はなかった。もし景時がおにゃのこで担当声優が久川綾だったら日本人の7割は景時に萌え狂っていただろうねとギャルゲーエロゲーメーカーのエロい人達は口をそろえて語っている。

景時は晩年に至ってもなお、美形で名高い息子の梶原景季にも引けを取らないほどの美形であった為、鎌倉やその近辺の女性達が口を揃えて梶原父子に自分の身体を貢ぎたいと言うほど、父子揃って女性たちに大人気であった(鎌倉に梶原という地名が残ってるのも、その為である)。当然これも景時が嫌われる大きな要因の一つであることは言うまでもない。

評価[編集]

景時は存命時から「誣告の達人」「讒訴の梶原」と呼ばれ忌避されていたと伝わる。鎌倉時代初期は讒訴と粛清が横行した時期であり、景時はその混沌たる時勢を作った一人だと糾弾される。しかしながら、讒訴や粛清が横行するのはどちらかと言えば景時が死んだ後である。何より景時自身が北条一族や讒訴によって非業の死を遂げている。本当に讒訴の達人であるのなら自分が讒訴されるような脇の甘さを見せる事はありえないため、この評価は失当である。

景時が讒訴した対象として、源義経畠山重忠上総介平広常などがいるが、この内義経と重忠は傍若無人な性格のDQNで、恒常的に周囲を軋轢をきたしており、御家人を頼朝の下に統率する役目を担っていた景時と対立したのは自明であったし、広常は頼朝に暗殺しろと命じられたのを忠実に遵守して殺っただけに過ぎない。

では何故景時が讒訴の達人と評価されるようになったのかというと、それは頼朝のスケープゴートだったからである。頼朝は、武士の統率の為危険人物は危険が顕在化する前に迅速に粛清する傾向があった。御家人達は、そんな頼朝の理不尽な裁断を目にする度、あれは景時が讒訴してやらせたに違いないと思いこみ、佞臣、景時の虚像を作り上げていった。驚くべき事に、景時自身が、景時が頼朝に讒訴したという風聞を流布していたと『愚管抄』は記述している。『愚管抄』は北条氏への太鼓持ち史料になっている『吾妻鏡』より史料としてよほど信用できるので、事実であると判断していいだろう。景時は、頼朝への嫌悪、不信を払拭するために、自ら藁人形を演じていた。まさしく忠臣の鑑と言える。

しかし、飼い主の頼朝が死に、後ろ盾を失うと早急に排斥され、粛清されてしまったことから、歴史学者達の間では政治家としては能力はあれど『番犬』止まりであったという見解で一致している。

景時にまつわるいい話[編集]

佞臣として忌み嫌われる景時だが、ちょっといい話も伝わっている。

景時と言えば、頼朝が惨敗した石橋山の合戦で、逃走中の頼朝とバッタリ邂逅したものの、見逃した命の恩人としてのエピソードが有名である。しかし、このエピソードが記述されている史料などを見ると、見逃したのではなく、逃亡中の頼朝の落ち武者姿があまりにもみすぼらしくて源氏の大将だと気が付かず、その辺の雑兵だろうと勘違いしていただけであった。

しかし経緯はどうあれ景時の勘違いによって頼朝は命を救われたことに違いは無い。後年、自分に身を砕いて奉仕してくれる景時の忠義に感謝した頼朝は、石橋山での景時との邂逅を、本来であれば景時が頼朝と気づかず見過ごしたのを、景時が自分を頼朝と知りながら見逃してくれたというエピソードに捏造、いや昇華させ、鎌倉中に吹聴した。主君の「善意ある捏造」に景時は感銘し、頼朝に一層の奉仕をするようになった。

関連項目[編集]


Hitlerefficiency ハイル・ヒットラー!
この梶原景時は、偉大なる我らがアーリア民族の築き上げた最高の文化的作品である!
この記事を書き上げてこそ、ユダヤ人を殲滅できるのだ!
この記事をつまらなくする者に宣戦布告を!!ジーク・ハイル!!!! (Portal:スタブ)