森永卓郎

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森永卓郎(もりながたくろう)とは、自らを犠牲にしているようにみせかけて日本の階級分断[要出典]を進める『アキバ系経済学』者である。

略歴[編集]

1957年東京に生まれる。そして、海外赴任する親に連れられて世界各国に転校するも、その太った体が「モリナガ」のお菓子みたいと馬鹿にされ、語学上の成果を挙げられない帰国子女となる。

それでも帰国後に東京大学から煙草業界や金融業界に入社するエリートコースを歩み、ベトナム市場開放の研究など特筆性のない経歴を積む。その頃、エリートに相応しく女性遍歴はそれなりのものがあった。しかし、1996年出した恋愛至上主義を説く『紳士と悪女の経済学』が思ったほどの評判にならなかったので、小さい時からのミニカー趣味が宜しからぬ方向へ暴走し始める。当時勤めていた三和に迫るリストラの波も目撃し、三菱との合併後も自分だけが生き残れる経済学を模索する。

その努力が大いに結実したのが、2003年刊行された『年収300万円時代を生き抜く経済学』である。前後して刊行された『シンプル人生の経済設計』と『Bで生きる経済学』も基盤に日本の代表的経済評論家となった森永は、やがてミニカーに美少女を飾る趣味を見せるようになり、自分は負け組と自虐していた層[1]を引き寄せた。

やがて大学教授となった森永は、自分が勝ち組に属していることを巧みに目立たせないようにしながら趣味を目立たせ、言論(笑)活動を展開するようになった。これについて、非グローバル人材に位置付けられた「B」層では、「負け組の俺たちが是非ともやりたい顰蹙行為を勝ち組なのにテレビの前で堂々と展開してくれてありがとう」と容認する声と、「カーを買えないのなら、ミニカーを買って羨ましがってればいいんじゃない」こそB層に対する森永の本当のメッセージだと糾弾する声が混在する。

発言から読み解く[編集]

B層や新自由主義云々の真面目な言論活動と、確信犯的セクハラ行為をテレビカメラの前で連発する『萌え経済学オタク森永の行動は不可分のもので、一体的に分析しないと真の姿はみえてこない。しかし、これを公の場で発言すると爆笑される雰囲気を森永は華麗に醸成した。ここでは、笑いを覚悟の上で、双方の発言を立体分析してみたい。

反ネオリベ[編集]

森永は自由競争至上主義のネオリベに反対していることを公言する。しかし、自分自身が経験したネオリベ的メガバンク合併劇に抗議して、自ら辞表を提出することはなかった。著作でも主張されるのは代案でなく『ビンボー主義の生活経済学』といった適応策であり、『カネ持ちの陰謀』といっても、その後に続くのは「年収格差100倍時代の生き方」という処方箋に止まる。糾弾するだけで代案を出さないでいると、糾弾した内容だけが悪化するというのは世の習いだ。

森永は果たしてどこまで本気なのだろうか?森永は金融資本主義と新自由主義を批判しておきながら、食料新自由主義の権化であるはずのファストフードハンバーガーの景品を蒐集し、飲み物ネオリベ王のコカコーラの缶にセカイ性を認め、金融資本主義の暗部を象徴する消費者金融のモデル女優が写っているティッシュ用紙を集めて鼻をかむ。公開[1]されているこれらをみれば、その真摯さが一般人にも分かってもらえるだろう。これを庶民感覚に土着していて逆に安心できるととるか、批判精神が足りないとみるかの判断は敢えて書くまい。

アキバ[編集]

森永は同時に秋葉原にこそ世界に類例のない先進的文化が存在すると公言する。そのために、自らその手の協会の理事を務めている。

反ネオリベの立場から森永に接近した者は、秋葉原にこそ反ネオリベの前衛があると期待する。そして、見事なまでに裏切られる。そこの女性労働者がネオリベとその権化たる喫茶店の荒波に晒されていても、マンガを覆うカバーを見つめながら、「彼女らは自分の意志でやった。強制性はなかった」と公言するのが常識とされるのが、オタクビジネスの勝者たちが集う真のアキバだ。そもそも9割の住人は、「ネオリベって何?どんなゲームに出るの?」としか反応できない。

漫画を愛してコミケに集まる女子たちは実際にはボーイズラブ系の文化を堪能しに来ているのであって、決して男たちに1日中電気街の「御主人様」へ感謝を捧げに来ているわけではないことはアキバの常識だ。しかし、森永はそんな彼女たちの嗜好を、「フジョシ」の正しい漢字表記が分からないお茶の間の大人たちに向けて説明することはまずない。森永にとって、女の描くホモ小説は「世界に類例のない」先進的文化であってはならないようだ。つまり、実態的にみると森永は男視点の風俗だけを一般社会に向けて説き、女たちの声を封殺している。森永は確信犯的に「フジョシのいないアキバ」を志向している。

森永はテレビ番組で「フジョシ」のいないオタク趣味を宮崎美子ら「婦女子」の前で連発し、一種の芸当にする。森永はこの趣味を公言する著名人の中で最高級の成績をクイズ番組で収めているので、一般視聴者は森永を見て、そのオタクイメージを周囲にまで拡散する。そのイメージは最も悪い意味のものであるが、勝ち組の森永にはマネーを求めて美女が群がり、階級利益を森永に代弁してもらっているはずのB層はファッションB層として嫌われる。A層とB層では女性の反応が大違いになることが立証される場所、それもアキバだ。

9条[編集]

森永は同時に9条信者の平和主義者である。平和接客こそ平和の礎として、マガジン9という9条原理主義のウェブマガジンで「戦争と平和講座」という連載をした。

その中の主張は9条信者にとっての常識が大半であり、それほど特筆性がある訳ではない。いや、ここではアキバ文化のことをタイトルで取り上げていないのが特筆性だ。秋葉原通り魔事件の論考[2]でも、加藤の趣味については口をつぐんで、「メディアは事実をきちんと伝えなかった」としている。

これは一体どうしたことなのだろう。つまり、アキバ文化から生まれる作品の大半は9条など「何それ美味しいの?」とばかりに、女まで動員して戦争や闘争を肯定・煽動するものが圧倒的多数なのだが、そうした文化は表社会で主流文化として語られる価値など一切存在しないと行儀のよい護憲派文化人の前で堂々と宣言したのだ。著書の中でいくらアキバ文化が前衛と称しても、そこに「大人の語るべき」価値など存在しないとアキバ文化を設定したのである。これでは、真の意味でその文化が世界文学として語られる日は永久にやってこない。アキバ系は森永の手によって本来持つ戦闘性を反戦平和の名の下で奪い取られ、社会を主導する「A」層男子の植民地となる。

それでも、アキバ文化の護り手で生産者という森永の地位は揺るがない。かくして、森永の説く9条は「B層の女の子(と男の子)たちから闘争の武器をも奪い取る」凶器と化した。

結論[編集]

森永の主宰する協会の決め文句がコンビニに浸透し、「ありがとう」程度で済んでいた「お客様」への接客文句が「ご×人様」に変わったらどうなるだろう。その瞬間、曲がりなりにも「平等社会」を建前にしていた日本社会が、主従関係の復古した「格差社会」へと確信犯的に変貌したと後世の人たちから受け取られることだろう。建前上はほのぼのした平等社会を維持するためだったと抗弁しても、実態が日本を格差社会化する装置だっただけにまず信じてもらえまい。森永の主張が具現化すると、実際にはそんな社会が到来してしまう。

なのに、森永は左翼団体に受けが良い。それもまた、新自由主義の原理が最も発現するアキバという文化空間を、あたかも反ネオリベの拠点であるかのように装うその姿勢が、どこかの地上の楽園で自分たちの自由原理が最も実現しているかのように見せかけた黒歴史を想起させるからだろう。

脚注[編集]

  1. ^ 森永の本は基本的に経済的弱者を上から諭す本であって、決して自分の経験をもとに書かれた訳ではない

関連項目[編集]