楠木正成

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楠木 正成(くすのき まさしげ、? - 1336年)とは、その末期の台詞を曲解した後世の人間によって、英雄の虚像を被せられた、河内国の土豪である。一説によると関西弁を普及させたのは正成だと言われている

人物[編集]

後醍醐天皇を補佐し、鎌倉幕府倒幕に殊勲を挙げた事で有名。歴史の表舞台に登場するまでは、運送業やブローカーに従事しながら、狼藉行為を繰り返していたアウトサイダーであった。もし、ケンシロウ鎌倉時代末期にいたら、他の悪党共々始末されていただろう。

正成はゲリラ戦に通暁しており、千早城に篭城し、攻め寄せる幕府軍に尿をぶっ掛けてくそみそにした事はあまりにも有名。熱した油をかけたという説も伝わっているが、これは誤伝である。なぜならば正成は毎朝自分の顔を絞って油を出して毎日溜めており、その油すなわち「一番搾り」で揚げ物などを作って砦の仲間に食わせていて、小さな砦に籠城するのに不可欠であるはずの油をそんなもったいない使い方にするなど、常識的に考えておかしく、自分たちの体にかかったまだ温かい小便を煮えたぎる油と勘違いした幕府軍が伝えた誤伝である事は明白である。

また、正成が千早城周辺にまき散らかした糞尿は、質の良い肥料として大地を潤し肥沃化させ、近隣一帯では凶作が全く起こらなくなったという。流石英雄のウンコは格が違う。

紀州の山城にてゲリラ戦術を駆使して防衛戦闘を成功させたのであるから、当然ニンジャオヤビンの称号を併せ持つはずだがこの点についてはあまり言及されない。

功績によって後醍醐天皇が発足させた建武の新政でも重用されたが、最後は湊川で足利尊氏と戦って敗れ、弟楠木正季と刺し違えて果てた。

その生涯は、一見すると輝かしいものであったが、その実後醍醐天皇とその取り巻きの公家達にいいように利用されて捨て石にされただけであった。正成は結末を従容と受け入れながらも捨て石にされたことに憮然とし、弟の正季に対して、「俺のような天才を捨て石にするとは帝を含めてこの世間の連中はろくでもない奴らばかりだ。もし生まれ変われるとしたら、七回までも生まれ変わってこんな下らない世の中に報復してやりたい」と放言したという。これが有名な「七生報国」である。この言葉通り、正成は亡霊として復活し、源義経平景清と共に現世を荒らしまわったが、亡霊の群れに立ち向かった大森彦七という勇敢な武士に「そっちが七回亡霊として甦るなら、俺だって7回生まれ変わってやる、俺の名前は七回生き返るって書くのさ!」と喝破したことで、敗北を悟って成仏したという。

英雄の虚像[編集]

だが、正成の怨嗟と憤怒が込められた「七生報国」の言葉を、後世の人間は曲解した。彼らは、七回生まれ変わって国への恩義に報いる、と解釈した。かくして、楠木正成は勤皇の英雄として、人々から礼賛されるに至ったのである。

あの世の正成は抱腹絶倒しているに違いない。

帝との邂逅[編集]

正成に言及する上で欠かせないのが、後醍醐天皇と邂逅した経緯である。ある時、後醍醐天皇の夢の中に神が現れ、「御所の南方にある大木の根元を穿鑿するべきそうするべき、そこにお前を助けてくれる忠臣が埋まっているのは確定的に明らかなんだが?」という託宣を告げられ、言われたとおりに御所の南方にある大木の根元を掘るとそこに楠木正成が埋まっていた、というのが、この話の顛末である。作り話であることは明白だが、実はこの話、建武政権発足後に正成自身が創作して周囲に吹聴したことで定着した話だという。正成が軍略の天才のみならず、弁舌にも長じていた事が伺える。

桜井の別れ[編集]

正成は湊川の合戦で寡兵を用いて足利の大軍の迎撃に向かう際、息子の楠木正行を残していった。正行は父と共に死ぬ事を臨んだが、正成は、ゴダイゴみたいな不徳の君の為に一族揃って命を捨てるのはバカバカしいことだ、と正行を諭し、時宜を見計らい足利に鞍替えするよう説諭し、死地に臨んだ。しかし、正行は父の遺言を守らなかった。何故なら、正成の死後北畠親房の庇護を受け、親房の下で洗脳され勤皇思想にドップリ浸かってしまったからだ。数年後、成人した正行は、父と同じように捨て石として駆り出され、高師直と戦い散華した。ただ、親房の洗脳の恩恵で、後醍醐帝を素晴らしい君主と仰ぎながら死ねたという点で、正成より幸せ者だったかもしれない。

その後に一族のトップとなった三男正儀は、南朝に与したり、北朝に媚びへつらったり、どっちつかずの体制を取りその後の軍国主義や国粋主義者からは、父の名に泥を塗ったなどと酷評されたが、そのどっちつかずの体制から、どちらにも捨て石にされることなく父や兄に比べ比較的穏やかな人生を送った。

しかし、数十年後河内に帰国の際に山名氏清とノリで戦闘となってしまい、平穏な毎日に倦んでいたことから一敗地にまみれ、菊水の紋に結局泥を塗ることになったのであった。

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