欽明天皇
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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| 基本資料 | |
| 本名 | 敷島 |
|---|---|
| 通り名 | 欽ちゃん、キンキン |
| 職業 | 天皇 |
| 好物 | 仏教、百済 |
| 嫌物 | 若千 |
| 出身地 | 日本 |
| 出没場所 | 飛鳥 |
| 所属 | 朝廷 |
| 親戚等 | |
~ 欽明天皇 について、萩本欽一
~ 欽明天皇 について、高田社長
欽明天皇(きんめいてんのう)は、大和時代と飛鳥時代両方に掛かる過渡期の大王である。父親は継体天皇。母親は手白香皇后。皇子時の名は敷島皇子としてもいいだろう。后には、石姫、妃には堅塩媛、小姉君(ちーねーちゃんと言う意味か?)。息子には用明天皇、部下に殺害された崇峻天皇、敏達天皇、三輪逆にマジギレした、『逆』ギレの穴穂部皇子らがいる。また、娘には推古天皇らがいる。即位時の年齢や亡くなった年齢は『若千』(わかせん)と表記するとジャパネットたかたの電子辞書を購入させられる表記である。
目次 |
[編集] 即位までの経緯
父親の継体天皇に『目に入れても痛くない』ほどかわいがってもらい、さらには「秦大津父を雇え、そうすれば狼とのケンカにも勝てる」という内容を持った、どこかの通信販売テレビ番組的な夢を見て秦大津父を雇い、そして、大王の座に就くときに「頼むから即位してください」と言われて、「なんでこーなるの!」とびっくりして欽ちゃんジャンプをかました彼。しかし、その彼にも即位前後には色々とあった。
[編集] 先代、宣化天皇(箭羅奈胆加大王)の霊の情念との確執[要出典]
先代、箭羅奈胆加大王(宣化天皇)が不覚にも腹上崩御してしまったあと、その墓の副葬品として男の埴輪が作られることになった。その埴輪は、北欧神話で語られる神たちのある種の全身像かイギリス某所の原始的な砂絵がごとくの裸形で、それも同様に男性のシンボルを大きくそそり立たせていたという。原始的な神々を賛美するために作られたそれらは、ある意味呪術的意味合いを持たせた物である。だが、この箭羅奈胆加大王のために製作された埴輪達は、個人の嗜好を追憶する目的がある当時ではかなり進歩的な考えを持った異色な物。あまりにも風変わりだが造形に優れ、即位前の欽明天皇らはその造形美に感心した。しかし、大伴金村、物部尾輿、蘇我稲目、それに欽明天皇自身に顔かたちがそっくりな裸形の埴輪を見たとき、全員、憤怒を示し、埴輪を粉々に打ち砕いてしまった。このことがあって以来、大王(天皇)の墓には埴輪が作られなくなった。
[編集] 即位
あれやこれやのいきさつを通じて、欽明天皇は即位するのだが、その前に安閑天皇未亡人山田后が夫の麻雀でのチョンボを気にかけてか、「哀れみ深いお方ですから、早く敷島皇子は天皇になってください。部下にもそう言うように頼んでおります」と、本来だったらなるべき山田后が欽明天皇の頼みを断って、逆に大王の位に就いてくれと頼んだのだから、彼は驚きのあまり、欽ちゃんジャンプを何度もしてしまうことになった。彼の諡の欽明天皇の『欽』は、その時の欽ちゃんジャンプを覚えていた秦大津父やその息子、そしてその子孫達にそのジャンプが語り継がれていた所から由来したのであろう。
そして、欽明天皇即位。 年齢…
いや、
『若干』(じゃっかん)
[編集] 仏教伝来
仏教伝来年は、公式扱いされている史書では552年にあたる年となっているが、別の史書では538年にあたる年となっている。あれ?どうしたことなんだろうか…それも公式扱いの史書の方が間違っているのか…。欽明天皇の人生は色々と年次にズレがあるからパラレルワールドになっていて、それが何となくユーモアやギャグと通じる物があるのかも…
[編集] 経緯
経緯としては---
今までの状況では、箭羅奈胆加大王の悪ノリの影響も含めて倭国が停滞すると悟ったのか、その倭国をレベルアップするための文明の利器を追加しておきたいと思った欽明天皇だった。
それで、いつものごとく百済に頼み事をした。
その際、このようなやりとりがなされたらしい。[要出典]
欽明天皇 「百済の王様、百済の王様、あなたがた百済と我が倭国は父の大王がお世話になって以来の仲の良さなんですが、 ここ最近、どうも我が国の発展が芳しくなく、その解消には何か新しいものが必要になってきます。どうすればいいんでしょうか」 百済・聖王 「あ、倭国の大王殿、とりあえず今まで通り援軍の派遣を続けてくだされば、 民を治めるための整理方法や王様の権威を高めるための臣下の位付け方法… それにもう一つ… あ、ちょうどいいのがあった。仏教です。仏教。仏教には仏像というのがあって、 これを寺という建物の中に入れてそれを拝むと、とてもいいことがあったり、 また仏典があって、これはとにかく頭がさらに良くなるしより多くの文字も覚えられる、ということで、 民の整理方法と臣下の位をより細分化する方法、それに先ほどの仏教の三点セットを贈ります。 お代は…えっと、うち、新羅とまだ事を構えておりまして… まあ、今まで通りに対・新羅の援軍をこちらにくだされば、金銭のやりとりとは関係なく差し上げます」 欽明天皇 「あ、仏教などの三点セットを使いこなすためのガイドをよろしくお願いいたします」 百済・聖王 「OKですよ~」
かくかくしかじかで、仏像や経典など仏教関連グッズが倭国にもたらされた。
欽明天皇はそれらをとても喜んだが、仏教に関しては群臣の大部分は困惑し、そして仏像は捨てられてしまったという。
しかし、群臣の中でも少数派だった蘇我稲目は欽明天皇の考え方に賛成し仏教を積極的に受け入れている。仏像を救出したのも彼である。
それを見たのちの用明天皇も葛藤する父を格好いいと思って仏教に次第にのめり込んでいくという行動が見られた。
―――すなわち、人生万事塞翁が馬ということで、それにかこつけて後に稲目に嫡男が産まれたとき、『馬子』[要出典]と名付けたのは意外と知られていない。[要出典]
[編集] 腐れ縁
そして、欽明天皇はますます百済との関係を深めていくが、百済の王族の皆さんが色々と注文を続けていくうちになんかドロドロに巻き込まれてしまい、特に百済の聖王が不慮の戦死をとげて以降、さらに巻き込まれがエスカレートしたので、欽明天皇はおのれの人の良さを恨んだ。そして、群臣に秘密で仏教を信仰し続けていたらしい。それには、仏像を川から救い出した蘇我稲目、そして、仏教を信仰するのが大好きな若者へと育った、後の用明天皇が協力を惜しまなかったらしい。 要するに、百済との関係、仏教信仰との関係、蘇我氏との連携、おのおのが深まることが、欽明天皇の在位期にあったことで、まさに『腐れ縁』と呼ぶに相応しいことではある。
[編集] 欽明天皇時代のネタ
まさに欽明天皇はコメディアン的な名前の一文字の『欽』(参照:愛川欽也、萩本欽一)が付いているため、ユーモアのセンスがあったのかもしれない。ただ、これには欽明天皇本人に関係ないネタも含まれることは承知していただきたい。
- ライバル・新羅の人が尻フェチ(相手は男にもかかわらず)
- 「久須尼自利」という悔しさを表す表現がうまれた。
- 群臣のうちの一人がコメディの脚本を執筆することになり、ギャグシーンについてその群臣にアドバイスした。[要出典]
- 船と馬を百済からもらったとき、「ウッーウッーウマウマ」と踊った。
[編集] そのほかにやったこと
暦や薬・医術や占いの技術を発展させたりしたのは当時の倭国としてはなかなかの文明的進歩である。織物の染色技術もちゃっかり高句麗から頂いたのかもしれない。伎楽の元となる人達も受け入れて文化をブラッシュアップしたのかもしれない(ただ、欽明天皇の取るユーモラスな態度は伎楽者さえも上回ることはできなかった)。農民の名簿の本格的な物を作ったのも欽明天皇の功績とする人もいるようだ。
[編集] ユーモアとペーソスのうちのペーソス
確かに、見ていると欽明天皇の生涯は明暗とりどりの物だったようだ。箭田珠勝大兄皇子の夭折や、百済の王様の不慮の戦死、そして最晩年に病の発作をうんでしまう新羅とのいさかい…せっかくの高句麗との関係強化しようとした矢先の発作だった…、が、欽明天皇の生涯に一筋のしかしぬぐいがたい悲しい影を刻み込んでしまった。
[編集] 没時に関するズレ
欽明天皇は571年、病の発作で崩御したようだ。しかし、影の薄い敏達天皇が后をもらったのは敏達天皇が即位してから4年以上も経ってのことで、崩御したとされる年よりも2、3年は長く生きたのかもしれないという一部の推測[要出典]もあり、真相は不明。ただ、それでも使者受け入れ失敗の報告をのちの用明天皇から受けた、と言うようなことで、あっさり崩御したとのことであるようだ。[要出典]そのため、欽明天皇の亡くなったときの年齢が推測つかなくなっている…そう、その時に使えるあの魔法の言葉…
『若千』
いや、
『若干』
である。
要するに、欽明天皇が亡くなったときの年齢は曖昧なままであるようだ。そのもう一つの原因は、安閑天皇と箭羅奈胆加大王(宣化天皇)の在位記録を抹消しようとしたことにもあるかもしれないが。