毛利元就

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

「さすがの俺もこやつとは知恵合戦はやりたくなかったな。デモ戦う前にくたばったのは幸運だがな。」
~ 毛利元就 について、織田信長
「耄碌じじいめ・・・。さっさと上洛せんかい、ヴォケ!!」
~ 毛利元就 について、足利義昭
「そんなお前も本能寺!!!」
~ 毛利元就 について、明智光秀
「毛利元就の話をしたいならお門違いだ。本題に入ってもらおう。」
~ 毛利元就 について、ゴルゴ13
これが毛利元就公・・・な、なんじゃ!胸にクソがあるではないか!(本人談)

毛利 元就(もうり もとなり、明応6年3月14日1497年4月16日) - 元亀2年6月14日1571年7月15日))は、戦国時代のサムライ。若い頃は兵など所詮捨て駒よ!が口癖の血も涙も無い策略家であったが晩年は愛嬌のあるボケ老人と化した。しかしボケ老人化は愛嬌を取るための演技または照れ隠しだとも言われている。これ以上版図を拡大せず、毛利家の安泰を維持することに心血を注ぐようにという遺言を残し、息子の隆景や孫輝元はそれを忠実に遵守し、消極的な行動に傾斜しサルの犬に成り下がった挙句三河のタヌキにうまいこと欺かれて領土を大幅に減らされた。

四国の長宗我部、九州の島津と並び、西国の田舎大名の中ではそこそこの認知度を持つ三大名として知られており、元就は大河ドラマで主役に抜擢された事、戦国BASARAに登場して腐女子の信者を大量に獲得した事で他の二名に大きくリードをつけた。

尼子の蟒の大内の蝮に挟まれて萎縮しているだけの脆弱なカエルであったはずが、いつの間にかマングースに変貌して二匹の大蛇を食らってしまった。一方で両生類時代の繁殖力の高さを維持し、子種をばら撒き続けた。晩年は僧籍に入りながらキリスト教に傾倒した二又ヤリチン大名に色々と悩まされたようである。

オクラと饅頭が好物でよくつまんでいたという。また徳川家康に匹敵する精力絶倫でも知られる。死後は妖怪となって後世の様々な人物に憑依した

以下、本人による自己紹介

目次

[編集] 少年期

わしゃぁのぅ~たしか安芸吉田郡山…今で言う広島、かの?の…え~と田中さんだったかの?とにかくちっぽけなお家に生まれたんじゃ。5歳の時母上が、10歳の時父上が世を去りワシは孤独な少年時代を味わいながらも孤独感と必死に戦ってきたんじゃ、それに比べて今時の若い者は…(以下延々とボヤキが続く)

[編集] 青年期・前半

余には兄と弟がおった。毛利興元相合元綱。しかしどちらも余の足元にも及ばぬ愚物よ。兄は戦に疲れ果て酒浸りの果て昇天し弟は疑心暗鬼に捕われ余に謀反を起こし成敗された。兄弟など所詮踏み台よ!

[編集] 青年期・後半

若かったころの元就。

西の周防の大内義興…あれは金持ちのクセに銭ゲバで抜け目がない(注・元就の偏見かと思われる)奴でのう…わしは常に大内にアゴで使われてきた……

北の出雲の尼子経久…あれはわしの生涯の宿敵でもありわしの決して及ばぬ男であった…わしは経久にさんざん痛い目にあわされて…大内と尼子に挟まれて…あの当時の中国地方は戦国一の激戦区だったじゃろうな…まったくそれに比べて今時の若い連中のひ弱そうな顔ときたら…

 

今時の若い連中は根性が足らんのじゃ!オクラを食え!オクラを!!

[編集] 壮年期

余は陶晴賢を筆頭に多くの者を騙し討ちにかけて中国地方を毛利の旗で埋め尽くした。何?もっと詳しく説明しろ、吉川小早川乗っ取りとか井上元兼粛清の事も洗いざらい話せだと?そんな事は最早忘れたわ


貴様は今まで食ったオクラの数を覚えているのか?

[編集] 晩年期

晩年期の元就。今にも死にそうな顔をしている。

数十年間に及ぶ尼子との戦いもようやく決着がついてなんとか山陽山陰を統一したんじゃがのぅ、尼子攻めの最中わしの最愛の嫡子隆元がようせt…た…


隆元~~~~~~!!!わしの隆元ぉぉぉぉぉ~~~~!!!


(以下元就が発狂したため強制終了)

[編集] 元就の死後の毛利家

元就が死ぬと、元就によって酷い目に合わされてきた大内、尼子の遺臣達が捲土重来を期すべき策動を開始した。その旗頭となったのが常軌を逸したマゾヒストぶりに定評のある山中鹿介である。鹿介は上洛し、覇権を握りつつあった織田信長と折衝を行い、中国地方攻略を任された、信長股肱の臣の一人である羽柴秀吉の後ろ盾を得る事に成功した。尼子家の生き残りである尼子勝久を擁立した鹿介によって統率された大内、尼子残存兵は頗るつきに精強ではあったものの、後ろ盾の秀吉はどうせ烏合の衆だし役に立たんだろうと、捨て石も同然にぞんざいに扱った。そのため鹿介は最終的には数で圧倒され壊滅、鹿介は捕虜にされるが数度にわたって脱走を試み一矢を報いようとするも殺害された。

その後、小早川隆景の尽力により豊臣政権下で優遇されたが、あまりに豊臣政権と癒着しすぎてしまったため関ヶ原の合戦で西軍に属してしまい、領土を大幅に減らされたのは周知の事実である。輝元の無能さばかりが強調されているが、隆景が「過ぎたるは尚及ばざるが如し」を逸してしまったために招いた失態だ、というひねくれた指摘もある。少なくとも、輝元はじめ長州藩士達はそう思い込み、一種の逆恨みとも言える怨嗟を隆景に抱いた。おかげで隆景の霊廟はあまり立派に創建されることはなかった。

[編集] 三本の矢の逸話

ある時元就は三人の息子隆元、元春、隆景を呼び出し矢を一本与えてこれを折ってみよと命じた。息子達が難なくこれを折ると元就は今度は3本の矢を与えて折ってみよと命じた。一本の矢は脆くとも三本合わさればそう簡単には折れない、という教訓を息子達に与えようと思っていたのだが、猛将である次男吉川元春力ずくで3本の矢を纏めて折ってしまい、知将である三男小早川隆景『一本ずつ折れば例え3本でも造作も無い事』と言って一本ずつ矢を折ってしまった

一気に場の空気は白けてしまったが空気の読める人だった長男隆元はその気まずい雰囲気を察すると渾身の力を振り絞っても三本の矢を折ることが出来ない演技を見せ、元就を感心させた。元春も隆景もこれを境に、例え武勇の誉れ高く知恵者であっても、空気が読めなければ生き残れないという事を学んだ。

だが隆景は「失礼ながら父上、今気づいたのですが、もしかして元ネタはチンギス・ハーンですか?あれは矢が7本だったからうまくいったのであって、たった3本ではこうなりますって」と忠告した。何を勘違いしたのか、これを聞いた元就は71歳になるまで子作りにも励み、さらに7人の息子をもうけたのであった。

しかし、改めて妾腹の息子七人を集めて行った際は、第九子が未だ乳幼児だったせいで七本の矢以前に一本の矢の時点で挫折を味わい、絶望のあまり天寿を全うしている。

[編集] 元就の子達

[編集] 元就の可愛い捨て駒達

「可愛い捨て駒…何と矛盾した言葉か!」
~ 毛利家臣団 について、毛利元就
  • 元就に馬車馬のようにこき使われつつも彼に忠誠を誓ったマゾヒスト達。渡辺通に至っては父を元就に殺されておきながら、彼のために命を散らした。

[編集] 毛利元就に憑依された人物

[編集] 関連項目

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「毛利元就」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「毛利元就 (大河ドラマ)」の項目を執筆しています。
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クソ記事に注意!!
この記事はクソです。筆者自身がそれを認めます。
この項目「毛利元就」は、執筆者自身は結構気に入っていますが、どう見てもクソの山です、本当にありがとうございました。ダチョウ倶楽部に訴えられないうちにとっとととりかえることをお勧めします。 (Portal:スタブ)