毛利敬親

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毛利 敬親(もうり たかちか、文政2年2月10日1819年3月5日) - 明治4年3月28日1871年5月17日))は、長州藩(現在の山口県令制国名だと長門周防)最後の藩主にして、自分が実行型のリーダーではないことを早くに悟り、部下に全ての決定を「そうせい」(そのようにしろ)といって任せたことで、結果として大成した人物のことである。毛利元就の子孫。彼に取り付かれていたという噂も存在する。

[編集] その治世

藩主になった時、長州藩は借金地獄で首が回らなくなっていた。彼はどうしたものかと悩み、名臣と呼ばれることになる村田清風を雇用すると、彼のいうことにほとんど反対することなく、「そうせい」で済ませて政治を任せてしまった。

その結果、倹約や政治財政改革で藩の借金はほとんどなくなった他、下の者が自由に政治に介入できる雰囲気が形成された。これが幕末の動きに直結する。彼が引退すると今度は周布政之助を登用、そしてさらには開国論者の長井雅楽も起用した。これによってペリー来航によって騒いでいた江戸幕府天皇には歓迎されるのだが、今度は桂小五郎(のちの木戸孝允)や周布が反対、敬親はあっさりこれまた見解を変更、藩の方針は攘夷になった。

そんな中、中心地を田舎のから少しはましな山口へ移し、下関にてイギリスなど四国艦隊へ攘夷を実際に試みてみるが(下関戦争)、これで完敗したためまたしてもすぐ方針を変えた。

8月18日の政変で京都を負われ、禁門の変にて幕府を激怒させると、敬親はすぐ恭順の意志を示し、謹慎と家老斬首で事をなだめた。しかし直後、高杉晋作によるクーデターが起こり、切り替えの早い敬親はこれまたあっさり方針を変更、藩は倒幕を目指すようになるのである。

その後、藩の兵力の近代化と薩摩藩(のちの鹿児島県)との同盟を結び、第二次長州征伐で勝利する。そして朝廷から倒幕指令を受け、大政奉還徳川慶喜が宣言すると王政復古のクーデターで倒幕を正当化、これで面倒なことは終わったと敬親は山口に帰還し、明治維新後に版籍奉還へ協力したのを最後として、政治から引退した。

[編集] 評価

以上の通り、傍から見れば主体性があったのかどうか疑わしい敬親の政治人生であったが、これほど他の人に任せただけで成功した事例も珍しい。

自己を含む人の能力や適性を客観的に評価でき、かつそこそこに大局を見すえる能力があった一方、君主としての威厳について問題のある人物と評することが出来るだろう。

[編集] 逸話

そんな敬親だが、高杉晋作など藩士からは慕われていたようである。 木戸孝允などは版籍奉還のおりに、敬親から「では、そちとはもう主従でなくなるのか」と言われ不覚にも涙していたりする。