池田亀太郎

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池田 亀太郎(いけだ かめたろう、1862‐?)は日本植木職人兼土木作業員、写真家画家明治から昭和初期にかけて、実に波乱万丈な生涯を送った。は実業家の池田亀三郎

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出歯亀事件[編集]

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1908年3月31日、日が落ちてあたりはとうに真っ暗である。焦燥というか嫌悪というか、得体の知れぬ感情に突き動かされて、亀太郎は町をさまよっていた。を毎日飲んでいるとやってくる、二日酔いに相当する時期、あれが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果起こした暴力沙汰や不真面目な仕事ぶりがいけないのではない。また背を焼くような借金がいけないのではない。いけないのは、あんなところに湯屋があったことだ。加えて、あんなちょうどいいところに節穴があったせいだ。周りのものとうまく折り合えず、植木職人として食っていくのが難しくなってきていた彼にとって、心の贅沢が必要であった。かといって金があるわけではないので、ただで見られる美しいものを探さねばならなかったのだ。そんなときに、あの湯屋を見つけた。いや、厳密に言うとその何年も前から覗きは習慣になっていたのだが、彼にとって酒に代わる唯一の趣味なので仕方ないことに変わりはなかった。

うむ、絶景だ

22日夕方。その日彼はやはりおっぱいのことを考えていた。一体彼はあのおっぱいというやつが大好きなのだ。の絵の具をチューブから搾り出して固めたような単純な色と、それにアクセントを加えるあの突起も、それからあの丈の詰まった紡錘形の格好も。しつこかった憂鬱が、そんなものを一目見ることで紛らされる――心というやつは、またなんという不可思議なやつだろう。いや、正確に述べるならば次第にそれだけではとても足りなくなって、たまに気に入ったおっぱいをおっかけたり、自分のしたい格好をして出てみたりいろいろだったが、まあいい。

そのおっぱいはたとえようもなくよかった。色といい形といい、大きさは片手に少々余るくらいで、握ればその温かみが身内に染みとおっていくように思われた。実際あんな単純な体の一部が、ずっと昔からこればかり探して来たのだといいたくなった程自分にしっくりしたのは不思議だ、と彼は思った。彼はもう軽やかに興奮に弾んで、一種誇らかな気持ちさえ感じながら、おっぱいのことなど思い浮かべて物影に潜んでいた。おっぱいが現れると間髪をいれずに飛び掛り、空き地に引きずりこんだ。

その感触こそ常々彼が尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの形は全てのよいもの美しいものを慎重に計算した形であるとか、そんなことは考えていなかった。ただ無我夢中であった。何がさて彼は間違いなく幸福であった。先日のことで、覚えているのはそのくらいだった。

――何処をどう歩いたのだろう、亀太郎はいつの間にか湯屋の前に立っていた。のぞき穴はなかった。あのことがあってから避けていたが、そのときの彼には易やすと入れるように思えた。「今日は一つ入って見てやろう」そしてずかずか入っていった。

然しどうしたことだろう、彼の心を満たしていたおっぱいたちは段々逃げていった。「きゃあ、何よ、この出っ歯」と叫ぶのもいた。騒ぎは大きくなり、池田亀太郎、35歳は逮捕された。

どうもあの時自分はあのしっくり来るおっぱいのに手ぬぐいを突っ込んで殺したらしい、と彼は思った。そんなことは覚えていないが、ともかく早く家に帰りたかった。彼は適当に自供した。担当の刑事は嬉しそうだったが、亀太郎はおうちに帰してもらえなかった。彼は有罪で無期刑に処された。5年後に恩赦により釈放されてやっとおうちに帰ったが、時すでに遅くおうちは無かった。

転身[編集]

出所後の亀太郎は趣味を慎み、以前と同じように植木職人をやったり土木作業の手伝いをしたりしてはした金を稼いで暮らしていたが、「女人殺しの出歯亀」は新聞に大きく取り上げられていたため、あちこちで後ろ指を差された。耐えられなくなった彼は転居および転職を決心し、写真術を学んだが、己の性欲芸術に昇華させようというような殊勝な考えなど全くなく、人にばれないように趣味を続けようと思っただけだった。じかにおっぱいを見るために湯屋の前に長時間じっとしているのは危険だから、覗き穴から素早く2、3枚撮影して、後で楽しもうという魂胆であった。しかしながらこの企みはことごとく失敗に終わった。第一撮影のための機材はでかいし、フラッシュは強いし、撮ろうとすると湯気でレンズが曇って、全く使い物にならなかったのだ。

池田亀太郎 作、伊佐次八郎肖像。庄内地方の稲作改良の功労者らしいが、それがどうしたというんだ。

何とか東京で捕まらずに済んだ亀太郎は、趣味と仕事の両立をあきらめ、山形県の酒田というところで写真館を開業した。思えばこのときヌードでも撮れば大っぴらに趣味を満喫でき、その上時代の寵児にもなれただろうに、彼はそうしなかった。ヌード写真なんてものは想像もつかなかったし、「きれい、きれいよ!」などという呪文も知らなかったから。彼は主に地方の名士の依頼を受け、写真をもとに肖像画を制作した。みな一様に業突張りの顔をした髭面親父の顔をせっせと模写する日々を送るうち、亀太郎のあれほど旺盛だった性欲は目に見えて減退していった。それだけならむしろいいことかもしれないが、単調な作業の連続は、彼から生きる意欲すら奪っていったのである。そんな時、彼は一枚の絵に出合った。高橋由一の『鮭図』であった。

つるされたを描いただけだというのに、それは亀太郎の心を強くひきつけた。切り口からのぞく鮭の身は鮮やかで、えもいわれぬ美しさだった。日本人によって描かれた初の日本人らしい油絵といわれるこの作品を見るうちに、彼の心にかつて感じた軽やかな興奮が帰ってきた。「よし、わしも書いてやる」彼は頼まれていた肖像画そっちのけで『塩鮭図』制作に取り掛かった。彼は無我夢中で外に出ると、近くの民家につるしてある鮭を手早くスケッチし、由一の絵を手本に色をつけていった。次第に興奮が高まると、彼は何層にも渡って塗り重ねては荒々しく削り、色を付け加えてはまた削った。その度に彼の鮭は少しずつ印象を変えた。手本を見る余裕などなくなっていた。やっと出来上がったそれは、上出来であった。鮭の身の色彩は、回りのガチャガチャした色の諧調を吸収し、カーンと冴えかかっていた。変にくすぐったい気持ちが彼の顔をほころばせた。

しのんでいった神奈川での由一展で自分の『塩鮭図』を目にしたとき、亀太郎は戦慄を抑え切れなかった。私は認められた。つまらない写真家兼肖像画家の私が、由一先生の隣に並んでいるのだ!これからは弟と同じように先生と呼ばれるだろう。もっといい仕事も入ってくるだろう。そう思うと思わず涙がこぼれた。はやる気持ちを抑えつつ彼は絵の下の金属製の札を見やった。

『塩鮭図』 高橋由一作

間違えるにしても、あんまりであった。

破戒[編集]

屈辱のあまり、抗議する気力もなくした彼は、再び元のつまらない肖像画家に戻った。くる日もくる日も髭親父。おやまた今日も髭親父。今日もあしたもあさっても、そのまた明日も髭親父。ある日ついに、彼の中で何かが切れた。どうせわしはつまらん男だ、何をしたって成功しないまま死ぬんだ、どうせなら快楽に生きてやる、これまで怖くてできなかったこと、全部やってやる。カメラを叩き壊し、絵筆をへし折り、彼は夜の闇の中に飛び出した。ためらうことなく最寄の湯屋に赴き、板障子の穴にそっと目を押し当てた。

やらんでもええのにまたやった。

そこはまさしくエデンの園であった。おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい、おっぱい・・・・・・。おっぱいがいっぱいだった。彼はその夢のような光景を堪能し、やがて逃げ去った。以後、初老の男が湯屋周辺を徘徊するのが庄内地方のあちこちで目撃されたが、特に誰も気にしなかった。しかし1933年5月に逮捕され、ついに池田亀太郎は社会から退場したのだった。新聞は25年ぶりに消息の知れた出歯亀を大きく載せたが、それっきりだった。

右にある、尻尾が上になっていて、由一のより若干地味なのが、池田亀太郎の『塩鮭図』。

2009年2月、山形県鶴岡市で開かれた「庄内の洋画黎明期」展で、『塩鮭図』が亀太郎の作品として、高橋由一の『鮭図』の隣に並んだ。彼の死後だいぶたって、ようやく悲願が達成されたのである。由一の鮭に比べやや小ぶりで、つるし方も開き方も異なるが、その精密で真に迫った驚くべき描写に、見る人は思わず息を呑んだ。それは確かに独創性には欠けるが、画家の熱意と高い技術が十分うかがえるものであった。間違えられるのも無理はなかった。じっと鑑賞していたある高名な美術評論家が、感動に頬を紅潮させ、人々の静寂を破って叫んだ。

「パクリや!」