出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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(ほう)とは、人々の行動を制限すべく、特定の権力により提示された複雑怪奇な文章である。天にまします全知の神の手によるものでないため、しばしばその欠陥が指摘されている。以下はそのテクストの秀逸なパロディである。

法とは何か

法は、社会を維持形成するための客観的秩序であるかのように見られることがある。しかし、実際には客観的な規範というものは存在しない。民主主義社会では、多数派の合意によって少数意見は最終的には切り捨てるという最小限の合意に基づいて成立している(もっとも、それさえアウトサイダーは了承した覚えはないかもしれない)。確かに今の政治には、堅気や支配者集団ではない人間も参加することができる。しかし、現実に社会を動かしているのは、パワーエリートの力である(彼らはマスメディア政治家を自在に操作していると言われている)。したがって、法は、実際には、当時の支配者集団の意向を命令の形で発したものであり、彼らの実力行使基準を一方的に公布したものである。また、まだ選挙権などの参政権が十分保障されていない人たちに対しては、「若造は黙っていろ」と、ここでも「若造」は「黙」るべきだという一面的な価値観を押し付けたうえで、支配者集団は法の遵守を強制する。これらは政治を1つの方向に持っていくための消極的暴力であり、その資源は武力(肉体)と学問である。法を犯した場合、彼が支配者集団であるときにはもちろん、支配集団ではない集団や集団に属していない個人も、社会的逸脱行動であるというレッテルを貼られ、制裁が与えられる。私たちは一般的には暴力を嫌悪するが、法が客観的・絶対的真理をあらわすものと錯覚したり、あるいは客観的秩序であるという思い込みや秩序を守れる個人や集団への信頼があったりすることから、法に基づく暴力の発動に一定以上の理解を与えることが多い。法を順守しない集団や個人は、その支配者集団が属する世界から排除される。

このように考えると、「犯罪者」の立場はしばしば悲劇的である。支配者層はアウトサイダーを追放することで自分たちの利益を防衛することで足りるが、「犯罪者」は行く先々の法を遵守しないと、同じような事態に見舞われる。部外者が新たな共同体を結成し統治しようにも、今や世界は国々によって分割されており、実際には自分たちで新しい世界を作ることはできない。こうして、新たに社会に参入するもの(生まれたばかりの子も含む)は、「法を守ることに同意した覚えはない」という反論を許されずに、どこの土地の支配者層に従属するかという選択のみを迫られることになる。この解決には、ある程度の永続的資源と領土を定期的に部外者に割譲するという方法がある(永続的資源は、その新世界だけで賄っていけるようにするためで、また定期的割譲が必要な訳は、彼らは彼らでまた秩序を作るかもしれないし、新規参入者は常に誕生を続けるからである)。しかし、現実的には、支配者集団が部外者に対して自分の縄張りを犠牲にして便益を図る必要性はないため(彼らの権力に較べ、圧倒的多数の場合には個人の実力は限定的)、そういうことはないと考えられる。 部外者、とくに「犯罪者」の場合にはそのようなヒューマンネットワークを形成する能力や技術を与えられていないことが多く、悲劇のままに終わってしまうことも多い。

支配者集団の論理が絶対に正しいとは限らないということや、暴力の正統性もまた人為的に創出されていること(たとえば、犯罪者を排除するべきという価値観でさえ、「犯罪者」は共有していない場合)など、法に基づく暴力行使にも問題点は見られる。とすれば、法によって個人の内面まで拘束することが許されるのか(精神の自由)が問題になる。それが悪法である可能性や、法が基本的に支配者や多数派の論理にすぎないことを考慮すれば、それを物理的にはともかく、精神的にまで押しつけることはおかしいというふうにも取れる。

たとえば、次のような問題が考えられる。

  • 近代以前の君主制における法の正統性について論じなさい。
  • AはBに突然刃物で襲いかかり、Bはそれを防ぐために物理的暴力の行使で撃退した。その結果Aはけがを負った。どちらが悪いか。また、国家あるいはAはBを反省させるべきか。

権利と犯罪

支配者は、法という形で被治者に対して指示を与える。実力に自信があり、したがって統率できる集団は、個人や集団の自由や権利を広範に認めることができ、これに対してそうではない集団は人権の保障を緩めにして、自分たちの暴力の行使の方を広範に認める。権利は従来、支配者が、被治者の自分たちへの従属への見返りとして与えるものであり、今では天から与えられたものであるとみなされるようになったが、これは支配者に服従しない勢力との衝突での犠牲や「犯罪」を防ぐためにうやむやにされた面もある。近年、犯罪は、アウトサイダーによる支配者集団の権力の黙殺という面だけではなく、支配者集団であっても、法は自分たちが決めた実力行使基準にすぎないものと判断すれば、自分が制裁を受けることと引き換えに、手を染めて利益を獲得しようとする面も見られる。

たとえば、次のような問題が考えられる。

  • 「犯罪者には人権は必要ない」という意見について論じなさい。
  • 暴力団の指導者責任について論じなさい。
  • 自分の欲求を満たすために犯罪をするということについて、論じなさい。

暴力とは何か

暴力とは、単に物理的に暴行を加えることだけではなく、精神的な暴力や、社会で特定の集団を不利益に陥れたり、差別したり、強制したり、排除するようなことをも言う。たとえば、教育で言うならば、支配者集団の押し付けた学問や道徳を修得しているかどうかが、試験で要求され、それで大学や学校の選抜が行われる。支配者集団に反抗的な勢力は上級学校に進学できない仕組みとなっており、あるいは支配者集団への従属を強要する体制となっている。暴力は、法によって正当化が行われる。また、教育を通じて、人々を支配者集団の都合がよいように、あるいは遵法意識(=支配者集団の言いなりになるということ)を普遍的真理であるかのように洗脳する。暴力の資源は肉体と学問である。肉体、学問ともに地域共同体の成功体験の蓄積ではあるが、それも絶対的なものではなく、ただの合理性のあるステレオタイプにすぎないという側面も持っている。人間は合理的に行動すべきというのも一面的な価値観であるから、従う必要はないが、大抵の者はより高い可能性を持つ方を信頼する。

(以下省略、オハグロティウス著『失笑ゲバゲバ80分』より引用)


今日まで多くの人間が、自身が極めて不完全な存在であるにもかかわらず、より完全な法を創ろうと試み、そして失敗してきた。そして今、この記事の執筆者とこれを読んだあなただけが真理に到達した。論を脇道にそらせ、法そのものを語らないことこそ、悪法をつくらないための究極の道なのである。