源範頼

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源 範頼(みなもとののりより)とは源氏の一族で、源頼朝の弟、源義経の兄。伝記によるととても地味で素朴な凡人だったと伝わるがそれは大嘘であり、実際は毒蛇の牙とも称される冷酷さと、悪魔の知恵に匹敵する狡猾さを持ち合わせた身の毛のよだつほどの腹黒野郎である。

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生涯[編集]

生い立ち[編集]

源義朝の六男として生まれたが母親が売春婦であったせいで、その出自について嘲笑され、後ろ指を指されることがあった。母親が男共の肉便器として淫らな姿を晒している様を目の当たりにしてきたせいもあってか、この幼少時代の経験は範頼の人格形成に暗い影を落とす事になる。幼少時代は甲斐で武田氏と共に平家打倒の為の活動をしていたと言われるが、甲斐の武田信義は「そんな話初耳だぞ…」と後に語っている。つまり幼少期に何をしていたか全く分かっていないのである。一説によるとマフィアの親玉であり、源氏の再起軍の軍資金は彼が秘密裏に兄頼朝の手元に届くように流していたと言われる。そしていつの間にか頼朝の平家討伐軍に加わっていた。本当に誰も気が付かないうちにいつの間にか仲間になっていたため、諸将はあいつ幽霊なんじゃないかと挙って噂しあった。表向きには素朴だが人当たりのよい好青年で通っていたが、兄頼朝だけは得体の知れない不気味さを感じていた。

源平合戦[編集]

果たせるかな頼朝の不安は的中した。範頼の母親が売春婦であると言う、一番触れてはいけない彼の過去について、一部の心無い御家人が陰でその事を卑下したり嘲笑ってしていた事があったと言う。だが実際は嘲笑っていたわけではなく、売春婦の息子と言う範頼の出自を哀れんでいただけなのだが、その御家人達はその数日後変死体で発見された。明らかに範頼がやったとしか考えられず、しかも翌日弁解のために頼朝の目の前に現れた範頼の手などには返り血がベッタリとへばり付いていた。確信犯とか言いようがなかった。梶原景時などは範頼の粛清を提案したが、さすがにその程度のことで実の弟を粛清するわけにもいかないので頼朝は不問に処した。景時も「触らぬ神に祟り無し」と言う言葉に倣ってかそれ以上言及する事はなかった。

しかし空気の読めないわがまま坊ちゃんである弟の源義経が「範頼兄さんって売春婦の息子なんだよね、年齢では兄さんの方が上だけど、格では僕のほうが上でつねm9(^Д^)」と、とんでもない事を言ってのけた。頼朝は殆ど生きた心地がしなかった。このままでは兄弟で殺し合いになるんじゃないかと心底震えた。

すると範頼は頼朝に「兄弟の格を見せつける為にも、義経に大工の馬引きをさせてはどうか」と提案した。頼朝はそれまで範頼のことを凡人のフリをしたイカれた危険人物だと思い込んでいたため、この機敏さに感心すると同時に再度恐れを抱いた。この時範頼が頼朝に義経を甘やかしすぎ、ついでに妻の政子の家である北条家を調子に乗らせすぎという類の苦言を遠まわしに嫌味っぽく言ったのも原因であろう。


1183年の野木宮合戦において、勝敗が決して逃走する残党に容赦なく追い討ちを仕掛けて虐殺すると言う、裏に秘めた残酷さの片鱗を早くも垣間見せる。1184年の宇治川の戦いでは、御家人との先陣争いが乱闘にまで発展した為兄頼朝の怒りを買ったといわれているが、実際はちょっと諫言した御家人を範頼が無言のまま手討ちにかけたことが原因であった。強襲などを得意とする弟義経とは異なり、範頼はジワジワと追い詰める戦法を得意とした。義経のような鮮やかさこそなかったが、範頼は無言のまま時には笑顔でそれらの戦術を展開したため、敵も味方も恐れさせた。

一ノ谷の戦いでは、義経の奇襲によって混乱し、逃げまどう平家軍を待ち構え一網打尽にした。仕留めた敵の生首でサッカーやボーリングをやったため周囲の顰蹙を買ったが、範頼はつい地が出ちゃったんだ悪気はなかったと適当に言い訳をした。この時、梶原景時は勝手な行動ばかりする義経を諌めるようにと進言したが、範頼は「お前、俺に口答えできるほど偉い立場か」と、景時のXXXXXを握り締めながら脅した。しかし戦後には兄頼朝に対し、義経は勝手な行動ばかりしており周囲の反感を買っているから恩賞は一切与えるなと景時を脅して進言させた。本人の口からではなく、景時に言わせたのがいかにも悪知恵の働く範頼らしいと言える。これにより頼朝と義経の対立は決定的なものとなった。

九州での最終決戦の際、範頼は屋島の戦い壇ノ浦の戦いには参加せず、平家の拠点となる九州の砦などを攻め落とし、捕虜にした少年達をファックして酒池肉林を味わった。これにより範頼はゲイであることが発覚した。母親が売春婦であった為女嫌いだったと思われる。さらに自分一人が鬼畜だと思われないように、一緒にいた土佐坊昌俊に狼藉、輪姦行為を強制して行わせた。後に土佐坊昌俊はそのことで鬼畜と責められて鎌倉にいるにいられなくなって義経討伐に向かわされ犬死にしたが、範頼は知ったこっちゃないと開き直った。戦後、頼朝から戦後処理を頼まれた範頼だったが、範頼はあえてそれを義経にさせるように仕向けさせた。結果範頼の企んだとおりに事は進み、頼朝は義経の身勝手に激怒した。

合戦後[編集]

奥州藤原氏討伐では頼朝より義経討伐を命令されたがこれに反対し、頼朝からお前も義経みたいに勝手ばかりしてると粛清するぞと釘を刺されたが、実は範頼は裏では藤原泰衡に「義経を引き渡さんとお前ら皆殺しにするぞ」との脅迫文を何度も送りつけていた。またこの頃、義経と別れて捕らわれた彼の愛人静御前が子を身篭っていることに対し、男なら殺さねばなるまいと危惧する頼朝に対し「その女の腹掻っ捌いて赤ん坊ごと殺せば手っ取り早いのに」と常軌を逸した発言を何のためらいもなく笑顔で口走った為、いよいよ周囲から気違い扱いされるようになった。

鎌倉幕府成立後、曾我兄弟の仇討ちが発生し、その混乱の最中頼朝の消息が不明になると言う事態が起こり、妻の北条政子らは頼朝の身を案じたが、範頼は「兄が死んだらあんたらにはむしろ好都合だろ」とまたケロっと言ってのけ、シスコンである政子の弟北条義時を激怒させ、本心を衝かれた父北条時政を震えさせた。しかしこれが命取りとなったのか、北条家のでっち上げによって謀反の疑いありとされ幽閉された。その後、監禁している寺から怪しげな声が聞こえてくるなどの怪奇現象が発生した為、頼朝らは範頼の粛清を決意、梶原景時らを差し向けたが、景時らが討ち入った時、寺の中は蛻の殻となっており、範頼は忽然と姿を消してしまった。景時らは焦ったが、逃げた痕跡もなかったため、無事粛清に成功したと断定し、そう頼朝に報告した。頼朝は心底安堵した。範頼の子供は別の寺に入れられて僧侶になったが、腹黒くも無くごく普通だったので後に子孫に所領を与えられた。石見国の戦国武将である吉見氏はその子孫とされている。

しかし、頼朝の死後たびたび範頼ではないかと思われる人物の目撃情報が飛び交った。一説によると源実朝の暗殺を源頼家の息子の公暁に吹き込んだのは生きていた範頼であったとされる。また頼朝の命取りになった落馬も範頼のしかけたトラップによるものとも言われている。