無能な味方
無能な味方(むのうなみかた)とは、戦術、戦略から国政、外交に至るまで全ての局面において無能なトップに次いで弊害の大きい存在である。これらの存在が及ぼす悪影響は、優秀な敵をはるかに凌駕するため、多くの場合において味方の被害を抑えるために多くの優秀な味方が無能な味方を支え続けなければならなくなるか、もしくは無能な味方が無能なまま、その弊害を撒き散らし続けることになる。
概要[編集]
無能な存在とは、簡単に定義するなら言葉どおり「能」力が「無」い存在である。無能な味方は「能」力が「無」いばかりか,-(マイナス)の方向の能力を持ち、-の方向に努力(敵から見たら得になってしまう)してしまっている。そういった能力と呼ばれるものが必要とされる場面は多岐にわたり、戦場であったり商機であったり、果ては学校や近所づきあいといった一般的なコミュニケーションの場でも、それ相応の能力が必要になる。しかし、個人的な話ならいざ知らず、国家間の紛争や、軍事同盟、さらには大規模企業群といった破格な存在における無能な味方とは、すなわち、集団の緩慢なる死を明確に示すものであり、逆に言えば、いかにしてそういった存在を遠ざけるか、手を切るか、もしくは滅ぼすかが次世代への禍根を断つという点において大きな一歩となる。
無能な味方の分類法[編集]
無能な味方という枠組みを制作するに当たり、もっとも分かりやすく、かつ納得がいく枠組みが宗教と呼ばれるジャンルの中に大量にあったりする。中でもユダヤ人の十戒は、いかにして無能な味方を見分けるかという視点で見るならば、笑っちまうほど的確で分かりやすい形でそれぞれの戒律が定められている。あわせて、キリスト教における七つの大罪についても、同じことが言える。
せっかくなので、双方の戒律から見る無能な味方の判別法についてを簡単に述べる。
十戒[編集]
この戒律が出来上がった経緯については、どこぞの頭の固いウィキペディアか、もしくは旧約聖書を確認ください。アンサイクロペディアでは、この戒律によって、いかにして集団の中から無能な味方があぶりだされるかを鮮明にし、なおかつユダヤ教という存在がなぜ数千年にわたって存続できたかについて、無能な味方の排除という一点においてテキトーに明確にする。
- 主が唯一の神であること
- 基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
- また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
- 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
- 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
- ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
- 恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
- 安息日を守ること
- 休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
- 父母を敬うこと
- 家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
- 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
- 当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
- 姦淫をしてはいけないこと
- 昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
- 盗んではいけないこと
- これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
- 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
- 同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
- 隣人の家をむさぼってはいけないこと
- 宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
七つの大罪[編集]
やけに生活観のあふれるユダヤの十戒と比べて、キリスト教の七つの大罪は、完璧に戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代のかほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。
- 傲慢
- 主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
- 嫉妬
- これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
- 憤怒
- 喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
- 怠惰
- これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
- 強欲
- これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
- 暴食
- これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
- 色欲
- 十戒の姦淫の部分と同じである。
七つの美徳[編集]
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。以下に説明を省いて七つの美徳をてきとーにうぃきぺぢあからコピペする。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。
もし、ネガティブで好色で下品な仲間がいたら、あなたのいる集団にどんな未来がありますか?
無能なトップ[編集]
2011年10月現在、無能な味方よりもさらに集団に被害を及ぼす存在である、無能なトップについて、説明をする必要はない。少なくとも、無能というリンクの先になぜか元総理大臣の記事があるにも関わらず、なんら問題になっていないという状況はすなわち、誰しもが納得しているという話である。
つまるところ、鳩山由紀夫と菅直人の2人の総理大臣がいかに無能なトップであり、日本という国家に多大な被害を与えたかについては、2011年現在においては、文章にする必要すらない。そして、無能なトップに率いられた民主党という集団が、どういった軌跡をたどったかについても、語る必要すらない。ついでに言えば、上記の十戒や七つの大罪のうち、どれぐらいに当てはまるかについても考えたくはなく、そして七つの美徳のうち、当てはまるものが存在するかについても、検証したくはない。
・・・とはいいつつ、鳩山由紀夫元総理大臣は、上品だった、気がしなくもない。
・・・とはいいつつ、鳩山由紀夫元総理大臣は、友情に関しても何か言っていたような気がするが、何を言いたかったのかは結局宇宙人にしか理解出来ないような。
それ以外?もう一人?聞くな、悲しくなる。
なお、日本において鳩山由紀夫と菅直人の2人の無能なトップが誕生した理由は、それ以前の総理大臣も無能なトップであったためである。麻生太郎、福田康夫、安倍晋三と名前を並べただけでも目眩を起こしそうな無能が連続したために、自由民主党と呼ばれる腐敗臭漂う無能量産システムに国民が愛想を尽かしたわけだが、国民に逃げ道は無かった。
なお、2012年に安倍晋三がふたたびトップに返り咲き、それを麻生太郎が補佐しているが、国民はかつてのことを体よく忘れ、両者とも中身に変化があまりないことも直視せず、彼らの積極的な悪意を「民主党とは異なる有能さ」として賛美している。考えてみれば、民主主義体制下において無能な味方の中から選ばれるトップが無能なのは、当然な話である。
現在の日本では二大政党とその他の群小ゴミ勢力の協力により、無能がトップになることが保証されている。さて、カナダ国籍って何円で買えるのだろうか?
有名なあの言葉[編集]
こういった無能な味方について、大変に分かりやすい処置を記した話が存在する。一般的に、第一次世界大戦で活躍したドイツの将軍、ハンス・フォン・ゼークトが述べたとされる(ただし、それを裏付ける史料はない)、有能or無能&勤勉or怠惰の四つの性質に分類される軍人の使い方を、せっかくなのでこれまたうぃきぺでぃあああああから引っこ抜く。
軍人は4つに分類される。
- 有能な怠け者。これは前線指揮官に向いている。
- 理由は主に二通りあり、一つは怠け者であるために部下の力を遺憾なく発揮させるため。そして、どうすれば自分が、さらには部隊が楽に勝利できるかを考えるためである。
- 有能な働き者。これは参謀に向いている。
- 理由は、勤勉であるために自ら考え、また実行しようとするので、部下を率いるよりは参謀として司令官を補佐する方がよいからである。また、あらゆる下準備を施すためでもある。
- 無能な怠け者。これは総司令官または連絡将校に向いている、もしくは下級兵士。
- 理由は自ら考え動こうとしないので参謀や上官の命令どおりに動くためである。
- 無能な働き者。これは処刑するしかない。
- 理由は働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、さらなる間違いを引き起こすため。
分かり安すぎて涙が出る。
結局のところ、集団に害を及ぼす存在をいかにするかについて、ドイツ一流の軍人ですら明確な結論を出すには至らなかったという話である。いや、明確な結論であるけれども、戦時中ならばともかく、それ以外の状況で無能でなおかつ勤勉な味方をどうするか、方針を指し示せなかったことは、以降の軍人にとっては悪夢である。さらに悲惨なことに、その後の第二次世界大戦でも朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、無能な味方に対する対処法は確立されていない。
多分、これからも無い。いや、一応あるけれど、そう簡単に処刑できたら苦労しない。
ちなみに、第二次大戦ならイタリア軍、朝鮮戦争なら韓国軍、ベトナム戦争なら南ベトナム共和国軍がおっそろしいレベルで無能な働き者というジャンルに合致しており、それはすなわち、無能な味方というものは、世界の趨勢や歴史に大きな影響を及ぼすという話でもある。 つまるところ、悪影響である(ただし、軍隊というものは自らの失態の責任を「同盟国軍が無能だったからだ」と言い逃れる傾向がある…つーか、そんな無能な奴と深い考えなしに組むこと自体、ある種の無能だろ)。
なおあまり注目されていないが、これはあくまでも軍隊限定、士官メインのたとえ話である。民間企業や官公庁・自治体のヒラ、すなわちこのページの閲覧者の圧倒的大多数は、他人様のことを有能だ無能だいえる身分かこの野郎、一々指示される前に口じゃなく手動かせ!
優秀な敵[編集]
これらの無能な味方が及ぼす悪影響に比べ、優秀な敵、もしくは強大な敵がこちらに及ぼす影響ほどある意味素晴らしいものは他に無い。ある意味。なんせ、怠惰な人間を勤勉にして、無能な連中を人並みにするのは、えてして優秀な敵、もしくは強大な敵相手に命がかかっている場合である。しかし、それはえてして下っ端にのみ言える話であり、命のやり取りをしない上の連中が、いかに悪影響を及ぼすかについては、想像に難くないどころか、2011年を生きる日本人であるならば、誰だって実感できる話である。ただし、それでもジョージ・W・ブッシュより、菅直人のほうがマシである。
もちろん、無能のレベルにおいてはどこぞの元総理大臣は、日本の軍政史上最も愚かとされる牟田口廉也は越えたわけだけれど。
しかし、その優秀な敵というものは、日本において自然災害もそれに該当するため、それについては一考しなければいけない。
というのも、無能な存在が特に露になる戦争という話において、いかにして「無能な味方を相手側に増やすか」という策略は、古代中国の頃から延々と続く一つの大きなテーマであり、それは戦争以外でも外交やら仕事といった人間社会の競争の中の話でも言える。それに対し、自然災害というものは、味方に無能が増えないという一点においてのみ、とてつもなく楽な話になる(その事実は、東日本大震災において再確認された)。
元からいた無能がさらにあらわになる、時に死人となる形であらわになるのは、仕方がない。
結局のところ、戦争や災害といった非日常の風景の中では、無能が無能でいられなくなる。戦争も起こらず、自然災害も発生せず、無能なままでいられれば、それは平和かもしれないけれど、少なくとも、そういった話はありえない。逆に、戦争やら災害続きで極限まで無能が排除された集団が幸せかどうかといえば、幸せなわけがない。つまるところ、無能な味方というものは、その場所、その時間が平和であることを端的に示す存在であるといえる。けれど、平和でなくなったときどうなるかは、誰も知らない。
・・・そんな人間いるわけねえと思った人に一言。第二次世界大戦中、それまでのんべんだらりと怠惰に暮らしてきた人間が兵士として前線に立ち、死生観から何から丸ごと変えて帰国し、その後、本人は怠惰にのんきに暮らしているといいつつ、はたから見ればとてつもなく異常なレベルで濃い仕事をし続けている事例が存在する。
妖怪、水木しげる氏は、2015年11月30日に93歳で逝去するその日まで、第一線で活躍していた。