熊掌

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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ウィキペディア専門家気取りたちも「熊掌」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』 民明書房『偽りと真実の"熊掌"』

熊掌(ユウショウ)は、との拳比べの試合に勝利したものだけが入手することができる珍味である。

その起源[編集]

熊さんの登場。右が謝権
血抜きが甘かったのか変色してしまった。

その起源は古い。紀元前8世紀の男、謝権(ジャーンケン)は山の樵であると同時に、当時流行の兆しを見せていた遊戯「拳遊び」の名人でもあった。近隣では誰も彼を負かすことはできず、その名は次第に大きくなり地方の太守の耳にも届くようになる。ある時興味を持った太守に招かれた彼は、太守の部下である将軍たちと勝負したが、やはり誰も彼を負かすことができず、その実力に舌を巻いた太守は彼をたびたび招くようになり、彼は招かれるたびにその腕前を披露しては、少ないながらも褒美を得て生活の足しにしており、拳遊びで無類の強さを誇る樵の名は他の州にまで轟いた。

ある夜、その日も太守に招かれた彼は暗い山道を樵小屋に向けてとぼとぼと歩いていると、何やら前方の茂みに魁偉な影が見えた。懐には太守から褒美として得た金が少々と、錦が一反あり、盗賊に狙われたと思った彼は腰のを握りしめ、意を決しその陰に近づき喚いた。「ヤアヤア我こそは天下無双の拳男、♪いつもは貧しい樵でもぉ~いつか娶らん~白い肌ァ~!ヨイヨイ」と体は大きくも元来臆病な彼は自分を鼓舞するかのように必死に大声を出すと、茂みに鉈を振りかざし飛び込んだ。しかし彼は一秒も経たぬうちに茂みから恐怖の表情を浮かべて逃げ出してしまう、数秒後ゆっくり現れたのは、金色の毛色をし、二足歩行を行う下半身だけ裸の異様な熊であった。

熊との拳比べ[編集]

その幼児体型ながらも巨漢の熊は左の拳を舐めながら、恐怖で硬直している謝権に対し、餌を探していた所にお前がやってくるのが見えたが、お前は拳比べの名手と聞いている、ただ食べるのでは勿体無いことであるからお前と一勝負したい、私が勝てばお前を骨まで舐めて舐めて削り取るが、お前が勝てば我が腕の片方を渡さん。と、いうような内容を伝えると、拳比べせんと挑戦の意を表した。それを聞いた彼は鉈を腰にしまうと、太守からふるまわれた酒がまわったのか、独特のポージングと恍惚とした表情を浮かべた。こうして手合わせの準備が完了した彼は「最初は馬糞(グー)!……」と早くも始めようとしたところ、「なめくじ(チョキ)は出すな」と熊に制止させられた。

彼はそれに了解し、「ガチョウの足(パー)」を出した。熊はパーかグーを出したが、手の構造上判別は不可能と思われ、馬糞を出したと判断。「三回勝負にしないか?な?」と懇願する熊を無視して彼は熊の左腕を付け根から鉈で切り落とし、持ち主の前で血抜きを施す。彼はヒィヒィ泣き喚く熊を尻目に樵小屋に帰ると、一旦どう食すかを考え、おつくりはさすがに思いとどまった。よって、剛毛を松明で焼き落とし、ささらで爪の間の垢を丁寧に除去。色彩のよくない皮を湯剥きし、塩茹で。これでもかとアクが浮いてくるので初めは掬っていたが後半は放置し、3日目に湯から取りだすと食べ合わせを考慮し蜂蜜をかけて食した。アクが強く硬く、肉球に妙な渋みを感じる味で、蜂蜜をかけなければ食べられたものでないことは想像に難くなかったが、珍味には違いない。しばらくして太守に招かれた際にこの話を土産として話すと、太守は甚く感激し、この熊の掌こそ、彼の拳遊びの強さの秘訣ではないかと推測、手に入れるため部下に山へ赴かせたが、その部下はパーとグーしか出せない熊に負けたようで、太守の元へ帰ってくることはなかった。

そして、熊に勝利してしゃあしゃあとしている彼にまたもや舌を巻いた太守は、拳遊びのことを謝権の名を冠して「じゃんけん」と言い表わすようにし、その名は次第に人々の間に定着していった。同時に、彼の食した熊掌は熊との一対一の勝負を必要とする謎の珍味として時の権力者たちに伝わってゆくのだった。

熊掌に魅せられた権力者[編集]

春秋時代の楚の成王もその味に魅せられた一人である。彼は暴虐な太子の力を恐れ廃嫡せんとしたところ、その情報はどこからか漏れ、逆に宮殿を取り囲まれてしまう。今生の願いに何か聞き入れようと言った息子の部下に対し熊掌が食べたいと言ったところ、これを息子が知るや却下。夕食は塩抜きのゆでたまごだけで済まされ、その日のうちに首を括らされた。というのも、熊掌は一対一の勝負からアク抜き、その他下処理にかかる日数が7日にも及ぶため、これは援軍を待つためのただの時間稼ぎと判断されたからであった。しかし、死ぬ直前にコラーゲンたっぷりで美肌効果のある熊掌を所望したほどであるから、生前の彼の肌はさぞかしプルンプルンであったのだろう。

晋の霊公は、暴虐をもって知られた王であった。ある時突然「余も熊の手で美肌にならん」と包(コック)に命じるが、すぐには下処理ができない、時間がかかると包が申し上げた。しかし彼はそれを聞き流し、弓をキリキリと構えながら「まだ煮えません……」との包に対し「構わん構わん手さえあればよいのだ」と涎をたらし催促の嵐。加熱が不十分ながらも包は王の圧力に耐え切れず、王の前に熊掌が差し出された。しかし王は一口食べるや否や眉間に皺を寄せ、「この熊掌を作ったのは誰だァっ!」と嚇怒、目の前にいた包を一刀のもとに斬り伏せた。火が通りきっていなかったというのが殺した理由だという。

満漢全席への登場[編集]

食の芸術だとは思わんかね。

時代は下り、清時代末期に強権を振るい大いに恐れられた女帝、西太后が熊掌に興味を示したことにより熊は再び苦難の時代を強いられる。というのも、山東料理の粋を尽くした饗宴、「満漢全席」に熊掌の出演が決定してしまったのである。本来は一対一のじゃんけんで年間にごく少数狩猟されるはずの熊掌が、多数の来賓のために大量に用意されることとなり、民衆のために用意されていた密告制度を熊たちにも適用することが決定した。

その後一部の熊たちが役人に訴えを申し出たが、その訴えの多くは「私が気を窺っていた蜂の巣を無断で荒らされました」などの取るに足らないものであった。しかし、役人たちはこれ幸いとばかりに訴えられた熊たちの前足を規則と称し切断。片方で済んだ者もいれば、生きたまま北京に送られてしまった熊もいた。こうしたなかで熊たちの中には進んで同類を訴える者も出始め、本来は入手困難なはずの珍味が最盛期には年間100頭分近くの熊掌が北京に供給されることもあったという。

かくして北京に送られた熊掌は調理に回されるのであったが、紀元前までは稚拙であった料理法も格段に進歩した。まず剛毛を焼き落とし、タワシでゴシゴシ磨く。ここでは愛をこめて爪が瑪瑙のような深い輝きを出すまで磨くことが命じられており、中には愛を込めた結果熊掌と一夜を過ごす料理人もいたという。その後臭みを取るために流水にさらすのだが、食材が断固として蜂蜜中心の食生活を変えない熊である場合は臭みと共に沁み込んだ甘みや芳香も洗い流してしまうため、ぬるま湯に漬ける程度に洗浄する。洗浄が完了したら肉を軟らかくするために料理人は熊掌と激しい握手を交わし、硬い場合は腕相撲を行う。臭みの問題は茹でこぼしたのち紅茶生姜蜂蜜を混ぜたものに漬け、3時間煮込むことによって解決し、もはやコラーゲンと脂肪と雑味の塊と化した熊掌は調理され、来賓の舌の上でもてあそばれると、その味に肥満体の来賓はなんとも憎い笑みを浮かべるのだった。

しかし、前足を奪われた多数の熊は路頭に迷い、餌を取れずに餓死する者も多かった。西太后の時代が終わりを告げた後の中国は混乱し、清国も滅亡。その後しばらくの間熊掌を賞味した人間は袁世凱毛沢東のみであったが、次第に中華人民共和国は安定し、一般の小金持ちたちにも手の届くようになった熊掌の消費量は増加した。そんなとき、熊の前足を切り落としていた男が言った。「熊もどうせ足がなければ飢えて腐るのだからかわいそうだしもったいない」と、それからというもの熊は人間に「山を潰すぞ」と脅され様々な部位を提供せざるを得なくなる。

前足の次には古来から貴重とされていた熊の胆嚢、すなわち熊胆も求められるようになった。さらには肉も求められるようになり、毛皮も求められるようになり、漢方薬になる骨も求められるようになり、「部屋に飾ったり、かぶったりするとかっこいいから」とお頭も求められた。最後にそんな熊に残されたのは、もったいなくなかった部位こと肺や腸や肋骨だけだった。そんな姿になってしまい、山に帰ろうとした熊だったが、振り返ってみれば森林開発で山はすでに消えており、最後に帰るところといえば、土しかなかった。