熊野前

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熊野前(くまのまえ)は、東京荒川区の地名。荒川区の悪名の高い旧町名抹殺計画によって現在は「東尾久」という味も素っ気もない名称になっているが、「熊野前」という名称は熊野権現を勧請した熊野神社を起源とする由緒正しい名前であり、都電荒川線の駅名としては、すでに大正年間に採用されている。ここの住民も「熊野前」に愛着を持ち、旧町名復活運動を町民そろって行っていることでよく知られている。ちなみに英語の名称は”in front of a bear”である。

クマだらけ[編集]

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和歌山県熊野三山は霊験あらたかな霊場とされているが、その祭神である熊野権現が熊野前にいつ勧請されたのか不明の点が多い。江戸時代には江戸庶民の信仰を集めていたようであるが、明治政府はともとも区別のつかぬ「権現」が気に入らず、廃仏毀釈のどさくさに熊野前にあった「熊野神社」を根こそぎ廃社にしてしまったのである。

ここの住人たちはこの明治政府のやり口を快く思っておらず、そのうち「かくれ熊野神社」を結成し政府に見つからぬように秘密裏に信仰を守り続けていったのである。しかし隠れて信仰を守るうちにもともとの祭儀や習慣・しきたりが次第に変容し、元来のものとはかなり異質な信仰の形をとるようになってしまったのである。特に「熊(くま)」の名前に引っ張られるように、「クマ」こそが神であり、神は「クマ」の姿をとるという本地垂迹説にもとづいて「クマ信仰」が成立した。お稲荷さんキツネが尊ばれるように、熊野前ではクマが霊獣とされ、この地域はクマだらけになっていったのである。

「クマ祭り」と呼ばれる祭りでは、老若男女を問わず、みな思い思いのクマのコスプレをし、「そんなエサには釣られないクマーッ!」と叫ぶのことから始まる。お神輿や山車にはクマのぬいぐるみが乗せられ街中を練り歩く。縁日もクマにちなんだものが多く、熊手、クマの手の煮込み、万能薬として知られる熊の胆が振舞われる。青い目をした外国人が、どうみても横流しの海賊版のテディ・ベアのぬいぐるみを2割3割引きで叩き売るのが見られるのも、この街のお祭りならではのことである。そしてミス・ベアーが選ばれ祭りは最高潮に達する。最近ではタレントの熊田曜子さんがミス・ベアーに選ばれ、クマの敷き皮とクマの剥製のセットを賞品としてプレゼントされていた。熊田さんはどことなくイヤそうな顔をしていたが。

熊田曜子さんが熊野前でミス・ベアーに選ばれたことを嫉妬していたのが、熊田曜子そっくりだと自負していたネットアイドルのくまぇりである。長野県諏訪市在住のくまぇりは東京は熊野前に乗り込んでクマ祭りに忍び込み、手馴れた仕草でそこいらじゅうに火をつけまくって、クマ祭を火祭りにしてやろうと企てていたらしい。幸いにも稀代の放火魔くまぇりは、自らのブログから事実が露見し、熊野前に来る前に取り押さえられた。熊野前全焼計画はこうして水泡に帰したのである。もちろんくまぇりは現在牢屋でお勤め中である。

話を元に戻そう。クマ祭りでは、最後に生きているクマ、もちろんいきのいい獰猛なクマである、が街に放たれ、人々は必死に逃げ惑う。場合によってはクマにとっつかまって、バリバリ食われることもないではないが、それでもクマの餌食になるような男は「クマ男」と呼ばれ縁起がいいとされている。その遺族には葬式代をはるかに上回るご祝儀が届けられる。このご祝儀を期待して旦那さんにクマの大好物のハチミツをたっぷりつける細君もいるそうであるから、殿方はご用心を。

都電だけが頼りです[編集]

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しかしこの街が威勢がいいのもこの「クマ祭り」のわずかな期間だけであった。全財産をつぎ込んでまたたくまに消尽してしまう祭りの期間が終わると、まるで長いモードにでも入ったかのような有様に変貌する。この地域は荒川区の中でもとりわけ交通網が貧弱な地域であり、「陸の孤島」とも呼ばれていた。そのため祭が終わるとサッと潮が引くように人々が消えてしまう。用もないのに熊野前など誰も寄り付かないのである。

しかし「陸の孤島」の名称は正確には正しくない。交通網は存在しなくはなかったのである。都電荒川線、これがこの地域の住民の貴重な交通手段であったのである。都電荒川線は東京に残る唯一の路面電車であり、その郷愁を誘うような車体と、どこか懐かしさを漂わせる雰囲気が鉄オタのみならず、多くの人々に親しまれてきた。しかしそれは1年に1回も乗らないようなお気楽な部外者の言い草である。実際、都電荒川線を使う熊野前住民にとって、この都電ほど忌々しいものはないのである。

チンチン電車の名のようにちんたらちんたら走るのがこの電車の身上だが、急いでいる時にこの電車に乗り合わせると、運転手ひっぱたいて代わりに自分が運転したくなる。というのも平気で自転車に抜かされるからである。それでもヤンキーっぽいアンちゃんや、わいわい騒いでいるガキの自転車に抜かされるならまだいい。どう見ても80は越えていそうな 老婆がママチャリを軽快に漕いで、「お先にいくわよ~」なんてヤジられると、やはりこの怒りをどこかにぶつけたくなるのは必然である。あるいは「○○ですぅ~」とか口にする幼児が、チンチン電車を三輪車で追い越すなど、許しがたい所業であり、ガキをいてこましたくなる気持ちが理解いただけるかと思う。

都電荒川線に対し、スピードが遅い、年寄りと地元住民しか乗っていない、下町の何たるかがわかっていない鉄オタがしょっちゅう乗っているのが不快だ、という非難はあるにはあるが、こうした悪口が聞かれる一方で、都電荒川線が熊野前の住人にとって命綱のようなものであることは否定しようがないようである。逆に熊野前駅はこの都電荒川線にとっては太平洋に浮かぶ小島、砂漠に浮かぶオアシスのような存在である。というのは「都電荒川線の空白地帯」にあって熊野前だけが唯一人間らしい人間を見ることができる数少ない場所だからである。ちなみに「都電荒川線の空白地帯」とはJP京浜東北線王子駅と、地下鉄千代田線京成電鉄町屋駅に挟まれた東京荒川区から北区にまたがる地域のことを指す。

「都電荒川線の空白地帯」すなわち町屋と王子の間にも人は住んでいるらしいし、家屋のようなものも並んでいるようである。しかし人の生命反応はわずかにしか感知されず、その殺風景な景色はあのほのぼのとしたチンチン電車の乗客にも荒れ果てた気持ちしか思い起こさせない。人の迷惑顧みず見たこと聞いたことあることないこと書きまくる頭のおかしい人々によって維持されている少々ヤバい感じの辞典の「都電荒川線」の項目もこの地域に関して言えば全くの白紙状態なので興味がある人は確認されるとよいだろう。

都心に向かい荒稼ぎでもしようとする荒ぶるチバラギの民や執念深くはびこる京成族も町屋より西に向かう荒川線には乗らないし、集団でこぞって亡命しようと荷物を抱えうらぶれた格好のさいたま民も王子駅より東には向かわないのである。そのため町屋と王子に挟まれた「都電荒川線の空白地帯」は都民でも知る人ぞ知る地域となっているのであり、この地を縫うようにわずかに都電荒川線が侘しい警笛を鳴らして進んでいくのである。夕暮れ時、灯のともらないこの一帯でひときわ目につく荒川遊園地の観覧車の寂しいシルエットを眺めるにつけ、何ともいえぬ感情が湧き上がり、嗚咽している乗客を見ることも多い。なお俳優の荒川良々もこの周辺に住んでいるらしいが、その姿を見た人は誰もいない。

「元気の出る商店街」興亡史[編集]

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それでも「都電荒川線の空白地帯」にあって「熊野前」はマシなのである。「熊野権現」の格式を誇る「熊野前」こそはこの地域の希望であり、「クマ祭り」のたびに押し寄せる観光客の多さは周辺地域のいずれをも凌駕している。「いつかは熊野前が天下を取る」を合言葉に倦まず弛まず町おこしの夢をあきらめることがなかった。1980年代に入りバブル景気の空前の活況のもと悲願であった「熊野前の町おこし」が始まったのである。この支援者が北野武すなわちビートたけしであった。

ビートたけしはあのいわくつきの東京の鬼門足立区島根の出身である。たけしを含め足立区民は、隣接する荒川区の住民に複雑な感情を抱いている。北千住という大ターミナルを擁しながら、それでも山手線の駅がある荒川区に対する強烈な劣等意識が拭えなかったのである。例えば足立区出身のたけしは、荒川区出身の芸人で今は文化人になっている片岡鶴太郎に複雑な感情を抱いている。かつてたけしが嫌がる鶴太郎にアツアツのおでんを無理やり頬張らせたのも、サディスティックな感情というよりも、裏返しの愛情の仕業と見てよいだろう。そのため1980年代に放送が始まった「天才たけしの元気が出るテレビ」において、たけしはテリー伊藤らとはかって、足立区の荒川区の復讐とばかり、どこかの商店街をいじくっておもちゃにしてやろうと考えたのである。その格好の餌食となったのが我らが「熊野前商店街」であることは言を俟たない。

飛ぶ鳥を落とす勢いだったビートたけしは、「町おこし」に躍起になっている熊野前住民に対し、馬の前の人参をぶらさげるかのように、資金の提供と、関連プロジェクトの立ち上げ、お笑い芸人総動員でのピーアールを約束したのである。しかしここでたけしは過酷な条件を熊野前住民に押し付けたのである。熊野前だからといってクマのキャラで宣伝するのは能がない。今まであれほどクマを祀ってきたのにご利益なんか全然ない。だったらいっそのことクマのキャラに代わる新キャラを町おこしのトレードマークにしようと言い出したのである。しかもこの最後の条件を呑まねば約束は一切チャラだというのである。

すでに番組の方では熊野前住民には一切明かされることなく秘密裏に新キャラ「ビートたけしの顔をした招き猫」が用意されていたのである。しかも歯を剥き出してニッコリ微笑んでいるのだから何をかいわんや。このキャラが熊野前住民にお披露目されるや賛否両論がたちまちのうちに湧き上がった。言うなれば2008年春先に平城遷都1300年記念のキャラとして一大センセーションを巻き起こした「セントくん」、仏さまの姿で角を生やしているあのキャラが登場した時に勝るとも劣らない大騒ぎがあったのである。長年敬愛し連れ添ってきたクマちゃんを捨て、けったいな「たけし招き猫」を商店街で一斉に飾るのか、それを迫られた町民たちの苦悩の影は隠しきれなかった。それ以上に、荒川区熊野前の住民にとって足立区出身のたけしに膝を屈するのには強い抵抗感があったようである。

町内会の大勢は「たけし招き猫」やむなしの声に傾き、最後まで「そんなエサには釣られないクマーッ!」と叫んでいた少数派のクマ原理主義者はクーデタによって追い落とされ、ここにビートたけしプロデュースの新生「熊野前商店街」が成立したのである。町の中心にはハリボテでできた高さ10メートルの金色に輝く「たけし招き猫」がそそり立ち、各商店街にはクマを思わせるぬいぐるみ・人形・彫刻・アクセサリーの類はすべて撤去され、大小色とりどりの「たけし招き猫」が並んだのである。番組が懸命に宣伝したお陰で、活気を失った商店街はにわかに活況を呈し、クマを捨てて猫に飛びついた人々も今までの経緯を忘れ、商売繁盛の熱気に飲み込まれていったのである。たけしはこの当時「ネ申」と呼ばれ、町民の間ではたけしの「コマネチ」のポーズで挨拶を交わすことが礼儀となったのである。

しかしこうしたカンフル剤を打ち込むような、ユンケル黄帝液をぐびぐび飲むような、無理やりのブームには限界があった。テレビ関係者が飽きるより早く、テレビ視聴者がもう飽きてきたのである。一時はごったがえして足の踏み場もなかった「熊野前商店街」に閑古鳥が鳴くのもそう時間はかからなかったのである。頼みの綱のたけしは映画監督業に熱が入り、テリー伊藤は目玉の調子が悪くなってきて、両者ともそれとなく手を引き始めた。「熊野前の町おこし」は完全に見捨てられたのである。そうなると悲しいもので、神棚にまで祀り上げられていた「たけし招き猫」はまるで親の仇のように虐げられ、おばちゃんたちに箒でひっぱたかれ、ガキが面白がって踏んだり蹴ったりするばかりか、そのままドブにぼちゃんと捨てられたものも少なくなかったようである。海外流失したものあったようだが、たけしに複雑な感情を抱く熊野前住民は跡形もなく処分してしまったようである。現在でもこの町内で「たけし招き猫」を発見することはかなり困難である。「何でも鑑定団」の北原照久に言わせれば、この時の破却により確認例が極めて少ないレアものとなっており、30センチのものでも100万単位の値段がつくというから驚きである。

日暮里・舎人ライナーの夢[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「日暮里・舎人ライナー」の項目を執筆しています。

ビートたけしにひっかきまわされた熊野前商店街の零落は無残なものであった。時あたかも日本経済どん底の「失われた十年」とかち合ってしまい、商店街ではシャッターを閉ざしたままの店舗が目についた。「元気の出る商店街」で抱え込んだトラウマにより熊野前商店街の人々(荒川区民)の足立区民に対するアレルギーはいやが上にも高まったのである。ビートたけしを代表とする足立区民を見つけたらすぐさまこの地区の住民がそれぞれ手に武器を持って追い回すようなことも珍しくなかったのである。しかもクマのぬいぐるみをかぶって追い回すのだから、追われた方は生きた心地もしなかったようである。

こうした殺伐とした中にあって、再び熊野前商店が人々の脚光を集めることになったのである。すなわち「日暮里・舎人ライナー」の新設である。今まで都電荒川線しか走っていなかったこの地にようやく新しい交通機関が接続することになったのである。しかし計画段階から大きな障害が立ちはだかっていたのである。「元気の出る商店街」の件以来、この地に根付いてしまった「足立区アレルギー」はどうにも押さえがきかなくなってきたのである。日暮里から荒川区内を通って熊野前に至るのはよい。熊野前住民が待ち望んでいたことである。しかしそこから先、足立区方面にライナーが伸びるというのはどうだろうか。

「熊野前」を過ぎると「足立小台」である。すぐさまもうあの足立区である。「扇大橋」を越えると本格的な足立の風景が広がり、「高野」「江北」といった鄙びた街を通り過ぎると、東京でも最も珍妙な駅名の「西新井大師西」である。「西新井大師・西」であって「西・新井大師西」ではない。しかも「西新井大師」から全然近くないので参拝客、特にジジババはだまされないように注意されたし。そして「谷在家(やざいけ)」とか「舎人(とねり)公園」「舎人(とねり)」といった難解な読みの駅が続き、「見沼代親水公園駅」で終わるというのである。ここは東京23区最北端。しかも足立区である。すぐ目の前に「彩の国」が見えるが、見えるだけである。

熊野前住民は日暮里・舎人ライナーの新設を歓迎しながらも、熊野前から先の足立区方面への延伸を快としなかった。「熊野前が仮の終着駅で、そこから先の足立区関係の延伸は無期延期にして欲しい」とライナー関係諸機関に陳情するもうまくいかなかった模様である。そして2008年3月30日、熊野前商店街の荒川区関係者と、彼らが嫌う足立区関係者が開通式に列席し、両者がいかにも同席するのがイヤなのを打ち消すように無理やり笑顔をふりまく「呉越同舟」の状況の中で、日暮里・舎人ライナーは颯爽と走り出したのである。新設ライナーについて荒川区民と足立区民の描く未来の夢は全然違う。荒川区民はなるべく足立区民が来なければいいと思い、足立区民は「熊野前」なんてさっさと通過して足立区と都心を直結させちまえばいいのにと考えている。これを「同床異夢」という。

関連項目[編集]