片瀬江ノ島駅

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片瀬江ノ島駅(かたせえのしまえき)は、神奈川県藤沢市片瀬海岸にある、小田急江ノ島線終着駅である。日本で最も古い駅舎のひとつとして知られ、門司港駅などと同様に国の重要文化財(有形文化財)に指定されているほか、関東の駅百選にも指定されている。

利用可能な路線や列車種別、駅周辺の施設などについては、小田急電鉄の公式サイト[1]で説明されているので、こちらをご参照頂きたい。この公式サイトの内容については既にアンサイクロペディアでも現地で検証を行っており、正しいことが確認されている。(なお、専門家を自称する人々による某百科事典でも片瀬江ノ島駅についての説明があるが、出典の明記が重要であるはずのこの百科事典には珍しく、公式サイト以外の出典や情報源が一切示されていないため、信用には値しないと考えられる。)

本記事では、公式サイト等で取り上げられていない、片瀬江ノ島駅の歴史的な側面について説明する。

駅舎の成立

片瀬江ノ島駅(2018年8月撮影)。何も知らない観光客どもで賑わっている。

右に掲げた画像が、片瀬江ノ島駅の駅舎である。一見すると鉄道の駅というよりは、何か電波系の建築物であるかのように見えるが、決して、他の建築物などの記事の画像の貼り間違いではない。

城郭のような外形、色を基調とする壁や柱、色の瓦が葺かれている屋根。元々は城郭であったものを駅舎に転用したようにも見えるが、それでは、駅舎でも城郭でも一般的ではない「赤色」が用いられている理由が説明できない。

まず、この駅舎がどのように成立したのかを、史料を頼りに探っていくことにしよう。

『小田急二十五年史』

小田急電鉄1952年に出版した『小田急二十五年史』によれば、小田急江ノ島線が片瀬江ノ島駅まで開業したのは1929年(昭和4年)のことである。開業当時は、殆どの駅にはホームと待合室くらいしか設けられておらず、改札口や出札窓口などをもつ駅舎が造られた駅は、藤沢駅などいくつかの主要駅に限られていた。

このとき、片瀬江ノ島駅については、終着駅であり、また観光地である江ノ島への最寄り駅でもあることから、駅舎が必要とされたが、予算不足のために建築費用が調達できなかった。そこで、路線敷設予定地上にあった建築物をそのまま流用し、駅舎の代わりとしたのである。元々は「江ノ島線」という名の通り、江ノ島の島内へと乗り入れる予定であったが、現在のように江ノ島の対岸で路線が途切れてしまっているのも、このためであるとされている[1]

では、この建築物は、そもそも何だったのだろうか。

『小田急二十五年史』では、この建築物の前の所有者や、あるいは流用の際の経緯などについては一切記されていない。これは、この建築物を買い取る際に、前の所有者から緘口令を要求されたためである。更に、二十五年史の出版後には、流用した事実さえも公開しないように何らかの圧力があったと見え、1980年に出版された『小田急五十年史』では、片瀬江ノ島駅の駅舎については自前で建築したというように歴史の改竄が行われている。(上述の某百科事典でも、駅舎は小田急電鉄が建築したかのように記されているが、これは『小田急五十年史』のみを史料として用いたための誤りであると考えられる。)

『江の島縁起』

この謎を解くには、この地域の郷土史料を紐解かねばならない。幸いにして、藤沢市は郷土史料の蒐集に熱心であり、公共図書館とは別に「藤沢市文書館」という施設を設けて、郷土史家と称する暇な老人達や我々アンサイクロペディアンの調査・研究を支援してくれている。

この文書館に所蔵されている史料のひとつに、『江の島縁起』という古文書がある。これは、江ノ島や片瀬村(現在の藤沢市片瀬地区)に古くから伝承されている歴史的な事柄を、室町時代頃にまとめたと思われる史料であるが、ここに、駅舎の由来を知る上で重要な記述がある。文語体であり少々読みづらいが、以下にその一部を抜粋して引用する。


 昔片瀬村に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり。あけくれ海のうろくづを取りて、父母ちゝはゝを養ひけるが、ある日のつれ\〃/に釣をせむとて出でにけり。浦々島々入江々々、至らぬ所もなく釣をし、貝をひろひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑじまが磯にて、龜を一つ釣り上げける。
 浦島太郎此の龜にいふやう、「汝生しゃうあるものの中にも、鶴は千年龜は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には此の恩を思ひいだすべし。」とて、此の龜をもとの海にかへしける。


……と、ここまで打ち込んだところで、学芸員の方が現代語訳を持ってきて下さったので、有難くこれをそのまま引用させていただくことにする。


 昔、片瀬村に浦島という者がおり、その子で浦島太郎という二十四、五歳の男がいた。毎日海藻や貝などを採って父母を養っていたが、ある日、何となく釣りでもしようと思い出掛けた。海岸や入り江などを適当にうろうろしながら貝を拾ったり海藻を刈ったりしていたが、江ノ島の磯でを一匹釣り上げた。
 浦島太郎はこの亀に、「お前は生き物のなかでも“鶴は千年亀は万年”といって長生きするはずのものだ。いまここで殺すのは可哀相だから、助けてやる。この恩を一生忘れるでないぞ。」と言い、この亀を元の海に返した。


 翌日、この世のものとも思えない美しい女性が、浦島の家を尋ねてきた。彼女は自らを江島神社の弁財天であると名乗ったため、太郎や父母は大変驚いた。弁財天は、「昨日浦島が助けた亀は、私に仕える巫女のひとりであり、命を助けていただき大変感謝している。ついては、そのお礼にあなたを私の『館』に招待したい」という。
 弁財天といえば神も同然であり、神の言うことを拒むことはできない。太郎は弁財天に付いて行かざるを得なかった。


お読み頂ければおわかりかと思うが、これは、現在一般に知られている御伽話の『浦島太郎』の元になった出来事を記録したものである。

一般的に知られている『浦島太郎』では、子供たちにいじめられていた亀を浦島が助け、亀は助けられたその場で浦島を海中に連れて行ったことになっているが、それらの伝承に含まれている「亀と太郎とはどのように会話したのか」「亀が人間の言葉を話せるなら、何故子供たちに対して抵抗するような発言をしていなかったのか」などのような矛盾は、この『江の島縁起』の記録では一切発生していない。このことから、この『江の島縁起』の記録が、『浦島太郎』の基になったものである可能性は極めて高いと言えよう。


 江島神社には、片瀬村の誰もが毎月必ず詣でているのは承知のとおりだが、弁財天が太郎を連れて行ったのは岩屋洞窟であった。洞窟の奥には絢爛豪華な館が聳えており、太郎はそこで様々なもてなしを受けた。


岩屋洞窟とは、江ノ島の最も奥(陸地から島を見たときの真反対側)の崖にある洞窟である。当時は、洞窟の中にはが棲んでいるという言い伝えがあったため、村の掟で、洞窟の中には立ち入ってはならないとされていた。

実際にこの洞窟に住んでいたのは、龍ではなく、弁財天と巫女たちであった。近年の調査では、島の地上にある江島神社から岩屋洞窟へと抜けるトンネルのようなものも発見されており、彼女たちは地上の神社と洞窟内の館とをトンネルを伝って行き来していたと考えられている。


 衣食住に不自由しないのもさることながら、弁財天と太郎とは身体の相性が良く、飲んで食べて交わって眠ってという生活が毎日毎日続いた。そして、館から一歩も出ずに三年の月日が過ぎた頃、太郎は村に残してきた父母のことが気になった。稼ぎ頭の自分がいなくなって三年経ったのだから、もう死んでいるだろうが、生死くらいは確かめておきたい。それに、暗い洞窟の中に長くいたためか、太陽の光が恋しい。
 太郎は弁財天にこれを話し、陸地に一度戻りたいと願ったが、男の味が病み付きになっていた弁財天は太郎が一人で戻ってしまうことを許さなかった。その代わりに、法力によって洞窟を片瀬村まで伸ばし、その出口に小さな館を造って、太郎にここに住むように命じた。
 陸に造られた館は、弁財天の館を一割ほどに縮めた如きもので、白き壁、緑の瓦などもまた同じであった。


この、弁財天によって“陸に造られた館”が、現在の片瀬江ノ島駅の駅舎である。

――が、現在は壁や柱は「赤色」であるのに対し、ここでは「白き壁」と記されている。読者諸賢は、主たる塗色である「赤」という文字が出ていないのは少々おかしいように思われるかも知れない。実際のところ、現在は一部白い塗装のところもあるのだが、それでも外観のメインが赤であるのは間違いない。

この色の違いは、この物語の最後の一節で説明されている。


 父母の弔いを済ませた太郎は、それから暫くは陸の館と弁財天の館とを行き来しながら、引き続き何不自由なく暮らしていた。
 ある夜のこと、太郎の館の扉を叩く音がする。出てみると、粗末な身なりをした十五、六歳の娘が一人で立っており、道に迷ったので一晩泊めてほしいという。
 娘は大変に美しく、それは弁財天の熟した美しさとはまた異なる、蕾のような美しさであったため、太郎は喜んでこれを招き入れた。そして、宿代の代わりにと娘の身体を求めると、娘はこれに応じた。


 別の日、陸の館で太郎と交わった弁財天は、その精の味の違いから、太郎が他の女と交わったことを悟った。
 弁財天は大いに怒った。これに恐れを為した太郎は館の外へと逃げたが、弁財天は法力で太郎の身体を掴まえ、これを生きたまま千切り、一刻ばかりをかけて太郎を無数の肉片にしてしまった。
 このとき太郎の身体から出た夥しい血は、白かった館の壁の全てを赤く染めてしまった。


こうして、太郎は余りにも悲惨な最期を遂げた。これが、この駅舎の壁が赤い理由である。

なお、小田急電鉄がこの館を買い取り、駅舎としてからは、弁財天の法力による加護は受けられなくなっているため、壁の塗り直しは現在までに数回行われている。従って、現在では、壁に鼻を近づけて臭いを嗅いでみても、血の臭いがすることはごく稀である。

その他

1988年11月には、「『浦島太郎』伝説を今に伝える貴重な建築物であり、かつ現存する全ての鉄道駅舎のなかで最も古いものである」として、国の重要文化財(有形文化財)に指定された。

但し、指定にあたっては文部省(現:文部科学省)や文化庁などからの事前の連絡が無かったため、この連絡を受けた小田急電鉄の幹部会は大騒ぎになった。その後、小田急電鉄は、「あの伝説を表に出してしまっては私たちの命が危ない」として文化庁に厳重に抗議し、これを受けた文化庁は、指定理由から浦島太郎伝説についての記述をこっそり除去し、「竣工年代は不明ながら、歴史ある貴重な建築物である」という曖昧な表記に改めている[2]

なお、翌1989年4月には、駅前で、毎日新聞の記者が暴走族の集団に囲まれて殺害されるという痛ましい事件が発生している。この事件への、弁財天や他の神々の関与は不明であるが、現在も駅舎の壁から稀に漂うことがある血の臭いは、浦島太郎のものではなく、このとき殺害された記者のものであるという噂が、事件から20年近く経過した現在においても、地元ではまことしやかに囁かれている。

2019年現在、片瀬江ノ島駅の1日あたりの利用者数は、隣の鵠沼海岸駅よりも少なくなっている。10両編成の急行は勿論、特急ロマンスカーの行先駅にもなっている片瀬江ノ島駅が、殆どの急行や快速急行が通過し、改札も4個しかない、鵠沼海岸駅に負けてしまっているのである。このような不可思議な現象も、やはり、ここまで述べてきた歴史と、決して無関係ではないのだろう。

脚注

  1. ^ 江ノ島の結界に阻まれたためとする説もある。これについては江ノ島#概要の項を参照。
  2. ^ このとき、同時に門司港駅も重要文化財に指定されていたため、現在では門司港駅が「現存する全ての鉄道駅舎のなかで最も古いもの」であることになっている。ちなみに、門司港駅の竣工は明治期であるため、実際には片瀬江ノ島駅のほうが圧倒的に古い。

参考文献

  • 『小田急二十五年史』(小田急沿革史編纂委員会編集、小田急電鉄株式会社 昭和27年10月30日発行)
  • 『小田急五十年史』(小田急電鉄株式会社社史編集事務局編集、小田急電鉄株式会社 昭和55年12月27日発行)
  • 『江の島縁起』(旧江の島惣別当岩本院文書)(藤沢市文書館所蔵)
  • 『藤沢市史』(第1巻~第7巻、藤沢市史編纂委員会 1970年~1982年刊行)
  • 「文化庁文化審議会議事録 昭和63年11月分」(文化庁所蔵)
  • 「毎日新聞 1989年4月18日付夕刊」

独自に作られた『江の島縁起』の現代語訳を、アンサイクロペディアのために快く提供して下さった、藤沢市文書館の学芸員様に、深く感謝致します。