特筆性
特筆性(とくひつせい、とっぴつせい?読み方なんてどうでもいいよね☆特筆性がないし)とは、百科事典に、君の友人や君の通っている学校、君が飼っている犬の記事を立てられないようにするためのルールである。
概要[編集]
あらゆる知識・情報を網羅することを目的に執筆される百科事典だが、何でもかんでも情報を記載してよいわけではない。一定の「掲載基準」というものが存在する。
例えば、植物についての百科事典で、カール・リンネの記事があるのは全く妥当だが、ブレーズ・パスカルの記事があることは特筆性を満たさない。パスカルは様々な学問に手を出した天才だが、植物との関連は「人間は考える葦である」と言った程度しかない。植物学の世界においては、パスカルなんてその辺の一般人と同じ、ゴミのような存在なのである。こういう状態のことを「特筆性を満たさない」という。
例えば、この記事を書いている頭の悪い荒らし同然の利用者は、かつてブリタニカ百科事典や世界大百科事典に、長野業正や立花道雪、DQN四天王の記事が存在しないことに憤慨していた。こういう状態を「特筆性を全く理解していない」という。長野業正も立花道雪も、所詮地方の、それもほんのわずかな時代だけ活躍した英雄に過ぎない。コーエーあたりが神格化しているせいで名将扱いされているが、所詮お山の大将である。ましてや、世界の全ての知識を網羅しようとするブリタニカ百科事典や世界大百科事典に掲載できる水準には、認知度、社会的影響共に到底及ばない。軍人、武将として掲載して欲しいなら、せめて俺ぐらいの世界規模での活躍を見せろ、と、ミハイル・クトゥーゾフがあの世であざ笑っているだろう。なお、クトゥーゾフは確かにロシアの名将で何度も戦に勝ってロシアの隆盛に貢献した男だが、人格面ではどうしようもない屑なので、特筆性はあるが別の意味でゴミであり屑である。
しかし、戦国オタは馬鹿なので、「この百科事典は長野業正や立花道雪を掲載してないからクソ百科事典だ」などと見当違いの暴言を平気で吐く。そして悲しいことに、そういう連中の方が多数派なのである。
特筆性のあるなしの基準[編集]
どういう基準で特筆性のあるなしが判断されるかについては、百科事典において千差万別である。しかし、ある程度、普遍化された基準はある。それは以下のものである。
その百科事典で情報を記載することに有意義、妥当性がある[編集]
なんとも抽象的だが、これが最もたる理由である。例えば、歌舞伎の百科事典で歌舞伎の題材にもなる侠客の幡随院長兵衛の記事があるのは、まあ特筆性を満たしているといえるかもしれない。長兵衛は歌舞伎の題材になることが多い人物だからである。しかし、剣豪の上泉信綱の記事があるのは、明らかに異質であり、特筆性を満たしていない。上泉先生はすごい剣豪で、柳生宗矩ですら及ばないほどの達人、「剣聖」と呼ばれたほどの人なんだぞ、だって?
そんなことどうでもいいです。
上泉信綱の剣豪としての数々の功績など、歌舞伎には一切関係ないのである。それゆえ、上泉信綱は歌舞伎の百科事典においては特筆性を満たさず、単独項目として収録するに値しない、ゴミとみなされる。ただし、今後歌舞伎の題材で上泉信綱が取り上げられることが多くなれば、ゴミから脱却できる可能性は十二分にある。
高名な剣豪ですらゴミ扱いされてしまう、特筆性とはとても恐ろしいものである。
沢山の書物・史料で言及されている[編集]
哲学者などが良い例である。イマヌエル・カント、マルティン・ハイデッガーなどは、彼らを研究対象とした専用の研究書物を何本も書かれて死体の腐った脳味噌を弄繰り回されているが、その分特筆性は向上している。宅間守などは子供を大量に殺害した社会の屑呼ばわりされているが、彼が起こした付属池田小学校事件は社会を震撼させ、これを題材にした本が何冊も出た。新聞でも大騒ぎになり、未だに事件のある日には犠牲者を偲ぶ記事が載せられるほどである。これほどの影響力を見せ付けた宅間は、特に犯罪心理学などを内容とした百科事典においては、彼を社会の屑、社会のゴミ呼ばわりしているその辺の特筆性を満たさないゴミよりも遥かに特筆性があるといえる。宅間は処刑が確定した後、遺族達に向かって「お前らのところのガキ8人分で俺1人分の命しかなかったんや!」と勝ち誇ったように暴言を吐いたというが、これは自分に特筆性があることを知らしめたかったのではないかと言われている。
ただし、これだけ満たしていても、前者の「その百科事典で掲載することに有意性がある」を満たしてないと、ゴミ扱いされる。前述した上泉信綱は、剣豪の百科事典であれば、真っ先に掲載されるほどの重要人物になれるだろう。では、その剣豪の百科事典に司馬遼太郎の記事があったらどうなるか。削除されるべきゴミになる。
確かに、司馬先生は剣豪を題材にした時代小説も書いている。剣豪達が生きた中世の歴史を描く歴史小説家である。研究している人も多く、司馬先生の研究を題材にした書物もある。だからどうした。
司馬先生は剣豪とは全く関係ない。司馬先生本人は剣豪でもなんでもなく、有名な剣豪達の人生や思想に何らかの影響を与えたわけでもない。ただ、彼らを題材にした歴史小説という名のオナニーをしていただけである。オナニーが上手だったという点で、股間の剣捌きに優れた剣豪であったと解釈することも出来るが、そんなのは詭弁である。
えらい人が褒めている、権威のお墨付きがある[編集]
これにつきる。学会で高い地位を持っている、実際は大抵無能な高名な学者達や、給料泥棒の政治家共が、Facebookで「いいね!」を押すぐらいの軽い感覚で、その対象を褒めたとしたら、その対象の特筆性は飛躍的に上昇する。権威のあるえらい学者や政治家二人が褒めたら、上昇率は2倍になる。3人が褒めたら、3倍になる。
この為「ナントカ還元水」という項目は、その場しのぎで生まれた意味不明な言葉であったにも拘らず、発言者が偉い政治家であったこと、それに言及した人達も殆どが偉い学者や名の知れてるジャーナリスト、コメンテーターであったことなどにより凄まじい特筆性のシナジーを発揮して、ネットスラング以下の戯言にも拘らず、このアンサイクロペディアに単独項目が立てられるほどの特筆性を満たしてしまった。
加えて、「ナントカ還元水」は、発言者が自殺したことも、特筆性を高める追い風になったようだ。発言者がこの発言から程なくして自殺したため、この発言そのものにも前にもまして注目が集まったからである。つまり、発言者が自殺すれば、名言や迷言はその特筆性を飛躍的に上昇させることになる。確かに、太宰治、芥川龍之介 、カート・コバーンなど、自殺した人間ほどその言葉は神格化され、名言、迷言扱いされる。もし野獣先輩が自殺したら「ンアッー!」「いいよ、来いよ、胸にかけて胸に!」「ファッ!?」「ぬわあああああああん疲れたもおおおおおおおおおん」などの言葉は、ウィキペディアに掲載が許されるほどの特筆性を満たすようになるかもしれない。
また、現在檻の中にいる押尾学も、どうせ人生終わったし、俺の言葉を名言扱いして特筆性を持たしてやるという願いから自殺を企図しているらしい。
総論[編集]
結局、世の中権力が全てである。
ウィキペディアにおける特筆性[編集]
ウィキペディアにおける特筆性というものは、少々ややこしい。まず、ウィキペディアが、どういう範囲の情報を収録対象としているのか、判然としていない。
ウィキペディアは、自称、「質においても量においても史上最高の百科事典」らしいが、多くの人間からは、アニメやゲーム、漫画の記事ばかりどうでも良い情報が充実してるオタク専用百科事典程度にしか思われていなかった[1][要出典]。なかんずく日本版は特にそう思われていた。アニメが放送されるとその度に誰が死んだだの誰が裏切っただの最新回の情報が反映される[1]のに、世界の主要な都市、主要な河川、主要な山脈など本来百科事典に必要とされる肝心な項目は長々と放置を食らっているあたりがそれを如実に示している。
そのため、ウィキペディアは日本のオタク専用百科事典だと勘違いされることが多く、そうした勘違いした連中が主要な執筆者になってしまい、ガンダムのモビルスーツや主要キャラクターの記事などは片っ端から単独項目として立項されている。確かに日本のオタク専用百科事典なら、白き流星、赤い彗星、セックスセックス煩い医者などの記事はもっとも重要とされる記事だろう。また、鉄道系の記事に関しても同じことが言え、平均利用者数0人の駅や、さらには誰も知らないような、大昔に廃線になった路線までのっている。誰も使わない、知らない物に特筆性があるとは思えないが、実際に項目として存在する以上特筆性があると判断されているということである。日本のオタク専用百科事典なら、特筆性があることは間違いない。やっぱりんしかしウィキペディアはそういう百科事典ではなかった。
全然目指すどころかとんでもない方向へと迷走しているのだが、ウィキペディアは「森羅万象の網羅を目指す百科事典」「質も量も世界最大を目指す百科事典」らしい。アニメのことだけが書かれたサブカル専門事典ではないらしい。しかし、もしそうだとするなら、世界規模で、なおかつ、1世紀、2世紀規模の視点で百科事典を見なければならない。
アムロもシャアも生み出されたからまだ50年も経過していないキャラクターである。それも、東の最果ての辺境の島国で作られたキャラクターでしかない。アラゴルンやレゴラス、ガンダルフに比べたら特筆性に乏しいと言わざるを得ない。
一方で、アムロやシャアよりも特筆性のあるはず人物が特筆性がないと判断されることもある。阿部定という有名な女性の殺人鬼がいるが、彼女の起こした「阿部定事件」が「特筆性がない」という理由で削除依頼に提出されたことがある。しかも提出者は当時の管理者である。管理者様の仰ることだから間違いなく正しいのでしょう(棒読み)。しかしそうすると、ウィキペディアにおいては、アムロやシャアよりも阿部定は掲載する基準が下という扱いになる。
社会的規模著しい事件を起こし、その後映画にもなって黒木瞳や杉本彩など著名な女優が演じた実在の人物よりも、永遠に人を見下すことしかできないことに定評がある二次元のロリコンキャラと天然パーマぐらいしか特徴がない親父に殴られたことがないことが自慢の二次元キャラの方が特筆性があると、ウィキペディアでは思われているのである。これもうわかんねぇな……。まあアニメばかり見てたらそういう認識になるよね。日本人はアニメしか見ないからね。仕方ないね。
なお、アムロとシャアの生みの親である富野由悠季については、文句なしに特筆性があるといえる。なぜならこのハゲは神だからである。イスラム教の神ムハンマド、キリスト教の神イエス・キリストに匹敵する、富野教の神であるこのハゲジジイに対して、特筆性がないなどと抜かすのはあまりにも礼を失した暴言である。
特筆性があることの弊害と利点[編集]
特筆性があることで、百科事典の発展が損なわれるという指摘がある。確かに、特筆性を設けると、その基準に達していないとみなされた記事は片っ端から削除依頼を提出されてしまう。削除厨が跳梁しやすい環境が醸成されるのだ。現に、特筆性を根拠に削除依頼を出す奴のほぼ九割が、削除することしか考えてない削除厨である。削除厨のおもちゃにしか使われていない特筆性など有害極まりないとして、撤廃を求める声も強い。
しかし、特筆性がなかったらどうなるか。あらゆる項目が執筆できることになってしまう。君は自身の記事をウィキペディアやアンサイクロペディアに作れるし、君の友人や、君の通っている学校、君の飼っている犬、君と君の友人の間だけで流行っている内輪ネタを単独項目として立てることが出来てしまうのである。
これは、書いている本人からすれば満足感が得られるかもしれないが、第三者から見たら調べ物の邪魔でしかなく、ひたすら不愉快かつ不便な存在が増えることにしかならない。君の仲間の間だけで流行っている内輪ネタなど、第三者から見たらゴミでしかない。同様に、誰か他の人達の間だけで流行っている内輪ネタも、君にとってはゴミでしかない。特筆性が完全になくなると、こういったゴミが集積してゆきゴミの山が出来上がってしまう。それを防ぐ為に特筆性というルールが設けられている。
ところが日本語版ウィキペディアはこうした説明が下手糞、かつ、自分の知的水準の高さを見せつけようとするあまり晦渋な表現ばかり使って堅苦しく読みづらい文章を作るので、ウィキペディアの特筆性の項目は何が書かれているのか分からない支離滅裂な状態となっており、これゆえに誰の理解も得られず未だに草案状態のままとなっている。にもかかわらず、日本語版ウィキペディアでは特筆性薄弱を根拠に削除依頼が提出され、いくつもの記事が削除されている。
日本人は本当にルールをなし崩しに定着させるのが得意ですねえ。
なお、他の言語版のウィキペディアは日本語版よりはマシである。あくまで日本語版よりはマシという相対的評価でしか肯定的評価を下せない辺りがウィキペディアの三流百科事典ぶりを如実に示している。
アンサイクロペディアにおける特筆性[編集]
我らがアンサイクロペディアにおいては特筆性というものは全く存在しません。そのためこのような気持ち悪い内輪ネタでも存続が許されるどころか秀逸な記事になったりもするのです。そのため、あなたはあなた自身やあなたの友人、あなたの飼ってる犬、あなたの仲間の間で流行ってるだけの内輪ネタなどの記事を作ることができます。
ただし、アンサイクロペディアでは、つまらないと思った記事には誰でもNRVやFixなどの削除系テンプレートを貼ったり、削除依頼に提出することができます。削除されてもまた作ることは出来ますが、凝りもせず人の笑いを誘えない下らない記事ばかり書いていると、追放されてこのサイトに書き込み自体が出来なくなります。このサイトは自由気ままですが、自由気ままとはそういうことです。このサイトは無法地帯(ディストピア)と背中合わせに踊(ダンス)っちまっているのさ…。
最後に[編集]
このサイトには特筆性がない。君自身?君の友人?内輪ネタ?大いに結構、記事に作って建ててみろ。
ただしその記事が1週間後に存続しているかどうかは保証しないがな!