玉葉

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玉葉(ぎょくよう)は、日本中世時代の公家、九条兼実の日記。1164年から1204年までの記述が現存している。この時代は新興勢力として台頭して来た武士が各々著しい衰亡を繰り返し、また自分達の基盤を確立する為に海千山千の皇族や公家達と策謀の限りを尽くして泥沼の抗争を繰り広げた時代であり、兼実もまた、その混沌の趨勢に根深く参与し、翻弄された一人であった。そんな兼実が書いた日記だけあって、内容からは政治のどす黒さが如実に伝わってくる。玉葉という典雅な題名とは対照的に、ダークな内容の日記と言える。

自分の不祥事を始めアンタッチャブルな部分を隠匿するために描写が漠然となっていたり、空白を意図的に設けている部分もあるが、時代の流れが克明に描かれており、史料としては一級品の扱いを受け珍重されている。そればかりか、吾妻鏡など、後世の史料の多くに丸々剽窃されていることもある。兼実は盟友の源頼朝にはしごを外された挙句政争に敗れて不遇な晩年を送ったが、自分の書いた日記が広く世間に周知、普及されたこの一点を持って、最後は勝ち組になれたと言えるだろう。

題名について[編集]

玉葉の「玉」とは珠玉、すなわち素晴らしいものを意味し、葉は、植物を材料とする紙、つまり日記を書く紙面を意味する。命名者は兼実自身であり、要するに彼は自分自身の日記をウィキペディアやアンサイクロペディアで言うところの「秀逸な記事」と認定しているのである。いかに公家が概ねナルシストであるからと言ってもあまりに酷い自画自賛ではないか、と言いたくなるだろうが、教養の高い兼実が書いただけあって文体は流麗であり、含蓄に富んでいる。後世の文化人達も玉葉を高く評価していて、二条良基などに至っては、ただの紙の集まりとは思えぬほど典雅、雄渾である。その美しさ、雄大さは、紙などではなく、もはや海と呼んでも差し支えないとして、玉葉を「玉海」と呼んだ。手前味噌するまでもなく、玉葉は名文だったのだ。これでもし、兼実に謙遜の心があったら、後世の人々は兼実の謙虚な心を礼賛し、玉葉の評価も更に上がったであろう。

作者の兼実について[編集]

作者の兼実は、その浮沈の極めて激しい人物である。公家の多くは新興勢力の武士を蛮族と蔑んでいたが、兼実は早くから武士に理解を示し、源頼朝と仲良くなって莫逆の契りを交していた。後白河法皇は頼朝の台頭が頓挫するよう数々の嫌がらせを仕掛けたが、そのたびに兼実は支援、擁護をした。頼朝にとって兼実は恩人であった。ある時頼朝は兼実に対して、「少なくとも五代先まで兼実殿の御恩を忘れない。息子達には兼実殿の屋敷に脚を向けて寝ないよう戒める」と約束した。この約束が反故にされたことは言うまでもない。ついでに、頼朝の家系は五代も続かず断絶した。

頼朝が台頭するに応じて、兼実も力を拡張させていき、宮中で我が世の春を謳歌するようになっていた。ところが、邪魔者であった源義経を討伐すると、頼朝は敵対していた後白河法皇と仲直りしてしまい、兼実は梯子を外されてしまう。追い討ちをかけるかのように、政敵土御門通親がクーデターを起こし、兼実は失脚してしまった。頂点からどん底に叩き落とされた兼実を更なる不幸が襲う。嫡男九条良経が先立って早世してしまった。

すっかり消沈した兼実は出家し、九条家の巻き返しを見ることなく病没した。『玉葉』は兼実が出家した年で記述が途絶えているが、没落に悲嘆した兼実が執筆意欲を阻喪して断筆したのは想像に難く無い。末期の記述にも、没落し、精神的に憔悴、落胆していた兼実の陰鬱な気分が如実に反映されている。とりわけ目を引くのがクーデターにより失脚した直後の日記である。その記述は一面が自分を失脚させた土御門通親に対する呪詛の言葉で埋め尽くされており、人間の狂気というものがひしひしと伝わってくる。

曹洞宗との関係[編集]

曹洞宗では玉葉は開祖道元の「正法眼蔵」並の扱いを受けており、バイブルとして珍重され、曹洞宗の宗徒必読の書物となっている。何故、ここまで珍重されているのかというと、開祖道元と九条兼実は、同じ敵を持つ点である種味方の関係にあるからだ。

開祖道元は、土御門通親の隠し子である。道元は通親に捨てられ、各地を放浪しながら困窮した少年時代を過ごさねばならなかった。そして通親と言えば、玉葉の作者九条兼実を失脚させた張本人である。つまり、道元と兼実は、共に通親をかたきとする立場を同じくする同志ということになる。開祖の同志が書いた日記が、聖書扱いされて珍重されるのも、むべなるかなと言える。