王莽

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衝撃の事実を伝える王莽。
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王莽(おうもう)とは、中国代に現れた予言者。王朝滅亡ブームの火付け役として知られる。

概要[編集]

王莽は漢の元帝の皇后王政君の一族であったが、早くに父を失ったために、一族の多くが高官に昇る中でほとんど出世できず、臥薪嘗胆の日々を送っていた。ところが一族の王鳳が死んだ後、その遺言により成帝の下で急速な昇進を果たし、ついには大司馬に至った。しかし栄華は続かず、成帝が死んで哀帝が立つと王莽は疎んじられ、地方に追放されてしまった。失意の中で王莽は勉学に励んだが、古典を学ぶ中でその文章に先人の予言が隠されていることに気が付き、やがてその研究に没頭するようになった。こうして予言者・王莽が誕生した。

王莽は神を祀ることに熱心で、まず次男の王獲を生け贄に捧げて神に政界復帰を願った。すると不思議な事に哀帝が突然死して幼い平帝が即位し、王莽は再び権力を握ることができた。しかしその平帝も成長すると内心で王莽が邪魔になってきた。そこで王莽は長男の王宇を生け贄に捧げ、神を祀った。すると不思議な事に平帝も突然死したので、宣帝の曾孫の孺子嬰を「皇太子」として擁立した。さすがに2歳の赤ん坊には王莽に楯突く力もなく、孺子嬰は完全に王莽の傀儡となった。しかし彼のこうした所業は天下に知られることはなく、人々は彼を賢者として持て囃したという。

この一件によってますます信心深くなった王莽は、世に知られていない古文書を次々に「発見」し、その中に漢朝滅亡の予言が隠されているとして、「漢朝は滅亡する!」とあちこちで騒いで民衆に終末論を吹聴するようになった。いわゆる王朝滅亡ブームの時代がこうして幕を開けたのである。このころ、ブームに便乗して一稼ぎしようと企んだ儒学者等によって緯書と呼ばれる予言の書が大量に作られ、それによってますますブームは加速していった。どうみても危ない人にしか見えなかった王莽は何故かクビにならず、それどころかますます漢王朝に重きをなしたので、その権威によって彼の書は尽くベストセラーとなり、彼の説はあっという間に国中に広まっていった。彼らの唱えた予言の説を讖緯説といい、多くの信奉者を生み出すこととなった。

そしてついに、孺子嬰が皇位を放り投げ、彼の予言通り漢朝は滅亡してしまった。

主な著書[編集]

  • 『高祖の大予言 漢帝国滅亡の日』
  • 『漢朝滅亡 謎の古文書に記された文字を追え!』
  • 『漢朝滅亡の鍵は「讖緯」にあった!』
  • 『迫り来る帝国の終焉 その時、救世主現る』
  • 『「瑞祥」に隠された神の真意を紐解く』

皇帝王莽[編集]

漢王朝が滅亡し、新王朝が立った。つまり新王朝は新王朝である。何を言っているのか分からないと思うがそういう事である。皇帝の椅子が空になったので、漢王朝第一の家臣であった王莽が仕方なくその椅子に座ることとなった。そして古文書に則ったさまざまな改革が行われた。

王莽の予言的政策[編集]

皇帝になった王莽は、古文書研究家としての知識を活かし大昔の古典をヒントに政治を行ったが、そこから導き出された政策は時代を遥かに超えていた。王莽はその政治の上でも、はるか未来を見通していたのである。温故知新という言葉は彼のためにあると言っても過言ではない。しかしその多くが後世の史家には全く意義が理解されず、王莽政権の評価は彼らによって不当に貶められているのが現状である。王莽は生まれるのが早すぎたのだ。以下に王莽政権が実施した政策の一部を掲げる。

  • ナイフ付き貨幣の鋳造
王莽が発行したナイフ付き貨幣。

貨幣と武器を一体化することで、商店や銀行に強盗が押し入った場合に手元の貨幣で即座に反撃することを可能にした。しかし、商業が未発達であった当時にあっては、この貨幣の真の価値は人々に理解されなかった。

  • 中国最初の人体解剖

死刑囚の身体を解剖して臓器や血管の様子を記録させ、それまでの抽象的な医学から、実証に基づく医学への転換を目指した。これにより王莽は中国の解剖学の祖と考えられている。しかし王莽が貶められたことで、こうした医学の成果までもが闇の中に葬られてしまった。その結果、中国医学は長い間改革が行われず停滞が続くこととなる。

  • 二字名の禁止

ただでさえ画数の多い漢字を、2つも書き連ねることによる時間の浪費、及び経済的損失を抑制するため、人の名前に使う漢字は一文字と決められた。このような漢字文化への大々的な介入は、はるか後に中国共産党簡体字を制定するまで全く行われなかったものである。王莽はその2000年前に、既にこうした漢字文化のもつ弊害に気づいていたのである。

  • 飛行実験

驚くべきことに、王莽は飛行機械の実験をも行っている。実験は失敗に終わったが、王莽の科学技術に対する進歩的な姿勢が見て取れる。

  • 井田制の実施

井田制と呼ばれる、土地の平等分配を基礎とした税制を行おうとした。あまりに急進的な政策であったため途中で中断されたが、王莽政権が一種の共産主義を志向していたことが伺える。

王莽の死[編集]

このように意欲的に政治に取り組んでいた王莽であったが、残念ながら王朝滅亡ブームはまだ続いていた。新王朝樹立から十数年しか経っていないのに、早くも王莽の二番煎じを目論む者が現れ「新朝は滅亡する!」と唱え始めると、讖緯説を信じていた民衆は神のご意思であるとばかりに一斉に王宮に雪崩れ込み、王莽はあっという間に殺されてしまった。そしてその後の内乱を制した劉秀によって漢王朝が再興された。

王莽「漢朝が滅亡すると言ったが、復興しないとは言ってない。」

しかし王莽の讖緯説はこれによって滅びることはなかった。光武帝劉秀は熱心な讖緯説の信奉者であり、彼もまた王莽の影響を受けた一人であった。また王莽が殺された時、予言者王莽の力にあやかろうと、乱入した民衆がこぞってその肉を喰らい尽くした事が、史書に記録されている。予言者としての王莽の威光が失われることは無かったのである。その後讖緯説は事実上の漢の国教となり、偉大な予言者・王莽の系譜は受け継がれることとなったが、その後王朝が交替するたび「○朝は滅亡する!」と騒ぎ立てる人間が続出し人民はまったく心休まる日がなく農事の妨げとなったので、代くらいまでには讖緯説は禁止され、ようやく王朝滅亡ブームは収束し、以降は王莽もただの失敗政権の主としか認識されなくなった。