ちんこない親王

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ちんこない親王(珍子内親王。生年不詳〜元慶元年(877)4月)は、文徳天皇静子との間に生まれた皇子である。あくまで「親王」、つまり天皇から生まれた男子である。男の娘の先駆けとされるが、その生涯は謎に包まれている。

生涯[編集]

少年時代まで[編集]

姉の恬子内親王が嘉祥元年(848)頃の生まれと見られることから、ちんこないは850年代に生まれたとみられる。生まれてきた皇子をみたところちんこがなかったことから、このように名付けられたと推測されている。

母静子は文徳天皇から深い寵愛を受けており、ちんこないも、ちんこないにも関わらず、将来の天皇候補の一人として大事に育てられていた。しかし、当時の天皇は子孫を残すことが仕事であり、ちんこないにそれが務まるのかどうかが不明であったため、時の権力者藤原良房からは軽く見られていた。有力な皇位継承候補として権力争いに巻き込まれた兄や、伊勢神宮で巫女さんをすることになった姉たちと異なり、ちんこないにも関わらず親王であったというちんこないの立場は微妙であったのである。

短過ぎた生涯[編集]

貞観元年(859)以来伊勢神宮で巫女さんを務めていた姉の恬子内親王は、ちんこないと同様にちんこがなかったため、当時プレイボーイであった在原業平に篭絡されるなどの経験もあったようで、性的に熟達していたようだ。しかし、天皇の位が、ショタ清和天皇から、同じくショタの陽成天皇(宮中で殺人事件を犯したことで知られる天皇である)に譲位されたのに伴い、貞観18年(876)、姉は務めを終えて都に帰ってきた。

姉と肉体関係を持っていた在原業平は、弟のちんこないにも興味を持ったようだが、いくらプレイボーイとはいえ、男の娘というものがどのような存在なのかがわからなかったとみられ、以下のような歌を詠んでいる。

名にし負はば いざ言問はむ ちんこない 股間にまらの ありやなしやと
「"ちんこない"という名をもつちんこない親王よ、あなたに尋ねよう。股間にちんこはついているのか、いないのか」という意味。

結局一夜を共にするまでになったのかどうかは、史料から伺い知ることはできない。

確実に言えることは、姉の帰京の翌年、元慶元年(877)にちんこないは謎の死を遂げた、ということだけなのである。

論争[編集]

以上の記述は、この人物を「ちんこない親王」、すなわち、あくまで親王(♂)であるとする有力説に基づいて記したものである。一方で、正しくは「ちんこ内親王」であるとする説も存在する。この説に立った場合、親王(♂)ではなく内親王(♀)であり、しかも「ちんこがある」という事になってしまう。つまり彼、いや、彼女は、男の娘ではなく、ふたなり美少女である可能性が生じる。これは明らかに傾向を異にするものであり、注意が必要である。

また、いずれにしても、男の娘やふたなりなどとしての活動を示す史料は残されておらず、その根拠は名前によるところが大きい。しかし、この薄命の皇子(皇女)は日本の萌え文化のひとつの端緒になっている可能性が高く、よりいっそうの研究の進展が望まれる。

関連項目[編集]

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