現代アート

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現代アート(げんだい-)とは、現代のアートである。

「アート」の変遷[編集]

文字を持たなかった原始の人間は、絵によって情報を伝達することがあった。情報とは時と場合によって様々であったが、その文化は人類が文字を持つようになってからも受け継がれた。そして、見た人がその絵にこめられた情報や風景を一目で理解できるよう、描く側も見たままを描いていた。そしてそれは彫刻になっても同じであり、無理に変な注釈をつけずとも見る側は理解してくれたのである。そういった芸術、つまり「アート」の形は、ごく最近まで受け継がれてきた。しかし、そういった凝り固まった文化があれば、そこに一石を投じようとする人が必ず出てくる。芸術家なんかには特に多い[不要出典]。例えば、普通の画家としてそこそこ有名だったパブロ・ピカソが提案したキュビズムの手法がそうである。見ただけでは何がなんだかわからず、1912年にはフランスの下院で非難演説まで行われるなど反応も散々だった。しかし最後はピカソ自身のネームバリューに多くの画家がホイホイついていき、現在に至る。つまり、ネームバリューさえあれば何でもアリという風潮が生まれていってしまったのである[不要出典]

性質と手法[編集]

Cabbage.jpg

時代の流れとともに、見ただけではわからないような絵は「現代アート」という新しいジャンルとして半ば諦められるように人々に認知されていった。現在ではさまざまな「現代アート」が存在するが、それらは主に下に挙げるような手法で描かれている。以下は、左にあるキャベツを元に考えていく。

複雑化[編集]

Lettuce iceberg variety.jpg

「とことん複雑にして、わからなくする」という手法であり、元祖現代アートであるピカソのキュビズムなどはこれにあたる。「彼のように、普通の画家から現代アート作家に転身した者がたまに使っている。見ていてもよくわからないが、元の物より複雑にしているという性質上、なんとなくすごいと思われたりすることもある。デメリットは、描くのがめんどくさいということである。

単純化[編集]

キャベツ.jpg

複雑化の対極にある手法である。簡単に書くとか省略して書くとか言うレベルではなく、見てわからないぐらいに線を省いていく。省略の仕方が中途半端だと「手抜き」ととられてしまうため、とことん省略していく。この手法で描くのには手間こそかからないが、その分気を使わないと見る者に印象を与えられない。なお、アニメにおける省略画法はこれを応用したものである。

抽象化[編集]

GendaiArt01.jpg

現在の主流。見たものを直感的かつ抽象的に表現する手法であり、具体的なものを連想させてはならない。よって素人目には何がなんだかわからない。だからこそ評価を得るにはタイトルやキャプション、つまり題名や説明書きの文章力が重要になってくる。なんとなく「ああ、そうなのか」と思わせられるような文章が付いていれば、誰でも基本的に納得してくれる。そういうものである。この文章の重要性については後の項でも詳しく説明するが、たとえば右の絵の題名が「キャベツ」であるならば、「一つのキャベツから感じ取られた溢れんばかりの生命力と瑞々しさを表現した」とか書いておけばいいのである。

題名と説明[編集]

アサヒヴィールの肖像画.png

上でも書いたように、現代アートに欠かせないのがタイトルとキャプション、題名と説明文である。現代アートというものは見ただけでは何がなんだかわからないのがひとつの特徴であるため、何らかの形で説明を入れないとまずいのである。

つまり、つける文章はあくまで説明の目的であるため、題名と説明文の両方を説明臭くする必要はない。むしろ見る者の興味を引くために、どちらかひとつは曖昧で抽象的なものにしておくべきである。そして曖昧な文章をつけるにも、それが中途半端なものであってはならない。「自分の頭の中に浮かんだことをそのまま描きました」よりも「自身、そして世界への葛藤、怒りと悔恨」の方がいいのである。両方の文をひとつずつ見てから、左の絵を見てみるといい。前者よりも後者の方が、それっぽく見えてくるのではないだろうか。よくわからなければわからないほど、奥が深いアートということになる。深く突っ込むのは、素人というものである。

評価[編集]

GendaiArt01.jpg

「現代アート」と名乗っているものは、言うまでもなくアートである。しかし大抵の場合、その評価は決して芳しくない。なぜなら、素人目には何がなんだかわからないからである。それが現代アートなのに、という根本的な事をわかっていないのだ。そういった周囲の厳しい評価が才能の芽を摘むこともある。そんな中、少しでもそうした自体を減らそうと、幼稚園の段階からそういう教育を進めていく方針が全国的になっている。園児が「せんせいとぼく」の題名で書いてきた右の絵に対し、右下の赤い部分が「幼さゆえの活気に溢れる自分自身」を、そして左上の青い部分が「そういった自分たちを愛のこもった目で見て育ててくれる先生」をそれぞれ表していると瞬時に判断し、正当な評価を下すのだ。「うわぁ、よく描けたねぇ。すごいよ、そっくりだねぇ。」などである。

ただしこの教育体制はなぜか小学校以降は確立されておらず、小学校でこんな絵を提出しようものなら「ふざけるな」と一喝されるのみである。こうして大部分の子供たちは、古い時代の美術感に戻されていくのである。指導者の頭の中がルネサンス時代で凝り固まっていると言えよう。そんな人たちに「現代アート」を理解させようとするのは、まったくもって無意味である。

総括[編集]

現代アートは、文字通り「現代のアート」である。文化が変わろうとする時、それは時として大きな抵抗を生む。素人が現代アートを見て首を傾げるのはこれにあたる。しかし時代の流れによって、それらは徐々に認められていくのである。原始から続いた美術の概念を覆しかねない現代アートだが、それはいずれ新たな美術界の常識になっていくものなのである。時代の変化についていくのはいつの世も難しいことだが、ついていかなければいい笑い者である。

関連項目[編集]


Upsidedownmainpage.jpg 執筆コンテスト
本項は第26回執筆コンテストに出品されました。