琉球独立戦争

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琉球独立戦争(りゅうきゅうどくりつせんそう)とは2007年9月29日に沖縄県宜野湾市の海浜地域で勃発した11万人(主催者発表)の一斉蜂起、という未曽有の大規模軍事クーデターに端を発する、琉球帝国(旧・琉球独立国)と、日米両政府軍の戦争のことを言う。

ちなみにこの戦争は現在も継続中であり、今現在沖縄は、日本国外務省によって『渡航禁止地域』に指定されている。

概要[編集]

琉球独立戦争は、東西冷戦終結以降の極東アジア地域における最大規模の軍事衝突である。

この戦争の特色は、面積1206km2余りで南北に細長いという極めて狭い地域を主戦場としていながらもなかなか決着がつかず、戦闘が長期化していること、国際条約によってその使用が禁止されているはずの生物兵器(EM菌)や『血のように紅い芋』と呼ばれる対人地雷、といった非人道的兵器が大量に投入されていることなどが挙げられる。

戦争の背景[編集]

大東亜戦争(通称・太平洋戦争)における最大の地上戦が行われた沖縄は、戦後のアメリカ支配から脱却した後も、日本政府による補助金漬け政策と、『沖縄病』と揶揄される民族浄化政策によって、強い閉塞感に覆われていた。

そんな中、1995年におこった在沖米軍兵士による少女暴行事件が引き金となって、同年12月20日、大規模な暴動(コザ暴動)が発生する。

この暴動は蜂起には至らなかったものの、鎮圧部隊との衝突によって多数の市民が犠牲となり、県民の心により強い不信感を植え付けることとなった。


その後、国際社会から沖縄県民に対する人権抑圧政策を非難された日本政府は、2007年7月、沖縄で主要国首脳会議を開催して『平和の島・沖縄』をアピールしようと画策したが、抗議デモに乗じたテロリストに、会場入口まで侵入されて青果を奪われてしまう(青果リレー事件)という大失態を犯してしまう。

たまたま付近で演習中だったアメリカ第3海兵師団の部隊が会場に駆け付けたおかげで、それ以上の大惨事に発展することは免れたものの、その後、「テロに屈しない!」というアメリカ軍最高司令官の意向で徹底的な掃討作戦が展開され、テロリストのみならず多くの一般市民が凄惨な戦闘に巻き込まれてしまう結果となった。

この事件によって沖縄県民は、日米両政府に更なる不信感を抱くこととなり、これ以降県内各地で在沖米軍と沖縄県民との軍事衝突が頻発化する(島ぐるみ闘争)。

またこの事件をきっかけに、本島中部の沖縄市において、一部知識人・文化人が中心となって密かに『琉球独立国』の建国が成され、直後に開催された第1回全沖縄人民代表会議において、来るべき独立戦争に備えた組織作りと戦力の拡大の基本方針が決定された。


その後7年の歳月を経て十分な軍事力を有することとなった琉球独立国は、2007年9月29日、宜野湾市海浜公園において独立宣言を採択するとともに日米両政府への宣戦を布告し、直後11万人(主催者発表)の大兵力をもって一斉蜂起した。

ちなみに、この10万人超規模の一斉蜂起というのは歴史上類を見ないものではあるが、一部軍事専門家の間では、これは楽器をも武器にして戦うと恐れられた伝説的なゲリラ戦闘の天才、マサキチ・キナ独立国軍大将の巧みな戦術機動による無中生有の計であるというのが通説となっており、実際の兵力数に関しては諸説ある。

戦争の経過[編集]

戦争序盤[編集]

蜂起後数日で沖縄市・北谷町・北中城村を制圧した独立国軍は、これにより米軍兵力の分断に成功する。

極東最大の空軍基地である嘉手納基地を手放すわけにはいかない米軍は、普天間の第1海兵航空団・瑞慶覧の第3海兵師団と連携を取って独立国軍の包囲撃滅を画策するが、第3海兵師団主力が蜂起時、北部演習場で演習中だったことが災いし、兵力の集結に手間取ってしまった。

その間隙を突いた独立国軍は、寡兵で嘉手納基地周辺の米軍部隊を拘束しつつ主力をもって瑞慶覧・普天間の海兵隊司令部を占領し、次いで浦添の米軍補給基地の確保に成功する。

その後10月10日、日和見を決め込んでいた那覇市小禄に駐屯する自衛隊・第一混成団を電撃奇襲して(10・10奇襲)武装解除し、武器弾薬及び航空機等の兵力を手に入れることとなった。

第一混成団の接収によって、対等とは言えないまでもある程度のレベル以上の軍事力と継戦能力を確保した独立国軍は、余勢を駆って南部地域一帯を占領した後の12月8日、那覇市首里において琉球帝国の建国を宣言し、ここに琉球独立国は琉球帝国と成った。

戦争中盤[編集]

南部戦線における戦闘が終結して中部以北に戦力を集中することとなった独立国軍あらため帝国軍だったが、その間に嘉手納~うるま市の丘陵地帯に強固な防御陣地を構築した米軍の攻略に手を焼くこととなった。

戦闘が膠着状態に陥る中、米軍は、普天間を巡る戦いで捕虜となった米軍高官の救出を画策し、特殊作戦部隊を編成して普天間基地近辺に浸透させる。

宜野湾方面に展開していた帝国軍第8師団は、部隊が後詰であること、地上侵攻のみを念頭に置いて中城方面からの襲撃を全く警戒していなかったことなどから完全に奇襲を受け、捕虜の奪還を阻止できないだけでなくほとんど抵抗らしい抵抗が出来ないまま師団長・伊波洋帝国軍中将以下師団幕僚全員戦死、第8師団は事実上壊滅した。

捕虜救出に成功した米軍特殊作戦大隊は、騒ぎを聞きつけて急行してきた帝国軍部隊に中城海岸への退路を防がれたものの、兵力差をものともせず果敢に戦闘し包囲突破に成功して要人を無事脱出させた後、嘉手納戦線での反撃準備のための遅滞作戦を遂行するため中城城跡付近の丘陵地帯に立てこもり、危急を聞いて駆け付けた帝国軍第6師団及び第7師団相手に、圧倒的な兵力差をものともせず、後に『歩兵戦闘の極み』と称される伝説的な戦闘を繰り広げ、両師団に大損害を与えた後に包囲を再度突破し、悠々と海上から撤退した(中城の戦い)。

現在の状況[編集]

中城の戦いで反撃態勢構築の時間稼ぎに成功した在沖米軍は2007年12月、嘉手納において総反撃を実施し、戦線を北谷まで押し戻した。

しかし反撃は続かず、結局沖縄市~北谷ラインを前線として再度戦線は膠着してしまう。

膠着状態に陥った現状を打破したい帝国軍は、防備を固める米軍をおびき寄せるための罠を仕掛け、それをきっかけに北谷における一大反攻作戦を開始せんとする作戦を発動した(ハニー・トラップ作戦)。

2008年2月10日、沖縄市の嘉手納基地東端第2ゲート付近において在沖米海兵隊所属の有力な部隊と戦端を開いた琉球帝国第5師団所属の特殊任務部隊(平均年齢14歳)は、巧みな年齢偽装と進路誘導で米軍部隊をおびき寄せ、北中城村島袋において包囲拘束し、捕虜とすることに成功する。

その後に「幼女を攻撃した」という米軍の人権侵害を訴える戦術をとった帝国軍は、北谷において大規模な反攻を開始するために兵力を集結させようとしたものの、結局土壇場で偽装が見抜かれて6000人しか兵力を集結できず、反攻作戦は失敗に終わった。


なお、人権侵害を重く見た米軍首脳は、帝国に対し謝罪と一時停戦を申し入れ、帝国政府は停戦要求以外を受諾した。 2008年4月現在、戦闘は膠着したままであるが、沖縄市では散発的な戦闘が発生しており、戦況はいまだ予断を許さない。

戦争の余波[編集]

中城の戦いで帝国軍が使用した生物兵器『EM菌』は、付近一帯を著しく汚染し、土壌を豊かにしたり、経口感染した感染者の健康を著しく促進するなど、多大な被害が出ている。

また、嘉手納基地要塞の背後地域である読谷村や金武町などには、上陸を阻止するための対人地雷が多数敷設されて広大な地雷原となっており、付近住民の生活に大きな影響を与えている。