生物多様性

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生物多様性(せいぶつたようせい)とは、「生き物が一杯いるよ」ということを言い換えた言葉。生き物がたくさん居て、数えるのが面倒だったり、数えるのに飽きた時や、そもそも数えることが不可能なときに、「生物多様性が豊富である」と一言で片付けると便利である。また、一般人には耳慣れない言葉であるため、この単語を多用することで、物知りのふりも出来る。

この言葉は1985年にアメリカ合衆国で誕生した。もともと「生物学的多様性 (biological diversity) 」という用語があったのだが、少し長いスペルが面倒くさいとして、省略形の「生物多様性 (biodiversity) 」が広く普及することになったと言われている。

環境反故保護の立場から「省力化」が唱えられたりするが、生物多様性という言葉は上記のように成立から使われ方まで「省力化」の申し子のような言葉である。このため環境保護の分野で生物多様性は多様多用される言葉になっている。

定義[編集]

生物多様性とは「生き物が一杯いるよ」と言えば説明がつくはずなのに、学者先生達は一般人に分かりにくくして威張り散らすため、多くの定義をこしらえた。

  1. 「生物学的構造の全てのレベルでの生命の多様性」- なんとなく分かりそうで分からないような定義
  2. 「異なる生態系に存在する生物間での相対的な多様性の尺度」- 抽象的な単語を並べてもっと分かりにくくした
  3. 「ある地域における遺伝子・生態系の総体」- 学者が説明を手抜きした例

学者たちは、このように分かりにくく表現するだけでは物足らず、生物多様性が更に分かりにくくなるように、次の3種類に分けた。

  • 遺伝多様性 - 遺伝子が色々あること。簡単に言えば「オレとオマエは別人」という考え方
  • 種類多様性 - ともかく種類が沢山あること。いちいち数を確認する奴はヒマ人に違いない
  • 生態多様性 - あっちゃこっちゃ別々の場所は別々だということ。上にも増してヒマ人が調べて回る

1992年には地球各国政府のヒマ人が集まって「環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)」という会議を開き、もう一つ余分な定義と余計なお世話の国際条約(生物多様性条約)を作り上げた。しかしながら、アメリカ合衆国をはじめいくつかの国は、自国の損になると考えて、条約には批准しなかった(このようなアメリカの身勝手な行動は京都議定書の策定に際しても見られた)。

誰かが言ったように生物多様性が実質的には遺伝多様性であるのならば、オレ、オマエ、アイツ、コイツ、ソイツ、ドイツ……と際限なく数えてまわる必要があり面倒である。そこで研究者は手抜きするために、研究する際には種類多様性をよく用いる。

測り方[編集]

生物多様性を種類多様性で調べるにしても、人によって種類の分け方が違うので、結局どんな数になってもおかしくない。極端な場合、「ここにいる生き物は全部同じ種類だ」と宣言すれば数えてまわる手間が省ける。イヌオオカミの一種だとか、恐竜の一種だとか、言い張る人がいるのもこのような理由からであろう。

地方色[編集]

生物多様性は地方によってまったく違っている。例えば、シーランド公国では住人を除いて生き物は皆無に近いが、ブラジルのようにジャングルがある国では数え切れないほどの生き物がいる。日本では青木ヶ原樹海の生物多様性が豊富なことが有名であり、数えに行って戻ってこられなくなる人が多いことが報告されている。また、アメリカ合衆国アーカンソー州のホットスプリングスは、温かい水を好む生き物が集まってくることで有名な土地である。

多様性の減少[編集]

環境保護活動家や生物学者たちは生物多様性を保護する必要があると声高に主張するが、世界全体の人類の中でそのような考えに賛同する人はそれほど多くはない。そもそも生物多様性という言葉とその概念を知る人の方が少数派である。

したがって、生き物の種類が多くて鬱陶しいと考える人たちは、その数を減らすことに専念してきた。日本の例で言えば、古くは蚊取り線香の開発によるの撲滅や、蝿取り紙によるハエの捕殺がある。また農薬散布による昆虫類の一掃も例に挙げられよう。時にナチスドイツの様に、人類自身にこの考え方を当てはめる危険思想を持つ統治者と政府が現れて悲劇を作っている。

2000年代からバイオエタノール利用を米国政府が推進したため、国際的な穀物価格の上昇が続いている。このことが、ブラジルなどの開発途上国の天然林の耕地化をもたらし、環境破壊と生物多様性の減少をもたらしているとの指摘がある。これは生物多様性条約や京都議定書の批准を拒んでいる国にとっては、ごく自然な行為であり、非難する方がおかしいとも言える。

ちなみに、心ある人々の中には、台湾から移住してきた(自力で移住してきた訳ではない点には留意したい)猿や釣り人が愛する異国の魚も放っておけば、生物多様性が増えて却って良いと断言する人も居るが、これで何がしかの人的被害や漁業被害が出たからといって、心ある人々が責任を取るわけではない。タイワンハブとホンハブの雑種が血清が利かないかもしれないの で、心ある人々を被検体にする訳にもいかないのである。

保護[編集]

前の節にあるように環境保護を訴える人々は少数派である。その少数派であると思う危機感のせいか、主張を広めるためしばしば矛盾した行動をとる傾向がある。米国の副大統領を務めたアル・ゴアは、退任後の環境活動や『不都合な真実』で著名ではあるが、化石燃料を大量消費し二酸化炭素を大量排出するジェット機を利用して、その環境活動を全世界で行っている。

また、環境保護団体として有名なシーシェパードは、「鯨ちゃんアザラシなどの海洋生物がかわいい」主義を前面に押し出した行動をとっており、しばしば南極やカナダ、ついでに太地で器物破損・傷害などの事件を引き起こしている。これらの行動は、研究者ショーン・コネイによる「大きな生き物は大して重要じゃない。ばい菌を見てみろ。色々種類が多いじゃないか。ばい菌がたくさんいる方が重要なんだよ。」との意見表明とは一見して逆の立場ように見えるが、自分の好きな対象への偏った愛情と他の人間・生き物への軽視という点では共通するところがある。

同じような環境保護主義者の偏った生き物への愛は、文字通りに「狼を野に放ち」罪も無いシカを襲わせたり、台湾から移住してきたサルを撲滅して日本のサルを守ろうとしたり、釣り人がこよなく愛するを駆逐して他のどうでも良い魚を増やそうとしたりする態度にも表れている。

もっとも、台湾からわざわざ猿を移住させてくれるような人や、釣り人に愛されるような魚を野放しにする人は、動物が好きな人であり、無関心な人はそんな事をしないという点には留意したい。動物が好きだから、狩りの為に猪が居ないところにイノブタを放ち、犬や猫を飼っては捨て、飼っては捨てて、熱帯魚も捨てて、被害が出ても何もしないのであり。現在の日本は植木等も裸足で逃げ出す動物愛を自称する無責任男による、日本無責任時代なのである。

その他の環境保護について、身近な例として、珍しく絶滅に近い山野草が生えているのを発見したときに自分の保護下に置きたいと思うあまりに掘り取って自宅に持ち帰る人々が多いことも広く知られている。これもやはり無責任男の仕業である。

関連事項[編集]

外部リンク[編集]