用明天皇 (タリシヒコ)
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| 基本資料 | |
| 本名 | 橘豊日とか池辺とか大兄とか |
|---|---|
| 通り名 | タリシヒコ、女たらし彦、足臭彦 |
| 身体情報 | 臭い足 |
| 職業 | 天皇 |
| 好物 | 女性、仏教 |
| 嫌物 | 三輪逆 |
| 出身地 | 日本 |
| 出没場所 | 飛鳥 |
| 所属 | 朝廷 |
| 親戚等 | |
~ 用明天皇 について、織田信長
~ 用明天皇 について、聖徳太子
用明天皇(ようめいてんのう)は飛鳥時代の大王。史書には橘豊日尊と記されている。欽明天皇の皇子。異母兄弟に殺された崇峻天皇、妹に推古天皇、息子に聖徳太子がいる。
用明天皇の皇子時代の名前は、史書には"大兄皇子"とも表記されており、まあ、少なくとも欽明天皇が初めて為した息子のうち、初めて成人した息子だということは、ほぼ、間違いない。
没年は587年という西暦年数が史書から推測されるが、西暦600年までは存命しているという証拠が別の史書に現れているといい、これが日本書紀初稿にあった記述だったとしたら凄いことかもしれない。そうだとしたら、世の中、何が何だか理解できなくなる。
またの名をタリシヒコ。女たらしだったからタラシ彦と呼ばれたが、それが後々、音韻変化したと言われている。九州王朝信者により何らかの間違いで俀国の王様とされ信奉されているなんちゃって九州王国のタラシホコとは縁もゆかりもない。他人のそら似であろう。
目次 |
[編集] 誕生
父親の欽明天皇のように『真の皇子の中の皇子』的に大切に育てられたり、息子の聖徳太子のような出生伝説もあるわけではないが、欽明の長男として、早ければ継体天皇在位中、遅くても欽明天皇即位のある程度前には産まれたような気がする。そして、物心ついたときに欽明天皇の頑張る姿を見て、「大王は格好いいなあ」という感情を抱いたのであろう。実態は必ずしも格好良くないときもあったけれども。
[編集] 生母について
用明天皇の母は堅塩媛(きたしひめ)で、その堅塩媛の父は蘇我稲目だが、堅塩媛の母親は、実は箭羅奈胆加大王(宣化天皇)の名目上の妃である。彼女は、阿部高和皇子時代に妃となったが、阿部高和皇子は男と契りを為してばかりであった。なお、現存している史書で『宣化天皇』の后・妃となっている人物が、実は欽明天皇や蘇我稲目と交わって皇子・皇女をなしているということは箭羅奈胆加大王の項に詳しい。ケータイ天皇が「息子よ、まあ、まさかの時を考えて跡継ぎ早く作らなくっちゃ」と表明、そして堅塩媛の母親を阿部高和皇子であった箭羅奈胆加大王に妃として娶らせたが、結局、男にしか興味のない阿部高和皇子とは契りを交わせず、代わりに蘇我稲目が後々の堅塩媛の母親たる妃と契りを交わして産ませたのが堅塩媛である。
[編集] 青春時代、仏教と出会う
その父親・欽明天皇がはまりにはまったのが、538年に伝来してきたと言われる仏教だが、父親は部下に反対され、仏教の魅力を十分満喫できなかったものの、大兄皇子は若かった分、十二分に仏教の文物を自分の心の財産としうることができた。それが高じて、百済に特使として派遣されたとき、百済王に仏教アイテムをプレゼントしてもらい、仏像や仏具を作る人や教典の内容を伝えるガイドの僧侶を一緒に連れてきたのは後日の話となる。
[編集] 青春時代の忘れたい記憶
大兄皇子は、そこそこモテた。それを周囲に見とがめられ、『女たらし彦』と言うあだ名が付けられた。それが後に『女』と言う文字が取れて、普通に『タラシ彦』と呼ばれるようになったという。しかし大兄皇子はそう呼ばれるのが恥ずかしく、そのあだ名を嫌っていたという。一応は欽明天皇の一番"最初の"息子というプライドからであろう。
[編集] 相次ぐ不幸
しかし大兄皇子には、十分に青春を満喫し、そしてそこそこいい働き盛りを経て、素晴らしい家族に恵まれるような、他人から見ると幸せというふうに言われるような人生を送れなくなるような悲しい出来事が立て続けに起きた。まずは箭田珠勝大兄皇子の逝去である。箭田皇子が早くのうちに死亡という事実は、后から産まれた皇子が大王の候補になる、と言うことでは納得しがたい、運命に逆恨みすることも当然の慚愧に堪えない出来事であった。さらに多分にその次に産まれた皇子たる、後の敏達天皇が産まれているかいないかの時期であったため、代わりに大兄皇子が候補扱いされた時期もあった。そして、父・欽明天皇へと仏教を奨めた側の百済の王様が戦乱にて非業の死を遂げた。そして、妃の父親である蘇我稲目もこの世を去り、父・欽明天皇も突然のやっかいな病魔の発作に襲われ、長患いに苦しむことになる。
[編集] 政界デビュー
寝たきりになって職務が遂行できない欽明天皇に代わって、敏達天皇が即位するが若年のため、彼の補佐に当たる。ともに補佐に当たったのが恩人・蘇我稲目の忘れ形見である蘇我馬子で、すでに仏教については馬子に英才教育をしていたため、大兄皇子の手足となりパシリとなってくれるには相応しかった。初めの仕事は異国からの使者の訪問に関する接待の仕事で一応成功した(見事にカラスの羽に書かれている文字を読み取らせました)が、その功績を敏達天皇に譲って、彼をもり立てようとしたが、ところがぎっちょんちょん、あろう事か異国の使者同士トラブルが発生し、対処と後始末に追われる羽目になった。「ぶっちゃけ、『オレが大王だ』って、言っておきゃ良かったかな~」と言って、大兄皇子は大和朝廷を権威づけられなかったことを後悔したという。その事どもを病床の欽明天皇に伝えたら、ショックであっさり亡くなってしまった。長患いのわりにはあっさりした崩御である。
[編集] 非主流派になり、その後
大兄皇子は、他田に遷都したあとの敏達天皇に邪険に扱われることになり、さらに妹が皇后になって以後は三輪逆が敏達天皇がすべき政治を勝手に取っていってしまったため、蘇我馬子同様に閑職となった。そして後々、多分、久しぶりの大仕事として百済に特使として派遣された(大別王は多分後の人の写し間違えかも)と思われる。その時、百済の王様から、仏教アイテムをプレゼントしてもらい、そして仏像や仏具を作る人や教典の内容を伝えるガイドの僧侶を一緒に連れてきて、難波方面の別荘地に寺の建造をしたと言うことが伝わっている。
寺については詳細は伝わっていない。しかし、これらがあり得たことが推測される。
- とにかく、建物だけは寺の形
- ご本尊の仏像も作られたらしい
- 呪禁師の使用目的はそれでも不明
- ツッコミ如来は絶対にあり得ないし考えられない
[編集] 息子・誕生
敏達天皇の世話が終わった頃前後、長男らの手がかからなくなったので、后と仲むつまじく暮らしていた。そして、ある日、某厩(うまや)で后が産気づき、そして息子が産まれた。厩戸皇子、それが後の聖徳太子と呼ばれる人である。厩戸皇子は天才だったのでいろいろと早熟な才能を発揮した。大兄皇子は蘇我馬子に命じて英才教育をさせた。それが後に世の中を変えるという計算尽くでやったとは思えないが、世の中を変えてしまったのである。
しかしこれには副作用があった。
- 息子(厩戸皇子)がなぜかヤオイキャラ化した。
- さらにキャラ立ちの強い人が増えて、キャラの薄い敏達天皇に白眼視された。
- 息子が10人の人の言葉を一度に聞き分けたため、大兄皇子にも「10人以上の人の言葉を聞き分けろ」と無理難題が降りかかった。
- 産まれたばかりなのにちゃんと言葉を話す息子の寝言にしょっちゅう悩まされ、夜も眠れない日々が続いた。
- 息子に「父ちゃん、足くさ~い」と会うたび言われた。
- 息子が親父の寿命を縮めるぞ発言をした。
[編集] 大王即位
敏達天皇が存在感が全く感じられなくなったまま亡くなった(蘇我馬子と物部守屋が葬儀の時に冷やかしあっていた事もそれを証明する)が、そのあと、仏教に関するいざこざ(まだ続けていたのかよ!)や、后の弟がマジギレして三輪逆を誅しようとしたり、その逆が自分の宮殿に逃げ込んだりとドタバタする中、帯状疱疹に悩まされながら大王に即位。開き直ったのか、仏教に関するいざこざが悪化しても構わないと思ったのか、仏教を公認。帯状疱疹に加えてノイローゼや鬱になりながら、それでも部下に寺や仏像を作るよう命じた。そのあと、日本書紀決定版は亡くなった、と記しているが、多分、そのあとのいざこざを背にリハビリのために転居してしまい、その後、息子が活躍するなどの戦の存在を知らずに病を治したという。
[編集] 亡くなった、とされる時期について
どうも用明天皇は敏達天皇の仕事の補佐による過労と、バカ息子となってしまった皇子達の世話によるストレスでできた帯状疱疹を、あろう事か天然痘と勘違いされ、その天然痘によって587年に亡くなったとされるが、西暦600年頃には隋に使節を派遣しており、その成果が惨憺たる物だったので封印したため、生存の事実が同時に封印された物と思われる。で、602年、任那復興に兵を出そうとして息子を大将に指名したものの、息子が亡くなりショックで大病になって、その翌年(603年)に崩御した、と推測できる。まあ、史実と違うではないか、と言うことだが、西暦600年頃に隋に使いを出したタラシホコはタリシヒコとも言われ、それが用明天皇だっつーことで、ここでは話を進めさせていただきたい、と。多分、ここで、もう一度部下に寺や仏像を作るよう命じた、と思われる。また、朝廷の制度を整えよ、と言う遺言も残したかもしれない。だって、そのあと、すぐに冠位十二階制や十七条憲法ができているんだから…
[編集] 没後にイメージキャラクター?
どうも、一説には用明天皇は、商品のセールスマンとして(商品のご用命を)、酒のネーミングとして(養命酒)、浄瑠璃の主人公として、没後しばらく、というか、没後相当経ってから色々とイメージキャラクターとして取り上げられているらしい。それは、息子の聖徳太子が凄かったことを差し引いても用明天皇の波乱の一生が投影されていることが容易に理解できるであろう。