闘莉王

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闘莉王(とうれいおう、生没年不明)は三国時代の人物。字は馬庫斯(まこし)。南中(現中国雲南省からミャンマー北部)の一角を収めていた諸王の一人であり、諸葛亮の南征における最重要人物の一人であるが、孟獲と同じく蜀書等の正史類には立項されていない。そのため彼の経歴はほとんどが野史による。

人物[編集]

シャム族であるといわれるが一説には東方の民族と西方の民族の混血であるともいい、身長6尺1寸の大男であったと記録されている。闘莉王は当時漢民族の風習がほとんどいきわたっていなかった南中において、後漢の風俗に通じている人物であったとされる。彼は南中で話されている言語以外に漢語を話すことができ、また漢文を読むことができた。そのため正史や論語をたしなみ、また当時南中で一般的であった短髪ではなく、漢民族風の長髪をしていたとされる。彼がそれだけの教養を身につけたのは、長安を訪れそこで学んでいたからである。しかし食事については南中との違いに苦しみ、はじめは炒飯程度しか口にできなかったという。

長安で学び終えた闘莉王は南中に帰国し、直後に死去した祖父の跡をついで領主となった。長安で学んだ政治、治水などを生かし領地を治めていった。彼は当時宮中でたしなまれていた蹴鞠を好み、南中において家臣や領民たちにそのルールや作法を教えていった。しかし、当時漢文化に興味の薄かった家臣や領民たちは、本来の遊び方である屋根の高さよりも高く蹴り上げほかの人に渡すという蹴鞠のルールを守らず、横に低い弾道で渡すことを好んだ。さらにそれが発展し、鞠を場の両端に設置した籠の中に蹴りいれるという遊びに変えていったという。これは後にミャンマーまで広がり、マリンロードを通じて西洋にもたらされたとする説がある。

孟獲の副将として[編集]

225年に諸葛亮が南中に攻め寄せると、闘莉王は孟獲の呼びかけに応じこれをともに迎え撃つこととなり、闘莉王は後詰を担当した。本来本陣を守ることが最優先であるこの場所において攻撃的な攻めで本陣を防御するという南中の諸将が思いもよらなかった戦法で活躍した。また彼は劣勢に立たされた際も、力任せに押し切ろうとする南中の諸将と異なり、長安仕込の陣立と冷静ですばやい判断で良く守った。しかしながら別翼を守っていた将が敗北して本陣を落とされてしまう。

その後も孟獲軍は孟獲が捕まっては開放されるということを繰り返したが、これに南中の民の不満は募っていった。そのとき闘莉王は涙を流して結束を促し、領民と話し合いを持つことで再度団結を図っていった。しかし、最終的に孟獲は蜀に降伏する(七縦七禽)。この際の領地や将、領民との処遇に関する取り決めでは闘莉王が使者を務めている。その後闘莉王は以前長安で学んでいた恩義から蜀に帰属、以後は蜀の将として活躍した。

諸葛亮が魏の領域に攻め寄せた時もやはり後詰を守っていたが、混戦の中で誤って本陣を攻撃、敗走させてしまう。これに対し闘莉王は「戦わずに失するより戦って失するが良。」と家臣に言っていたという。後に闘莉王は南中に戻り、そこで蜀から持ち帰った馬の飼育を試みたという。彼がいつ死んだのかはわかっていない。 しかし、その存在感の強さからかえってチームを不幸に陥れていたとも言われている。

評価[編集]

闘莉王は先述したように正史類には立項されていないが、その南中人らしからぬ経歴から、多くの研究がなされている。

  • カール・マルクス - 「闘莉王は原始共産制からアジア的生産様式への変化を表すという意味で重要である。(資本制生産に先行する諸形態)」
  • 田中一隆 - 「闘莉王は古代中国における中華思想が範囲外の世界に対しどのように伝播していったかをあらわす重要なケースである。(古代における中華思想の伝播)」


関連項目[編集]

Wikipedia
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