矢野貴章

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「矢野貴章はチキショーと思っているでしょうね」
矢野貴章 について、早野宏史

矢野 貴章(やの きしょう。1984年4月5日 - )は、浜松県浜松市出身のサッカー選手である。柏レイソルアルビレックス新潟名古屋グランパスに所属。フォワードであるらしい。「たかあき」と呼ばれることもあるが、実際の名前読みは「きしょう」である。

概要[編集]

浜松県浜松市に生まれた矢野選手は、幼い頃からサッカーにいそしみ、中学時代にはディフェンダーとして活躍。その後、高校時代にガタイの良さからフォワードにコンバートされると、メキメキと上達。2001年にはU-17日本代表に選ばれるまでになる。高校卒業後は、柏レイソルに所属していたが、初年度は18試合に出場するものの、徐々にフォワードとしての弱点が目立つことになり、その後出場機会が激減。

最終的に、2006年の柏のJ2降格時にアルビレックス新潟サルベージされ、2010年8月までアルビレックスでフォワードらしき何かをしている。けっして、フォワードではない。その後、ドイツ一部ブンデスリーガに所属するサッカーチーム「SCフライブルグ」に移籍。あの新潟ですら海外に選手を移籍させることができると、多くの人間を驚かした。しかし、残念ながら新潟でもドイツでもフォワードとしての弱点は克服されることはなく、2012年2月に新潟に復帰、チームの防御力不足に悩んでいたアルビレックスファンが歓喜の涙を流すことになる。

その後、新潟がどうなったかは知らない。後、2013年1月に名古屋グランパスへ移籍した際の新潟ファンの微妙な心持たるやもう、なんなんだろう、この使い勝手の良さと悪さは。そして、その言葉にできない感情は2013年シーズンを通して名古屋ファンに刻み込まれる。

なお、2014年現在の背番号は19。

国際大会への出場[編集]

若手時代より、日本人離れしたガタイの良さで知られていた矢野選手は、早くから日本代表に召集されている。柏レイソル時代にU-21の代表に召集された後、新潟でその類稀なる(笑)才能を開花させ、その活躍ぶりからなんと2010年サッカーWC南アフリカ大会のメンバーに偶然選ばれる。なお、全国のサッカーファンどころか新潟市民ですら驚くレベルのサプライズであったことは確かである。その結果、新潟の貴章(笑)から一気に日本の貴章(爆笑)にステップアップしたことで、2ヵ月後、ドイツのチームが彼をフォワードだと勘違いすることになる。

そして見事に日本対カメルーン戦に出場!勝利に貢献!

・・・完璧な守備固めとしてその名を世界に知らしめた。 ...そうか、中学時代もディフェンダーだったかぁ...

もう一度言う、フォワードではない。フォワードらしき何か、である。

応援スタイル[編集]

アルビレックス新潟時代、矢野選手には「キショ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!! 」ではなく「キショ━━━━(゚∀゚)━━━━ 11」と某掲示板で喜ばしいことが起きた時随所に見られるアスキーアートのような応援幕が見られた。また、チャントと呼ばれる応援ソングも存在し、オメキメレキショーという実に新潟弁となじむその名前は、名古屋移籍後でも多くのファンの耳になじんでいる。

アルビレックス時代のプレースタイル[編集]

持ち味は高身長と、フィールドを縦横無尽に駆け回る豊富な運動量である。それしかないなんて言うな[1][2]特に185cmの身長は日本人としては脅威であり、ときメッセNEXT21とともに新潟市内の高いものの一つとして数えられたほど。また相手ゴール前では身長を警戒したDFのマークをひきつけるという重要な役割を果たしている。そういう役割であるため、彼がゴールを奪えなくてもあまり気にしてはいけない。

また、友軍ゴール前では獅子奮迅の大活躍を見せることでも知られ、前線でボールを奪われた後、中盤でボールを追い掛け回し、味方ゴール前で敵のクロスをヘディングでクリアするような一連の流れも大変よくあるパターンである。そのため、矢野はピッチに3人いるという話がまことしやかにささやかれたりもするけれど、正確に言うと、1試合を通じて矢野はピッチ上に6人存在しており、そのうち4人が味方ゴール前に張り付いていたというのが正しい。

あわせて、自分自身の決定機でゴールマウスを外すようにシュートを蹴る、もしくはキーパーめがけてシュートを放ち、相手キーパーにヘディングでナイスパスをするのも彼の特性の1つである。ドリブルでの強行突破の失敗とともにすでにアルビレックスの名物、新潟の観光名所として知られた光景である。もっとも、彼がミスしても「またか」「いいぞ矢野」「テラワロスwww」とサポーターたちはスルーしてくれるのが、新潟県人のおおらかさであり、彼がいつまでもフォワードのポジションにフォワードらしき何かとしていることのできた要因である。もっとも、その分、味方のゴールを守ってくれていることもサポーターはちゃんと理解していたが、こんなフォワードらしき矢野貴章が、他チームだったらどのような扱いをされたかについては、とても口に出してはいえない

新潟市民のおおらかさ万歳

まぁ、応援歌にあるように「オメキメレキショー」(新潟弁でおまえ決めろ貴章の意味)と歌うサポーターたちは、それなりにゴールに期待していた時期もあった。それなりに。そに。その後、とりあえず、歌詞は歌詞、現実は現実というものを理解するのに時間はかからなかった。

ただし、そんな矢野選手にも数年に一度、確率変動する時と場所が存在し、ゴールに向かってほとんど角度のない矢野ゾーンと呼ばれる場所では、別人のようにゴールを決めていたことがあった。原因は不明だが、磁場の関係ではないかと思われる。ただし、普通であるならば確実に決められるはずのキーパーとの1対1の状況では、その分外す。この一連の流れはすでに1つの日本の伝統芸、後世に伝えるべき新潟県の独自技術として新潟サポーターの精神に刷り込まれている。

そして彼のもう1つの特徴として、非常に演技派のプレーヤーであることが挙げられる。その突進力とフィールド上を駆け回る運動量が組み合わさることで、相手から押し倒される回数の多さにかけてはJリーグの中でも群を抜く多さであった。そのため、ファールを大量にもらう=相手チーム選手のカードを累積させることにつながり、中でも2008年4月19日京都サンガF.C.戦では増嶋竜也アタリバシジクレイの三人をレッドカードイエローカードの累積により退場させるという離れ業を見せ、さらには監督である加藤久までも次節出場停止にするおまけつき。その前年の2007年には普通退場させることは不可能であるはずのゴールキーパー曽ケ端準を退場させるなど、その突進力と転倒力において日本で右に出る者はいない。最も、2009年以降は突進させてもさほど怖くない、ゴールに結びつかないことがばれてしまっていたが、それでも前線での豊富な運動量については他チームの脅威ではあった。このプレイスタイルには実は先駆者が存在し、点を決めない&演技派という点で、2002年ワールドカップで活躍した鈴木師匠と彼をなぞらえる人も多い。実際に共通する点も多く、奥義を伝授されたのではないかと噂されるが、そんなことはない。一度たりとも代表やチームで一緒になったことはなく、矢野のプレイスタイルは本人が独自で築き上げたものである。これはある意味、賞賛に値する。

ゴールを決めてなくても

このように、多くの場合、試合での彼の役割、見せ場は前線からの徹底的なプレスであり、相手チームに危険と思わせる突進であり、いつまでもどこまでも相手ボールを追いかけることである。決して、ゴールネットを揺らすことではない。もう期待することに疲れました。何よりも、彼の本当のポジションは味方のゴール前にフォワードらしきなにかとして存在することである。これは新潟サポーターであれば誰でも知っている常識である。

あわせて、名古屋時代については下記に記すとおりである。

日本代表時のエピソード[編集]

そんなフォワードらしき彼であったが、実はアルビレックス新潟から初めて選ばれたA代表の選手でもある。こんな特異な選手がなぜ一番目かというと、実は以前から新潟には代表候補として噂される鈴木慎吾という選手が所属しており、代表招集はまだかまだかと持ち詫びていた。けれど、運が悪いことに当時の日本代表監督イビチャ・オシムは、大変に個性的な選手を招集することで知られ、結局、新潟の試合で目につけたのが中盤の要であった鈴木ではなく、前線から味方ゴール前まで幅広く駆け巡る矢野の豊富な運動量だった。その結果、矢野が晴れてアルビ初の念願の日本代表メンバーとなり、一人あぶれた鈴木慎吾はその後、大分トリニータへと去っていくことになる。

この突然の代表招集に多くの新潟市民はコシヒカリを噴き出したが、幸い、代表戦でも矢野は矢野らしさを存分に発揮し、ペルー戦では他の選手が長袖ユニフォームを着る中一人半袖で初出場。さらにスイス戦やスイス戦、スイス戦で1得点を挙げるなど、新潟市民的には大活躍。しかしオシムが急病で監督を交代すると、絶対に矢野の良さが分からない岡田監督が日本代表監督に就任する。その結果、フォワードらしきなにかとして活躍していた矢野ではなく、普通にゴールを決めることができるフォワード、玉田圭司を代表入りすることになり、矢野は日本代表からあぶれてしまう。

しかし、当たり前というか当然というか、オシム監督から岡田監督に代わってからずっと、日本代表の守備が崩壊しまくることになり、最終的に2010年5月、岡田監督も崩壊した守備を立て直すため、矢野の豊富な運動量に目を向けざるを得なくなる。矢野にとっては幸運な話であったけれど、いかんせん、日本代表にとっては悪夢でしかなかった。

その結果、2010年5月10日に発表されたWC代表選手になんとフォワードとして登録。フォワードとして。

フォワードとして

矢野不敗神話[編集]

そんなフォワードらしき何かとして活躍を続ける彼にも、実は1つの勲章がある。

2010年7月27日に行われたアルビレックス対鹿島アントラーズ戦において、ついに、ようやく、やっとのことで、2000分を越えるノーゴール時間を乗り越えてゴールをゲット。なお、ボールを蹴ったら相手ディフェンダーに当たって思いっきり弾道が変わった点については、気にしないこととする。続いて、31日に行われたFC東京戦でもまるで憑き物が落ちたかのごとくにゴールを獲得。なお、相手ディフェンダーとの競り合いの中でのシュートが思いっきりダフり、キーパーを飛び越えてゴールに入っちゃった点についても気にしないこととする。その結果、いつの間にか矢野がゴールを決めた試合でアルビレックスが10試合負けなしという、矢野不敗神話が誕生する。

なお、多くの新潟市民が「それ以前に矢野がゴールを決めないから勝てないんじゃないか」とツッコミを入れた点については気にしないことにする。1年近くゴールを決めない段階で矢野腐敗神話じゃないか、と思った点についても同様である。

最終的に、2010年に打ち立てられたこの神話は、矢野選手の移籍により11試合で打ち止めになるものの、2012年に再度新潟の地にて再開することになる。もっとも、その敗北を消し去るゴールまでどれぐらい間があるかについては、とりあえず、考えてはいけない。

ヨーロッパ移籍の顛末[編集]

実は2009年の段階で、ワールドカップ出場なんて話が全く出てこない夢物語と考えられていた頃、新潟の顔(笑)として知られるようになった矢野選手の契約が終了することにあわせて、いくつかのヨーロッパクラブが彼の獲得を検討しているというわさが流れる。果たして日本の誇るスーパーディフェンダー巻誠一郎に負けず劣らず優秀な「前線に配置するディフェンダー」に、いったいどこの海外クラブが興味を示すかを、多くの新潟サポーターが固唾を呑んで見守っていたが、幸いにも、2010年W杯南アフリカ大会を控えた時期に環境を変えることは控えたいとの意向で新潟に残留することが決定。多くの県民が安堵すると同時に、出場できるわけない、何言ってんだ、言うだけならタダと陰で色々といわれまくられるのは、ほぼお約束。もっとも、なぜか登録

そして、なぜか出場

そして、なぜか彼に目を留める海外チーム続出。

なぜだ

なお、W杯終了後、守備固めとして1試合にしか出場しなかった彼に接触してきた奇特なヨーロッパクラブが複数現れ始めたことに、新潟ファンが大きな衝撃を受けることになる。なんせ、ワールドカップでの活躍如何によっては、海外有名クラブから引き抜かれるのではないかと戦々恐々している・・・ように見せかけて、内心、んなことあるわけねえやと思っていた新潟県人がほとんどだったわけだから。実際、一応、出場はしたけれども、うん、まぁ、仕方ないか。というプレイしか見せられなかった彼に、一体どこの海外のチームが何を考えて接触したのかさっぱりワケが分からないというのが多くの新潟県人の本音であった。

その奇特なチームの第1号が、ロシア一部リーグのパルタク・ナルチク。W杯終了後、一番最初に彼の獲得に興味を示したと報道が為されるが、その後、無反応。そして、第2号が同じくロシアリーグのサトゥルン・ラメンスコーエ。今度は矢野自身がロシアへの移籍を拒否。この段階で、多くの新潟市民は、「そらそうだ。何が悲しくて新潟より冬が厳しいロシアに行く必要があるんだ」と内心あせりつつもほっとしていた。まぁ、ロシアはない。あわせて、伊達に公式戦ノーゴール記録を2000分の大台に乗せちゃいないという点についても恐ろしく重要である。

というわけで海外チームのスカウトの皆さん。彼を獲得する際は、事前に退魔師、もしくは除霊師を用意すると同時に、新潟よりもましな気候をご用意ください。

なんて文章を書いた1週間後。

・・・本当に移籍してどうする[編集]

運命の2010年8月25日。確実に新潟よりも住みやすい、南ドイツのフライブルグ市のサッカークラブSCフライブルグが彼の獲得を表明。翌26日に即座に渡欧。27日に移籍を発表。しかも、移籍金なし。別に、新潟市民は彼に恨まれるようなことはしていない。

・・・していないつもりなのだが?

ちなみに、この期に及んでも「どうして矢野なんだ?」と不思議に思うのが新潟市民の特徴である。フライブルグ市はドイツの有名なシュヴァルツヴァルト(黒い森)の南に位置する古都として有名で、およそ千年にのぼる歴史を有数している。中でも、800年の歴史をもつフライブルグ大聖堂や、ドイツで3番目に古いフライブルグ大学などがあり、大変に文化レベルが高く、ヨーロッパ屈指の環境に配慮した都市としても有名である。

このように、どう考えても新潟が勝てる要素があまりない中で、唯一、のアドバンテージについては一歩リードしていると思われる。特にコシヒカリ。そのため、彼がフライブルグに移籍し、チームに帯同し始める2010年9月以降、わざわざ日本語版アンサイクロペディアで情報を収集しようとする奇特なドイツ人に一言いっておかなければならないことがある。

もっと活躍させたかったら魚沼コシヒカリを食わせろ。(Dienen Sie "Uonuma koshihikari", wenn ich Sie mehr einen aktiven Teil spielen lassen will.・・・エキサイト翻訳より)

もちろん、優秀なエクソシスト(除霊師)を用意しておけ。・・・それでも、彼の呪いが解ける気がしないけれど。(Ich setzte es zusammen und bereite bitte einen ausgezeichneten Exorzisten vor.Ich glaube immer noch nicht, daß sein Zauberspruch entfernt wird.・・・エキサイト翻訳より)

あわせて、彼がいなくなった後の新潟で何が起こったか。何が起こり続けたかについては、涙なくしては語れない

ドイツ[編集]

そしてドイツ。あぁドイツ。やっぱりというかなんというか、移籍から4ヶ月たった2010年11月現在、点は取っていない。矢野だから。うん、矢野だから。ただし、試合には一応出ている。さすがW杯メンバーである。交代要員だったとしてもすごい話だ。しかし、試合中に金玉踏まれて怪我をするわ、怪我で試合が出れない中、サポーターとの交流のため、ワイン造りのためのぶどう積みに借り出されるは、違った意味での存在感に満ち溢れているのが、実に矢野らしい。しかも、11月17日にはフライブルグから400km離れたデュッセルドルフまでわざわざ日本人選手の長谷川さん(本人談)に誘われて日本人会に出かける優しい貴章さん。

とりあえず、車で往復8時間というのは本人の気のよさを表す話である。良すぎじゃないか、とは、遠く離れた新潟から聞こえてくる木霊である。

こんな状況にもかかわらず、2011年のアジアカップの予備登録メンバーに選ばれている。

ミッドフィルダーとして

ザッケローニ監督は彼の本質をわかっているようだ。

……と思ったら、W杯3次予選の予備登録にも漏れていた。海外組なのに

ドイツで1年を戦って[編集]

その後、ドイツで順調に控えとしてチームの層の厚みを増し続けた矢野であった。最終的に初年度は望外の15試合343分出場1アシストという、出られれば御の字、1年もたない可能性もあると考えていた多くの新潟県民の予想の上を行く活躍だった。

・・・そしてなおかつ、来年はもうちょっとなんとかしてくれとぼやくのもまた、新潟県人のいいところである。

ちなみに、フライブルグで同僚だったセネガル人フォワードのパピス・シセ選手は、なんとブンデスリーガで2位となるシーズン22ゴールを上げており、今年度のフライブルグの躍進(ブンデスリーガで9位)の原動力となっている。これは、あえて一歩身を引く日本人のつつましさの表れであり、チーム成績のことも考えれば、素晴らしい結果であったとも言える。

まぁ、そんなもんだ。

ついでに言えば、ファンから選手へのプレッシャーをこれぐらいにとどめておくのが、若手選手をのびのびと育てまくっているアルビレックスの育成の肝でもあるわけで。

あわせて、この成績に対し、多くのアルビレックスファンが予想の範囲内、悪くもなく、かといって良くもなくと思っており、とりあえずは本人は別として、以前の中心選手が移籍したチームがそれなりに好成績を上げたことを素直に喜ぶのが、アルビレックスファンのいいところ、かもしれない。もちろん、チームの財政事情を鑑みて、戻って来いという言葉をぐっとかみ締めての喜びである。

新潟市民は、たとえ中心選手が浦和レッズに移籍したとしても、その選手から受けた恩を忘れない。

ドイツの現実[編集]

しかし、そんな矢野に冷たい現実が突きつけられる。2年目のシーズンに入り、監督が交代した直後、彼のフライブルグでの出場機会はピタリと止まり、徐々にチームとして構想外の選手として扱われるようになる。

無理もない

とりあえず、こんなに使いづらい選手は、よっぽど変な戦術を使うチームか、もしくはアルビレックスのようにとてつもなくクセのある選手を使いたがるチーム以外にはフィットするはずがないわけで。常識的な視点から見れば、守備力が桁違いのフォワードという要素が好まれるなんて話は少ない。結局、矢野選手の出場機会減とともにフライブルグは低迷。低迷しても使われないという悪循環。

まぁ、無理もない。

最終的に、2011年12月20日に矢野選手には戦力外通告がなされ、ドイツブンデスリーガの中断期間中に、新たなチームからのオファーを探ることになる。

・・・ちょうどその頃、日本の某チームの某監督が有望な日本人フォワード選手の獲得を目指すという主旨の発言をしており、まさに渡りに船といった状況であるわけだけれど、残念ながら、ドイツ一流の給料から某新潟のチームへの薄給へと変わる事態に、果たして矢野選手は耐えられるかという心配をすでにファンが抱いているとおり、この移籍はそう簡単なものではない。そもそも、日本のJリーグの不景気がいかに深刻であるかは、矢野選手自身、一昨年の段階で身にしみているわけで。

ドイツでの悪戦苦闘[編集]

そしてドイツで再びチャンスを手にする矢野選手。それを知って素直に喜ぶ新潟市民。叶うことが希な(まれな)望み(のぞみ)と書いて希望と読むんだ。というわけで、2012年1月にドイツ2部に所属するFSVフランクフルトが矢野選手の獲得に名乗りを上げる。お願いだから、今度こそ活躍してほしいと思う反面、お願いだから新潟に帰ってきてくれと思いたくなるのが、いつものアルビレックスファンの光景であり、ほとんど誰も帰ってきたことがないからこそ出てくる愚痴でもある。

まぁ、なんにせよ、本人の意思である。いつもどおり、ゴール決めなくていいから活躍してもらいたいと願うアルビレックス新潟ファンのちょっとした余裕には、実は理由がある。なんと、矢野選手がチーム移籍に悪戦苦闘する間、アルビレックスにはガンバ大阪から2010年に日本人としては望外の14点ものゴール荒稼ぎをした平井将生選手がレンタルで移籍するという、それまでのアルビにはなかった破格の契約が成立していた。

していなかったら、どんな声が新潟に響き渡っていたかは、知らないし想像もしたくない

しかし、最終的にFSVにお断りされるのが実になんというか・・・。まったくもって、矢野選手は新潟市民に愛される要素にあふれているのが実に悲しい。

そして、2月4日、今度はドイツの隣にあるスイスの2部チームFCアーラウへの入団テストを受ける矢野選手がそこにいた。矢野選手は、前線からの積極果敢なプレスや、駆け上がったサイドバックの穴を埋める動き、さらには果敢なドリブルに定評があります。どうかどうか雇ってくださるよう心よりお願いします。決定力については、その、聞かないで。

おかえり[編集]

というわけで、2012年2月8日12時ジャスト、1年半のヨーロッパ生活を終えてアルビレックス新潟へ復帰することが決まる。

おかえり

もうちょっと、頑張ろうなと思ったシーズンでした[編集]

2012年、アルビレックス新潟に復帰した矢野選手は、その持ち味である体格差を活かした突破や空中戦での競り合いなどが、ことごとく、こーとーごーとーく、鳴りを潜めてしまい、開幕当初から大ブレーキ。シーズン中盤からはサブメンバーに固定されてしまう。しかし、さすがは新潟ファンである。そんな矢野選手が試合に出るたびに歓声で出迎え、シーズンのほとんどを降格圏内ですごしてもすごしてもすごしても尚、彼への非難を示さなかった。

まぁ、サブメンバーだったわけだから。後、新潟市民って、こういう苦境に異常な耐性を示す民族だから。

結局、矢野選手はシーズン最終戦までほとんどの試合をベンチメンバーとしてすごすことになり、彼の本当の活躍は来期にまで持ち越すことになる。きっと、2013年シーズンの彼は振りの小さなシュートや1対1で対峙した際の30cm以内の効果的な体の動かし方、入れ方、手の使い方、さらには空中戦前のポジショニングなどのドイツ仕込のテクニックを思い出して、活躍、して、くれたら、いいなあと思わざるをえないのが多くのアルビファンの想いであったりする。

残留したからいいけれどもさ。

さらば新潟[編集]

2013年1月7日、矢野選手の名古屋グランパスへの移籍が発表される。この悲劇に際し、心からほっとした新潟市民がいることは確かである。そして、心から惜しいと思うアルビファンも多い。けれども、まぁ、潮時というものが世の中にある以上、アルビと矢野選手の蜜月は、この日をもって結末を迎えたとしても致し方ない。

幸い、名古屋には強烈な個性を持った選手が多く、監督であるドラガン・ストイコビッチ監督も、選手起用法がぶっ飛んでいることで知られている。そのため、多くのチームが挑戦し諦めた矢野選手のディフェンダー起用に挑戦する可能性もなくはない。そもそも、名古屋にはディフェンダーなのにフォワードとして活躍する田中マルクス闘莉王選手と言う、矢野選手とは正反対の属性を持った名物選手がいるため、両者が共存したらどうなるか、というのは、移籍直後の段階ですでに新潟ファンの間でも名古屋ファンの間でも注目の話題となっている。

また、2012年の名古屋グランパスは2011年のアルビレックス新潟に負けず劣らず試合終了間際の失点で苦しんでおり、それさえなかったら優勝していたと考えるファンも多い。そのため、確実に矢野選手は活躍できる素地が存在している。ただし、レギュラーかどうかについては、今後の矢野選手次第である。なんせ、ストイコビッチ、通称ピクシーの采配は実にクセが強いことで知られていて、そこにさらに選手としてクセが強い矢野選手が飛び込んでいくわけであるから、大変、はまったらすごいことになり、外れたら、矢野選手がヤバイ。

こればかりは、なるようにしかならない。

こんにちは名古屋[編集]

2013年の名古屋グランパスは、アルビレックスファンが絶対にサイドで起用するべきだと忠告したにも関わらず、矢野選手をトップで起用。その結果、2012年に新潟で猛威を振るった強烈すぎる得点力が見事に名古屋でも発揮され、新潟ファンのため息と名古屋ファンの絶叫の中、強豪グランパスは中位王の座へと帰還することになる。

だからあ、トラップの下手な選手を前線に張り付かせてどうするんですかいな。

無論、矢野選手の持ち味である前線からのチェイスやセットプレイにおけるデコイ役や跳ね返し役、さらにはリードしている展開における〆の役割など、大変に使える能力を保持していることは確かであるのだけれども、よくよく考えてみると、そういったチームプレイの際に役立つ能力とは逆に、名古屋グランパス自体が、強烈な個人能力に頼ったチームプレイをしまくっているという話も存在。

けれど、そんな名古屋も2014年になってチーム運営が厳しくなり、高額な年俸の選手を続々と放出せざるをえない状況に追い込まれる。と、なぜだか、そこにとどまる矢野選手。まぁ、守備力を重視しないチームは降格の危機にさらされることが多いため、妥当な判断である。今後、長期間にわたってチームの底上げすることに定評がある西野朗監督の下、30歳を迎える矢野選手がどのような起用をされるかが注目される。

DFWからDFへのコンバート[編集]

2014年4月、矢野選手のそれまでの常識を覆す大事件が勃発。なんと、名古屋グランパスのディフェンスもオフェンスも総じて怪我怪我怪我のさらにまた怪我人が続出。なんと、まともにDFラインをそろえることすら難しいという、強烈な野戦病院状態に陥り、そして、ついに、あの男に白羽の矢が立つことになる。

アルビレックス時代からDFへのコンバートを断り続けてきた矢野選手、出場機会及びチームの窮状を何とかするため、ついに右SBへのコンバートを了承。4月19日のヴァンフォーレ甲府戦から、中学時代以来となるサイドバックで試合に出場する。結果、連敗。あったりまえだけれど、ただでさえレギュラー陣がボロボロの上、急造のDFラインでそう簡単に勝てるほどJ1は甘くない。けど、4月29日のFC東京戦で、コーナーキックから矢野選手のヘディングがきまり、5連敗を止める貴重な勝利をもぎ取る。

そして5月17日に行われた古巣アルビレックス新潟戦で、右サイドバックとして獅子奮迅の活躍。押しに押し捲っていた新潟に対してアウェイでの1-1のドローという最低限の仕事を果たすと同時に、ようやく、彼の正しい起用方法が明らかになる。

この試合、接触プレイで珍しく怒った矢野選手は、直後から異常なレベルで積極的に試合に顔を出すようになり、彼をよーーく知っている新潟ファンが軽く叫べるレベルで無双。あのレオ・シルバ選手並みの運動量で新潟の左サイドを制圧。なしてこの動きを新潟時代、コンスタントにやらなかったんだと多くのファンを嘆かせるほど活躍。感情を出さずに優しげにえぐいプレイを見せていた時代と違い、積極的に手を使い感情を表に出しながら相手の嫌がるプレーを連発。特に、試合終了間際、DFのラインが整っていない状況で時間稼ぎのファールを連発するその様子は、到底W杯出場経験のあるFWとは思えない狡猾な動きで、結局、新潟は名古屋の右サイドを一度たりとも崩せなかった。

改めて言わなければいけない。矢野選手というのはなんて使いづらく、そして使いやすい選手なのかと。

さようなら、名古屋[編集]

2016年。この年は矢野選手にとって特別な年となる。というのも、この記事で書かれたとおり、名古屋グランパスが突如として発狂。まるで、トヨタ自動車の中の使えない人材を集中させて爆発させたかのごとく、迷走に次ぐ迷走を繰り返し、夏場を前にチームがばらっばら。J2に降格させてくださいお願いしますとしか思えない連敗地獄に陥ることになる。そんなチーム崩壊の主たる原因がディフェンス組織の連携不足。この選手が寄せてこの選手がパスコースを切って、この選手がこぼれたボールを拾うといった、チーム戦術としての守備が、まったく存在しなかった。

ちなみに、そんなチームにすら勝てなかったチームが北陸地方にある。本当にある

最終的に、J1最終節で湘南ベルマーレにホームで1-3で敗北してJ2降格。チームもきれいに空中分解。矢野選手はグランパスと契約を残していた上、とにっかくボロボロだった2016年のグランパス守備陣の中で孤軍奮闘の活躍をしていたことから、名古屋ファンの多くが残留を望んでいたものの、世の中にはなぜだか右サイドバックに大穴が開いているチームが存在しており、しかも大変に矢野選手との関係が深かった。

その結果、2016年12月30日に矢野選手はアルビレックス新潟へ復帰することになる。なお、名古屋との契約が残っていた矢野選手だったわけだけれども、2017年はパスサッカーを目指す名古屋に新潟からトレード要員としてキャプテンでありパスセンスを持つスタミナお化け小林悠紀選手がまさにグランパスのメガネにかなう絶好の人材だったことから、Jリーグでは珍しくほぼ同価値の選手のトレードのような移籍が成立することとなる。なお、名古屋の一番の問題はディフェンス組織ぢゃなかろうかと思うのだけれども、そこはそれ。一度チームを壊そうと判断したらば、どんな功労者であっても手放すことを部外者は推しとどめることは不可能である。ということにしないと、矢野選手が新潟に復帰しない以上、致し方ない。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「矢野貴章」の項目を執筆しています。

脚注[編集]

  1. ^ なぜか倒狂放送からはプレースタイルに反し「ヘディングマシーン」という罰ゲームのようなキャッチフレーズを付けられた。
  2. ^ しかし周りも「美白のロベカル」を筆頭に酷いキャッチフレーズだらけだった為に幸か不幸か大して目立たなかった。


ラモスタブ 冗談じゃないヨ!こんな記事じゃ検閲により削除してるのと同じだヨ!この矢野貴章カヒツシュッセしてくれる協力者求めてるヨ!でも、ガム噛みながらやっちゃダメだヨ! (Portal:スタブ)