私は下位になりたい
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
『私は下位になりたい』(わたしはかいになりたい)は、1970年代の日本を舞台にした、脆弱な財政基盤しか持たない野球スポーツチームの悲哀を描いた問題作である。目次 |
[編集] あらすじ
1960年代から70年代にかけてV9という偉大な記録を打ち立てていった某球団。しかし、その戦いの裏には、1強11弱と呼ばれる、各球団間における異常なレベルの財力格差が在ったことを知るものは少なかった。
そんな中で始まった1973年のシーズン、関西の一球団がこの異常な状況を打破すべく、一丸となって某球団に立ち向かっていったことから、この悲劇は始まる。
[編集] マジック1
関西の某球団の大健闘と、金満某球団の巻き返しにより異常な盛り上がりを見せたこのシーズンは、最終的に関西の某球団が残り2試合で1勝すれば、金満某球団のV9を阻止するところまできていた。しかし、この残り2試合で、実に不可解、そしてあまりにもやるせない汚点悲劇が、プロ野球史に刻まれたのであった。
[編集] 名古屋での戦い
マジック1で迎えた初戦、名古屋を本拠地とする某球団との一戦は、明らかに両球団ともおかしな状況だった。
まず、左右のエースを擁して、ここまで勝ち上がってきた関西の某球団は、対戦成績で圧倒的に優れていた点で誰もが予想した右のエース…、ではなく全国的に名の通った左のエースを先発させてきた。監督による奇策、というより「ワシが投げる」と出しゃばった左のエースを抑止できなかった、とも漏れ聞くが、真偽の程は判らない。
ともかく『華のある、歴史的瞬間を左の大エースに託そう』という起用結果になっている。ところが、左のエースは予想に反して失点を許し、チームの雲行きを怪しくさせた。
一方で、この試合に登板した名古屋側のエースは後年になって、こう語っている。
「V9を阻止させたかったから、とにかくド真ん中にしか投げなかった」
しかし、このような異常な状況でも、関西の某球団は絶好球をことごとく打ち損じてしまい、最終的に、2-4で名古屋に敗北。ホームでのシーズン最終戦を勝利しなければ優勝できない、という窮地に追い込まれてしまう。しかも、その相手は、V9の可能性をわずかに残してここまでたどり着いた常勝某球団。
この戦いは、日本中が真っ二つとなるほどの盛り上がりを見せると思われた。しかし、1強11弱と呼ばれた軟弱な財政基盤が、その戦いに水を差すことになってしまう。
[編集] 聖地での直接対決、そして…
ついに始まった運命の一戦。しかし、その戦いは一方的なものであった。関西の某球団は、出るピッチャーがみな打たれ、バッターは三振と凡打の山を築き上げるだけだった。あまりの展開に、試合を戦い続けている選手たちばかりか、観ていたファンさえも戦意を喪失していったのである。そして、最後のバッターが三振に討ち取られる。0-9、一方的な敗戦だった。
[編集] 悲劇 天国から地獄へ
試合終了直後、本来ならば優勝チームの監督が胴上げされるセレモニーが行われるのが一般的であった。しかし、長年優勝し続けてきた某球団を待っていたのは、先ほどの失望感を怒りに一変させた地元ファン達からの罵声と、実際にグラウンドに流れ込んできた数千人もの暴徒達の姿であった。
この試合に漂い続けた一種異様な雰囲気を痛々しく感じていた彼ら。そこへ期待を軽々しく裏切った、ご贔屓の地元球団による無抵抗も同然の不甲斐なさを嫌というほど見せ付けられたのだ。期待が大きかっただけに、怒りがこみ上げてきたのは自然の成り行きだったのだろう…。
彼らは敗戦チームへは目もくれずに、優勝を決めた某球団の選手達を暴行。中には、国民的スターと呼ばれた大物選手も含まれていたが、これも例外なく襲っている。その彼らの勢いは止まる所を知らず、マスコミ関係者たちにも被害を及ばせた。たった一つ、長年地元の球団を応援し続けたテレビ・ラジオ各1局のみが、その被害を免れるという大惨事だった。
決して許される行動とはいえないが、このような暴挙に及んだ彼らの心情は察して余りある。
[編集] その後
この事件は歴史に残る汚点として長く語り継がれることとなる。その後、V9を達成した某球団だったが、この事件をきっかけに人気が凋落。また、選手達も世代交代の時期に当たったため、急激にその地位を失っていく。また、この時期から大手資本が積極的にスポーツへと資金を流入させていった結果、1強11弱と呼ばれたその立場が2強10弱、3強9弱と、続々と変化していくこととなり、時代はより金のある勢力が勝つ時代から、金があり、より人材を育てられる勢力へと移り変わっていき、その流れに乗り遅れた某金満球団は、迷走し続けていくことになる。
[編集] 私は下位になりたい
歴史に残る暴動から数年後、世紀の凡戦の裏側に、このような逸話があったと語られることになる。
その頃から既に吝嗇で有名で、選手を大事にしなかった関西の某球団は、当時、優勝しても選手達の給料を支払えるだけの財政基盤に乏しかった。そのため、球団のオーナー自らこのような発言を吐露した結果、それを聞いた選手たちのモチベーションが極端に下がった、とされている。それが、
「優勝争いで儲けさせてくれたら、優勝しないほうがいい。観客が集まってくれるのなら下位のままがいい」
との発言である。その影響は、いつまでも関西の某球団を蝕み続け、負の歴史となっていく。
[編集] 歴史の皮肉
皮肉なことに、関西の某球団はこの13年後の1985年にリーグ優勝、日本一に輝いている。
しかし、それは1973年当時のオーナーよりも、チームへの理解が遥かに深かった球団社長が飛行機事故で亡くなられた結果、チームが一丸となって優勝を目指したためとされている。
[編集] 他球団の場合
関西の某球団が勝手にズッコケて球界の悪弊を打破できずに沈んだ為に、「繁栄する1球団と、お零れに与る同一リーグの5球団、並びに日本シリーズだけでしか恩恵に与れない6球団」の1強11弱という、歪んだバランスを崩せなかった。大体、どこの球団首脳であっても現状に概ね満足していた上、球団なんて子会社だからと言ってマジメな球団運営に乗り出さない怠慢。球界の改革なんて夢のような話であった。
ある在京球団も例外ではなかった。それも、「親会社の製品が、金満球団のファンからボイコットされては困る」という懸念から、自チームよりも近所の金満球団が勝つ方がイイと、そこの球団首脳は考えていたのである。
しかし、関西某球団の事件から5年後の1978年、コーチから昇格した勝利のためには個人感情さえ無視する人の監督2年目のシーズンに、 この在京球団は初優勝を窺う快進撃を見せる。
それに狼狽した球団首脳は、と監督に忠告した。ちょうどチームも失速しだして、「惜しかったなぁ」で済みそうになっていた。しかし、試合ですら勝利至上主義を貫く、この監督にそんな言葉は、馬の耳にオダブツであった。ぬるま湯に浸かった球団の姿勢を正すかのように勝利を目指し続けた結果、ファンですら信じられなかったリーグ初優勝を達成。しかも日本シリーズでの下馬評まで覆して、日本一に輝いてしまった。
成ったことも無い日本一には球団首脳であっても気を良くしたのか、監督との契約を更新した。ところが、
と、常勝軍団への脱皮を目指す為のトレードには及び腰であった。監督の構想に副えない体制で臨んだ翌1979年、チームは崩壊。しかも球団が、コーチ陣の一部刷新にまで首を突っ込んだ為、勝利至上主義の監督と決裂。
再び、ぬるま湯の暗黒時代に戻ってしまったのであった…。