秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

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秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ は、小倉百人一首冒頭の歌で、天智天皇(中大兄皇子)作とされる。この一首だけなんとなく暗記している方も多いだろう。しかし、一体この歌のどこが良いのだろうか。そもそも天皇の袖が濡れることなんてあるだろうか。

解釈[編集]

小倉百人一首は、鎌倉時代に藤原定家がディズニーの『101匹わんちゃん』にちなんで秀歌を101首選んだものだが、天皇による歌は他にもいくつも採られていて、この一首が時の天皇への目くばせのためにどうしても必要だったわけではない。にもかかわらず定家がこの一見どうということもない歌を採用し、101首の頭に据えたからには、選集のつかみとするに十分な魅力があると考えたということだ。

技巧に優れているか?[編集]

技巧的には唯一「秋の田のかりほの庵(いほ)」が「刈り穂」と「仮庵」とがかかったダジャレ、もとい典雅な言葉遊びだがけっして珍しくなく、むしろ「仮庵(かりお)」をカリホと読ませている点が苦しいくらいだ。

「庶民思いの天皇」のイメージ作り?[編集]

次に「秋の田の、刈った稲穂を貯めておく仮小屋の苫ぶきの屋根が粗いので、袖が夜露で濡れてしまう」という内容だが、万葉集に「秋田刈るかりほを作りわがをれば衣手寒く露ぞ置きにける」という詠み人しらずの全く同じ意味の歌が先にある。しかし定家ら後世の人々は「秋の田の~」をあえて天智天皇の作として伝えた。学校では「天皇が農民の気持ちになって詠んだ歌」と教えるようだが、どうだろう。庶民の苦労を思いやれるならそもそも重税を課さないし、防人なんか設置しない。

日本書紀』によると、天智天皇の弟で彼の後に即位した天武天皇は、兄の死後すぐ東方の民が謀反を起こすと予感して、ある日突然無計画で徒歩にて出発した。周りの貴族や豪族が慌てて車や馬や家来を集めてお供した。家来を集め過ぎて馬に乗れない者が出たので、途中で偶然出会った農民が米を運ばせていた馬を奪い、米を捨てて家来の馬とした。夜になると暗いのでそのへんの厩を焼き、村人の家の垣根を壊してたいまつにした。その村で人夫の志願者を募ったが、一人も出なかった(当たり前だ)。『日本書紀』は天皇と朝廷の公式記録として天皇の命で書かれたものなので、古代日本の感覚ではこういうのは全然悪くないどころか、正しい態度だったということだ。中世に至ってその感覚が大きく変わったとは考えにくい。定家も「天皇が庶民の苦労を思いやる」ことを美徳とはしなかったはずだ。

平安の王朝人にとっての最大の美徳は愛であり、百人一首の歌の多くは明確に色恋を扱っている。光孝天皇の「君がため春の野にいでて若菜摘むわが衣手に雪はふりつつ」のように、天皇がその袖を濡らさなければならないような理由があるとすれば、それはであるべきだ。それにしても、早春の野原で恋人のために若菜を摘んで雪で袖が濡れるならかっこいいが、粗末な苫ぶき屋根の下で夜露に湿らせるのは、恋人を待っているにしてもあまりサマになる図ではない。皇太子であったころからガチガチの武闘派で、蹴鞠友だちの中臣鎌足とともに蘇我親子を暗殺し、謀反の疑いが少しでもあれば誰でも、妃の父親さえも殺し、外国への遠征も率先して行い、晩年にあっても見張り台の整備のため僻地に自ら赴く、とことん実践の人であった天智天皇には、濡れながらただ待つなど到底似合わない。

屋根は粗いのか?[編集]

そもそも屋根から水が漏ることが考えにくい。飛鳥時代の建築技術は五重の塔が造れるほどに高く、高貴な人々は広い敷地内に主人の住む正殿の他、台所や使用人の家や厩など、目的ごとにいくつもの離れをもつ、複雑なつくりの家に住んでいた。逢引きするのにわざわざ農民の穀物貯蔵庫を使わなくても、いくらでもスペースがある。では相手が庶民だとすると、技術の程度はかなり劣り、ほぼ弥生時代の竪穴式住居と同じであるが、それでも水は漏れない。屋根をふくときに土でしっかりすき間をふさぐし、その屋根は居住スペースである穴よりもかなり外側まで続いていて、その先の地面には雨水を受ける溝が掘ってあるので、室内に水は来ない。穀物貯蔵庫ならとくにその点は気を配るはずだ。それでも「袖が濡れた」と歌にはある。なぜ濡れたのか。

男としての天智天皇[編集]

天智天皇の治世に流行った戯れ歌が『日本書紀』に書き残されている。

ウチハシノ ツメノアソビニ イデマセコ タマデノイヘノ ヤヘコノトジ
イデマシノ クイハアラジゾ イデマセコ タマデノイヘノ ヤヘコノトジ
(板で作った簡単な橋のたもとへ遊びにいらっしゃいよ、玉出の家の八重子さん
来たら後悔させませんよ、いらっしゃいよ、玉出の家の八重子さん)


天智天皇はけっこうお盛んなほうで、皇太子の頃、わりと早い時期に最初の結婚をし、決して長くない生涯のうちに、名前が分かっている高貴な身分の相手だけでも9人の妻や愛人を持ったほか、弟の妻だった額田王を略奪した。そして彼は前述したようによく旅をした。その目的は国家の防衛に関する重要な任務が多く、妻や愛人を連れていくことなどできないわけだが、そうなると現地妻を近隣の農家などから調達してくることになる。さっきも書いたが、当時の倫理ではこんなこと問題にならない。まして奪うのでなく愛を与えるのだから。そして穀物貯蔵庫を仮の宿として一夜を過ごした結果、袖が濡れる。飛鳥時代の貴族は聖徳太子が定めた冠位十二階に従って、身分ごとに違う色にきれいに染め分けた、絹製の冠と裾の長いローブとズボンを着ていた。聖徳太子の服装を思い浮かべて欲しい。あるいは、中国にならった衣装なのでベビースターラーメンの旧キャラクターでもいい。着たままささっと済ませたら絶対に袖なんかすぐ濡れる。さすがは定家、選集のつかみにはもってこいの題材である。

これで解決と言いたいところだが困ったことに、天智天皇は変わり者で、一番精力的だったころ、政務の際に白い麻の服を好んで着ていた。遠出する際にももちろんそうだっただろう。当時の男子の一番簡略な服装は、大きな麻布の真ん中に穴を開けてすっぽり被り、腰巻をつけただけの格好である。庶民はみんなこれで、さらに言えば女子には腰巻がなくてポンチョだけだった。脱ぐとき楽そうである。さすがに天皇であれば単なる貫頭衣ではなくもうちょっと複雑だったかもしれないが、袖をまくらないと濡れるような構造ではないだろう。それでも袖が濡れたのだからこれはそう、間違いなくフィストファッ検閲により削除

アンサイクロペディアに2010年からある、なぜ作られたのか分からない、全く意味のない画像。意味はないけれど、なんとなく和みますね。


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