秦宜禄

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

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秦 宜禄(しん ぎろく、? - 195年)は、後漢末三国時代に登場する呂布武将秦朗(別名:秦良)の父。

[編集] 生涯

陳寿の著作じゃない『三国志演義じゃなく…『後漢書』「董卓伝」と『民間伝承』をあわせると、「宜禄」はとされ、諱は「誼」とされ、あわせて「秦誼」とも呼ばれる。『三国志演義』には登場しない人物である。

一方、裴の字が引く『魏略』では、「秦伯南」(?)とされ、曹操ホモ達で、袁術に追われて農家に潜伏した曹操の身代わりとして「俺が曹操だあ!」と叫んで殺害され、その子のを哀れに思った曹操の養子になったと記しているが、これは裴の字によるトンでもな誤りである[要出典]

『三国志』「明帝紀」と『民間伝承』をあわせると、秦宜禄の本籍は并州新興郡で、同郷の呂布の武将として活躍した。

引き続き、前述の『後漢書』「董卓伝」によると、192年に太師の位に就いたブタ野郎・董卓暗殺の計画の際に、王允黄琬とともに行動した呂布の命で、宜禄は陳衛・李黒とともにに長戟を所持し、宮中護衛兵に化けた。董卓が宮中の門に到着すると、宜禄らは董卓の肥満体を突き刺した。これを見た呂布が「くたばれ!!このブタ野郎~」と叫び、「この飼い犬め…ワシの恩を忘れおったか…」と最期の言葉を発した董卓にとどめを刺した。

193年に曹操の実父の曹嵩が徐州刺史陶謙の武将に惨殺され、曹操自身が「父の仇を討つ」と称して、十万の軍勢を率いて徐州の人民を無差別に大虐殺した。

そのときに曹操の参謀だった陳宮は曹操の親友の陳留郡太守張邈を擁立し、呂布を迎えて曹操の留守を衝いた。呂布の武将の秦宜禄も曹操の背後を襲い掛かった。

しかし、宜禄のの杜夫人がものすごい美人だったので、これを見た呂布の命で息子の秦朗とともに人質として抑留されていた。主君の理不尽なやり方に不満を持った宜禄は曹操の投降催促に乗り、あっさりと降伏し、曹操より豫州の沛国銍県の長に任命された。しかし、奥さんと息子はそのまま人質で、後に下邳に移された。

興平年間の195年12月、裏切り野郎の呂布に徐州を乗っ取られてしまった単純な張飛が、袁術に連戦連勝していた劉備のもとに逃亡する途中で、いきなり銍県を攻撃した。そのときの張飛は「カミさんを呂布のバカ野郎に奪い取られたそこにいる男の存在は実に愚かだな。どうだい?!を上げるために、この俺様に降伏しないか?」と叫んだ。しかし、宜禄は「どこぞの馬の骨とも知らない郷士あがりの男に、この俺が降伏すると思ったか?田舎者はさっさと帰れ!!」とをはきながら言い返した。これに激怒した張飛は総攻撃し、宜禄とその部下たちはあっさりと殺害され、その首はディスクの上のコレクターにされた


3年後の198年冬12月、呂布が下邳で曹操・劉備連合軍に滅ぼされると、未亡人の杜夫人の美貌にほれた関羽は曹操にむかって「宜禄未亡人をこの私にお願いしますよ!」と嘆願したが、曹操は自分の都合がいいように言い訳して、杜夫人を自分の側室にして、その子の秦朗を養子とした。

これを聞いた関羽は、曹操あまりの傲慢さ、狡猾さに愕然したという。

[編集] 汝南郡宜禄県の地名

余談として、西晋時代以降に汝南郡宜禄県(現在の河南省周口市)という地名が生まれた。これは彼の孫の秦秀によって、彼の名をちなんだものだと言われる。


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