種田山頭火

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種田さん(たねだ-、1882年 - 1940年)は、明治大正昭和初期にかけてを代表する旅行家。当時で言うところの世捨て人であり現代の社会 問題であるニートのハシり的存在と言われている。ただひたすら自由を求めて世界中を旅したことで知られる。「季節を問わず、自由に旅を」をモットーとした無季自由律ハイクを提唱した。また、自身の旅の経験を元に日本全国で講演活動を行っており、旅の素晴らしさを伝えるも制作している。

略歴[編集]

1882年に山口県で産まれる。は産まれた村の大地主で歌を趣味としており、幼少の頃から歌の素養と、日本各地の風景を詠んだ歌に触れることで膨らんだ旅への思慕を培っていった。

早稲田大学文学部に入学し、和歌・俳句を学ぶと同時にワンダーフォーゲル・サークルで活動していた。しかし、その活動のさなか雪山遭難を2度経験する。1度目の遭難があったにも関わらず再度遭難したときも雪山に無防備であった事が判明し、大学内からその無謀さを非難され、大学は3年間で中退している。この頃から、「どんな季節でも、どんな場所でも自由に旅にでられるようになりたい」という願望があったことを述べている。

1910年に結婚してからはそのの実行を準備し始め、翌1911年に再び大学時代に辛酸を嘗めた雪山[1]登頂に挑戦。「まつすぐな道でさみしい」と嘆くほど余裕で成功している。

これを機に、種田は「季節を問わず、自由に旅を」を合言葉に無季自由律ハイクを提唱。その第一人者として世界中を旅している。

1940年に死去するまで、世界195カ国、40地域を旅し五大陸を32回制覇した。死去する直前まで旅には積極的であり、数日前までイギリスへの旅を計画していたという。

無季自由律ハイク[編集]

「季節を問わず、自由に旅を」という言葉の通り、種田の旅は季節・スタイルを固定することなく続けられていた。前述の雪山も、その後季節を変えて6度登っている。5度目の登山(8月)では生まれたままの姿で挑戦し、桜田門組厄介になったことは有名になっている。

その他、「鈴をふりふりお四国の土になるべく」と、四国のお遍路行脚を逆から行なう逆打ちと呼ばれる旅を行なったり、自転車で日本縦断する様子をテレビが逐一放送するなどのスタイルを確立したのも種田であると言われる。

種田が行なった無季自由律ハイク[編集]

種田は、自分が行なった旅にタイトルをつける事を趣味としており、後に出版された旅のレポートにはこのタイトルをつけている。

笠にとんぼをとまらせてあるく
この状態で万里の長城を旅する挑戦を行いった。(とんぼが餓死するまでの)27日間旅をしたという。
木の芽草の芽あるきつづける
行乞で実入りがなくとも山に生えている木の芽や道端の草の芽を食べながら歩き続けて世界5大陸を10回制覇した経験を語ったもので、サバイバル精神の大切さを簡潔に説いた偉大な作品。グリーンベレーをはじめとする各国軍の特殊部隊も訓練時にこの作品を隊員にノドが嗄れるほど唱和させているが、唱和させられてる方はホントいい迷惑でしかないのは言うまでもない。
歩きつづける彼岸花咲きつづける
彼岸花が多く咲いている棚田のあぜ道のみを歩き続ける旅を行なった。旅は秋の彼岸に行なわれ、実り始めた稲穂と山の風景は絶景であったと思われる。
けふもいちにち風をあるいてきた
旅に生きた種田は風を読む能力にも長けていた。この句は地面を歩くのが面倒臭くなったので空へジャンプ、偏西風に乗った後、その後季節風やらいろいろな風を乗り換え、一日で世界一周したことを簡潔にレポートしている。ちなみに風に乗って空を歩く彼をニューヨークで目撃したニューヨーカーたちはこう言った。「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、サントーカだ!」
水に影ある旅人である
水上歩行に関する論文を読んだ種田がそれを実践し、見事に死海横断を成し遂げた旅。旅を成功させた直後に現地人に言われた言葉(「まるで、水の上で影が走ってるようだったーヨ!」)からタイトルがつけられている。
昭和四年も五年もまた歩きつづけるより外なかつた。あなたこなたと九州地方を流浪したことである。
わかれきてつくつくぼうし
九州地方を1年半かけて旅した長編レポート。のべ500件の家に寝泊りしたという。
足は手は支那に残してふたたび日本に
傭兵として日露戦争に参戦した際の戦いの旅をレポート。種田の正体はネイビー・シールズ上がりで「種田戦闘火」という二つ名を奉られるほどの凄腕の傭兵であり、同時に左腕にサイコガン、右脚にはロケットランチャーを仕込むほどの病的な武器オタクであった。種田は中国大陸各地を転戦し大活躍したが、あまりにも戦闘行為を楽しみ過ぎて夢中になりすぎ、帰国時にサイコガンとロケットランチャーを隠しておくための左腕及び右脚カバーを中国大陸のどこかに置き忘れたことにようやく気づいて探しに戻った、というなんともオマヌケな結末となってしまったことを得意の自嘲をこめて表現している。
昭和十二年元旦
今日から新らしいカレンダーの日の丸
イランから日本までヒッチハイクの旅を行なった。当初は昭和11年の大晦日までに日本へ帰る予定だったが、結果的には12年1月12日に帰国している。これは目標叶わず年が明けてしまったことを嘆いたタイトルである。

これらは、ハイクレポート「草木塔」に収録されている。

脚注[編集]

  1. ^ この時に登頂したのは通称『青い山』と言われる山だが、これが大学時代に遭難した雪山と同一か、そしてそもそも何の山なのかは不明。

関連項目[編集]

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種田山頭火が放った発言は、後世の物好きのために、有志たちによって「Unquotable/歌人」へ収録されています。