種田さん投下計画
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
種田さん投下作戦(たねだ―とうかさくせん)とは、五・七・五という定型にはまってしまい、少々マンネリが過ぎた俳句文化にブレイクスルーをもたらすために実行された、芸術テロのひとつ。1911年に、当時俳句界の風雲児と呼ばれた荻原井泉水によって計画・実行されたものが最初であるが、以降分野・時代を変えて何度か行われている(後述)。
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[編集] 概要
江戸時代から続く俳句文化の衰退に初めて危惧を唱えたのは、明治時代後期に登場した河東碧梧桐であった。俳句独特である17音という定型に囚われることにより、自由で動きに満ちた表現がしにくくなっている、という信念を覚えた河東は、当時俳句界に急先鋒として活躍していた荻原井泉水に相談、そして秘密結社『層雲』を設立した。しかし荻原の急進的な思想に河東はついていけず、後に離脱している。
1911年に荻原は、停滞した俳句文化に対して何らかのブレイクスルーを発生させるとして、秘密兵器『種田さん』を投下する決意を行なった。これはヨーロッパではじまったシュルレアリスム(シュールレアリズム)よりも10年以上早く、古来からの抽象的な文化に対して現実的に物事を見つめる芸術を作り上げようとした功績は大きい。
[編集] 種田さん
1882年から製造の計画は行なわれていたが、完成し実際に最初の投下作戦に使用されたのは1911年である。スペックは以下のとおり。
- 自分の作った歌を俳句と言い張る声量
- 5・7・5という節を無視した作詞能力
- 俳句と言い張る声量
- 放浪癖
- 声量
[編集] 投下作戦 in 俳壇
俳句界に投下された種田さんは、その能力を存分にふるい俳句を破壊しまくった。1911年から15年の間、俳壇は予定調和の17音からかけ離れた俳句が氾濫し、元の俳句が詠めなくなりそのまま『層雲』に入会するする俳人もいたようである。
しかし、1920年以降『層雲』は目立った活躍が無く、そのまま消滅、種田さんの行なった破壊活動は昭和以降急速に復元されてしまった。
しかし、投下直後のダメージは消えたとはいえ、日本の俳句界はこの計画により消えることの無い深い傷を負った。そしてその衝撃は40年後に、今度は小中学生に与えることとなる。
[編集] 小中学生に対する影響の例
小中学校での国語科の教科書では、種田さんはたった1つ、多くて2つ程度しか投下されないものなのだが、それにもかかわらず、その周囲に載せられている他の作品との絶望的なまでのギャップに心奪われる学生が続出し、テロによる社会全体に広がる後遺症は広がり続けているとかいないとか。
- 「それで俳句かよ!」というツッコミが鍛えられる
- 「これでも俳句なんだぁ」と妙な自信を付けてしまい、俳句(らしきもの)を自作する人が増える
[編集] 投下作戦 in ウィキペディア
頭の固い百科事典では2004年4月9日に投下されている。詳しくはウィキペディアのページで。
[編集] 結果
その内容は3行程度の極めて杜撰なもので、アンサイクロペディアでならすぐに消されてしまうような内容であった。やっとまともな記事となるのはその半年以上経った11月であり、ウィキペディアでの投下作戦は事実上の失敗に終わっている。一説によると、これは荻原の計画によるものではなく、別のテロリストによる行為であることが主張されている。
[編集] 投下作戦 in アンサイクロペディア
ウィキペディアでの失敗を教訓とし、アンサイクロペディアでは入念な準備活動を行なった上で作戦を実行する事となった。
ところが、2008年5月3日にこの計画が実行されるに際し、記事『種田さん』について「無季自由律ハイク(ハイキング)した人ってことにすれば面白いんジャネ?」という電波を執筆担当班が受信してしまい、当初予定していたよりも長い記事となってしまっていた。それでも記事に問題は無いとした作業班により、予定通り記事は投下、その後の様子を、記事がどうにかなってしまう平均的な半減期である7日をめどに経過観察することになっていた。
[編集] 結果
以下が、結果を示す写真である。
ところが空気の読めない方達の操作により、
という事態になってしまった。種田さんの記事が、消されるべき記事と本編(この記事)と、重複してしまっているのは残念な所である。
[編集] 結論
アンサイクロペディアではあまり、人をおちょくってはならない。