空海

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空海(くうかい、そらうみ)

1.平安時代日本。本項で記述。

2.

  • 歌人の若山牧水が「…空のあを海のあをにも…」という歌を詠んだことから、短歌界では一般に若山牧水のことを空海と称する。
  • 中国の伝説上の巨人、盤古が作ったとされるこの世。盤古は1万8千年かけて天と地を分離したが、仏教思想の中で須弥山が大海の中にあることと結びついて、盤古が空と海を分けたと解されるようになった。
  • 南洋ポリネシアで、海と空以外に見渡すものがない状態を示す語。

3.2ちゃんねるで「食うかい?」を表す隠語。


「空と海が重なった。」
空海 について、オレンジレンジ

空海(くうかい、774年 - )とは、日本の僧。真言宗の開祖にして書の達人。「工房大使」とも呼ばれる。また、男色の開祖としても知られ、股間にも立派な筆を持っていたとされている。2007年現在、地元高野山の最奥部に引きこもったまま隠遁しており、世界最高齢のニートの一人としても有名である。

生い立ち[編集]

香川県に生まれる。家庭が貧しく、頬がこけるまでにやせており農民が「空海、なんか食うかい」と話しかけたほどだと伝えられている。捨て子同然で幼少時より仏門に入り、麻帆良学園に入学・飛び級で卒業する。若くしてその才能を認められ、仏教界の高僧らに寵愛されるが、同じ宿坊の僧らの反感を買って嵌められ、中国(唐)に売られる。

中国ではエリート家系のお坊ちゃんである最澄に会う。2人は日本からやってきた優秀な僧として中国でももてはやされるが、家格の違いから空海の妬みが大きくなり、2人は不仲となる。最澄は天台宗を学んだが、空海はこれに対抗して真言宗を学んだ。

日本に帰国後は、エリートの最澄が京都に近い比叡山延暦寺を開いたことに対抗して、和歌山の山中に高野山金剛峰寺を開山。はじめのうちは野兎やくらいしか集まらなかったが、「山奥深くで修行すると功徳がある」と言葉巧みに勧誘を行い、朝廷や貴族階級からも注目されるようになった。

山奥に大きな仏閣を建立したことから、平安京大工職人からも注目された。823年からは金剛組[1]の社外取締役を務めている。さらにその技術力と知名度を買われ、翌年から工房大使[2]として日本の職人技の宣伝も行った。また、温泉開発の技術も高く評価されており、彼が携わった温泉は東北から九州まで枚挙にいとまがない。

828年には手芸酒置院[3]を開いた。これは上流階級の女性の花嫁修業の場として大いに注目された。

また、中国帰りの際持ち込んだうどんを日本に広めた功労者であり、ひらがないろは歌を産んだ文学者であり、葉っぱを川に浮かべに変身させた超能力者であり、全国数千箇所に足跡を残した旅人でもあるなど、マルチな才能を発揮している。


影響[編集]

空海(弘法大師)が由来とされる伝説や伝承があるものは、平仮名や灸、讃岐うどん、曜日、果ては水銀鉱脈の発見やダウジングに至るまでであるが、決して表向きに語られないものもある。男色である。空海が伝えたのは僧侶の断食もあるが、女性との接触を固く禁じられた修行僧の、それでも溜まる性欲の発散の方法として同性との交尾、すなわち男色も提唱。かくして、後世の修行僧はほとんど稚児などを使ってホモ行為をおこなうようになったとされる。

書の達人[編集]

空海は書の達人としても知られた。嵯峨天皇橘逸勢と並んで三筆として知られた。

書き出しの「点」を忘れて他人から指摘された後、を投げてその点を書いたという伝説も残る。これは書の才能というよりダーツの才能[4]である。このようなエピソードは多数あるものの、どれも書が本当に上手かったのか疑問が残るものばかりである。

彼の通称である工房大使をとって、「工房も筆の誤り」ということわざもある。これは空海がよくわざと書き間違いをして、上記のエピソードのようにダーツの腕前を披露したことから、目立ちたがりの者をこのように言うようになったのである。

注釈[編集]

  1. ^ 今日の金剛建設の前身である。
  2. ^ 今日の特命全権大使とは異なる。観光大使やふるさと大使に近い存在である。
  3. ^ 当時の上流女性にとって、手芸と並んで酒器の管理はとくに重視された。天皇や貴族を歓待する際の酒器の管理はすべて主人の正妻の役目とされていた。
  4. ^ なぜ空海がダーツが上手かったかは諸説ある。先端にを塗ったダーツで最澄を暗殺しようとして日夜練習したためだという説もある。

関連事項[編集]

Wikipedia
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