綾瀬泰造

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綾瀬 泰造(あやせ たいぞう, 1920年 - 2001年頃) は、日本の哲学者である。東京大学名誉教授。日本学士院会員。文化勲章受章。勲一等瑞宝章受賞。

生涯[編集]

1920年(大正9年)、埼玉県の農家(代々小作ではない)に生まれた。8歳のころには独我論的な作文を残すなど、既に哲学者としての素養を示し、また、ほかの学業も優秀であった。特に算数では、10歳のとき独自の微積分的な解法を考えたいう。また感情豊かで友人も多く、30年後の小学校の同窓会では、出席者全員が綾瀬泰造の名前を覚えていたといわれている。

東京高等師範学校を経て1943年、東京帝国大学哲学科に入学。世間から遠ざかるように勉強に励んだ。当時の教授は、「私が勧めた本はあっという間に読んでしまうし、しかも彼は英語もドイツ語もフランス語もラテン語もギリシア語もよく出来たので、原書の訳について私のほうが彼の意見を聞いたりすることもあった。とにかく凄まじい天才だった。」と振り返る。

その天才肌から戦時中は、学生でありながら軍部の総力戦研究所や外務省などから度々協力を要請されているが「学生の本分は学業である」と断っている。そうしたことから特高警察などに厳しくマークされた。敗戦間近になると学徒出陣で徴兵されかけたが、海軍が令した国民徴用令によって徴兵は免除されている。

1945年になると当時の住まいであった本郷の下宿が空襲で焼失し、大学内で寝泊まりするようになる。同年8月、大学構内で玉音放送を聞き終戦を迎える。大学卒業後は埼玉師範学校の哲学専任講師を努めつつ、東京大学大学院で研究生活を送り、1955年、埼玉大学教授となる。

1958年、当時埼玉大学の学生であった吉良治夫の姉、直子と結婚。大恋愛であったといわれる。1962年には長女誕生。

1965年、東京大学教授となる。このころ多くの著作を発表した。1968年の東大紛争では、週一回、バリケードが組まれた大学内に堂々と(?)忍び込み、研究室で著書の執筆に専念していたと多くの学生が証言している。過激な全共闘も「綾瀬教授なら構わない」と許容していたと言い、綾瀬の人気が高かったことがうかがえる。

1982年に停年退職。以後は、執筆および随筆活動を主に行うようになる。

1985年、文化勲章受章。

1988年、孫、綾瀬夕映誕生。初孫の誕生に非常に喜んで、自宅周辺を歩き回っていたところ、警官に職務質問されたが、自らの喜びを雄弁に語った後、その警官も引き込んで孫に会いに行ったという。

1991年、勲一等瑞宝章受賞。

2000年、行方不明になる。 2001年頃、永眠したとされる。

人物像[編集]

近代批評の第一人者小林秀雄は「温和でおおらかなひねくれ者」と評している。 しかし、生涯渡ってのライバルだった哲学者市川浩は「愛と哲学を引き合わせ、着易く使うものではない」と批判し、また作家の大江健三郎は綾瀬と対談を交わした後に「気持ちの良い好々爺」と印象を持ちながらも「独り善がりの哲学音痴である」と扱き下ろしている。

眼鏡をかけ、煙草をふかす姿で知られている。煙草はチェリーを愛飲したといわれる。

孫にとても愛されており、孫は彼の失踪にひどく塞ぎ込んだという。また、哲学者という特殊な性格からかまだまだ謎が多く、今後の研究が望まれる。

思想[編集]

彼の言葉で最も有名である、『愛を知らぬ者が本当の強さを手にすることは永遠にないだろう』から分かるように、哲学者としてはわりと素直な部類。というよりは、今の人間が忘れた「熱血」に再注目しているとも言われる。愛という曖昧な定義を持つ言葉を使うに当たり、仏教哲学やキリスト教神学といった宗教哲学の影響が大きいと見られる。

ミレニアム行方不明事件[編集]

2000年1月1日、綾瀬泰造は突如行方不明となった。親族が新年の挨拶に訪れたとき、ダイニングには朝食がまだ温かいままに残されており、綾瀬泰造の姿だけが忽然と消えていた。室内に争ったような形跡はなく、リビングに「ちょっと出かけます」とだけ書かれたメモが残されていた。このメモの筆跡は綾瀬泰造のものではなく、おそらく女性のものであることが判明している。

2001年7月4日、綾瀬泰造の死亡を知らせる内容の手紙が届けられ、その証明として彼の指輪が同封されていた。この手紙の筆跡は失踪時に残されていたメモのものと一致していた。警察はこの手紙の差出人が何らかの事情を知っているものとして行方を調査したが、そのわずか4か月後に捜査は打ち切り。遺族も死亡届を出して、事件は行方不明のまま幕を閉じている。

2001年12月、某オカルト雑誌が古今、失踪した人物を特集する記事で綾瀬泰造もその一人として上げられた。ミレニアム行方不明事件が見出しの名前である。それを検証すべく警視庁と深いパイプを持つ代議士F氏(本名不詳)にインタビューを行なった際

綾瀬先生の件には残念だった。(中略)『あそこ』は今色々訳ありだから…ともかく先生が死んだことは間違いない

と意味深な回答を掲載している。『あそこ』というのがアメリカ説、中東説、北朝鮮説、さらには異世界説まで出たが結局解らず仕舞いだった。さして話題にもならなかった記事だが、出版社が2002年に突如倒産し、出版関係者の消息が不明である。さらにこの特集が組まれた号は現在、絶版状態で入手困難。国立国会図書館に一冊存在しているが何故か閲覧禁止となっている。

逸話[編集]

  • 戦時中、総力戦研究所からの要請を断った後にある陸軍将校が大学の研究室に乗り込み、「何故御国のために協力せんのか!」と怒鳴ると「ここは学び舎です!大声を出せば学業に支障をきたします!」と更に凄まじい大声で将校を一喝した。度肝を抜かれた将校は、笑いながら「あべこべだが、インテリの癖にようやる」と握手を求め、帰っていった。
  • 帝国陸軍の異端児といわれた石原莞爾とは東亜連盟を通じて交流があったといわれる。しかし、この二人の関係は殆ど知られておらず、綾瀬の死後、自宅の書庫において「東亜連盟石原先生見聞録」と張り紙がされた箱の中に石原との会話を記したノートをはじめ、異世界や世界終末、ユートピア思想に関わる大量の書物が発見されたことで判明した。これらの物件が綾瀬の哲学形成に大きく影響されているとし研究が進んでいるが、破損・欠陥している物が多いため、解読は極めて困難だという。
  • 埼玉大学教授時代、(先人の)思想(哲学)を学ぶのではなく、自ら哲学をする目的で何名かの学生(および知人)を集めたことがあった。たまたま綾瀬泰造を含めて男4人、女4人であったが、この8人のゼミから偶然にも4組のカップルが生まれている。
  • 東大紛争の最中、ある冬の時期に文学部の全共闘学生と綾瀬がマルクスについて論議を交わしていた。傍には火のくべられた一斗缶がり、火が弱くなると綾瀬は「待ってなさい」その場を立ち去り、再び姿を見せると持ってきた一冊の本を一斗缶の中に放り込んだ。実はそれが1800年代ドイツで発行された「共産党宣言」の原書で、それに気付いたある学生が後年綾瀬を訪ね「よくそんなことができましたね。ばれたら一悶着でしたよ」と問うと「あの時は寒かったからね」と答えている。
  • 多くの人物に慕われながら、ただ実の弟で前衆議院議員の綾瀬宗佑氏とは晩年まで不仲であったという。戦後の農地改革で、豪農であった綾瀬家の資産が大きく傾いた中、再建のために奔走したのが当時、旧制中学校を卒業したばかりの綾瀬宗佑だった。その後綾瀬家の当主は実質宗佑に引き継がれるのだが、この困窮の最中一人研究に没頭していた兄に、嫉妬感を示していたのだと直子夫人は語っている。さらに「泰造さんが新年に埼玉の本家を訪れた時にね、弟さんは彼に一言も口を利かないんです(略)ある時は酒の飲み方だけで、激しく口論しあって、とうとう殴り合いになったこともありました」とも証言している。なお宗佑氏は1960年代から日本農業組合全国指導農業協同組合連合会の役員になり、その後組合本部の推薦で農林水産省(旧農林省)の農産部に転入し、衆院議員にまで登りつめた。しかし、50代後半で政治家を引退するが現在はJA全国農業協同組合中央会名誉顧問となり日本農業界における彼の影響力はいまだ大きく、また本家でも農作業をこなす程の現役である。

著書[編集]

  • 『夢と愛と哲学』 現代新潮社 1958年
  • 『錯覚ではない愛』 海鳴社 1964年
  • 『時間の錯覚』 講談社現代新書 1971年
  • 『自伝』 現代新潮社 1989年

関連[編集]