織田信雄
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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~ 織田信雄 について、織田信長
織田 信雄(おだ のぶかつ、又は、のぶお)織田信長と濃姫の間に生まれた次男。豊臣秀吉に幾度も機先を制せられ懐柔されるという醜態を晒し、数々の状況を弁えないマヌケな発言を発して部下達を辟易させ、また周囲からは失笑を買った。あまりに阿呆なので戦国武将ではなく大道芸人なのではないか?とまで言われている。しかし、阿呆阿呆と散々扱き下ろされながらも最終的にはちゃっかり戦国乱世の世を生き延びわずかな知行とは言え近世大名として命脈を保っていることから、意外としたたか者で阿呆な振舞は生き残るための処世術であった可能性もある。いずれにせよ、武将としては二流以下の評価が定着している。同じような境遇と辿った叔父の織田有楽斎とは莫逆の友でもある。
目次 |
[編集] 織田信雄の生涯
[編集] 爆誕
永禄元年(1558年)、織田信長の息子として生まれる。しかし、生まれた直後、「俺は天下人になる」と言って真っ裸で城の外に出て、城下町の人々にションベンをぶっ掛けたり、嫁入り前のお市に夜這いを仕掛けて処女を阻喪させようとするなど不埒な素行が多かったため、一時は信長から捨てられそうになった。しかし、口が達者で周囲に媚を売るのが上手であったため、イエスマンとはいえ仲間が増え、実は織田信孝よりほんの遅れて生まれていたにも拘らず、次男にしてもらえた。
[編集] 伊賀攻め
しかし信長からは自分の息子として織田家を盛り立ててゆく資質を疑問視されていたようで、北畠具教の元に養子に送り込まれた上で、「今から五年以内に北畠家を乗っ取れ。もし出来なかったらお前を勘当した上で放逐するかもしくは腹を切らせる」と、制限期間を設けた課題を出される事となった。自身の立場と命が懸かっているためさすがの信雄も血眼になってあらゆる手段を尽くし、剣豪として名高い具教を、どういう手段を用いたのかは知らないが暗殺して、北畠家を乗っ取った。この鮮やかな御家乗っ取りで信長からはさぞや称賛されるだろう。ひょっとすれば兄織田信忠を出し抜き俺が嫡男になるのも夢じゃないと小躍りしていた信雄だが、何故か信長からこっ酷く叱られた。理由は不明だが、信雄の事である。何かしらマヌケなことをやらかしたのであろう。
[編集] 本能寺の変
本能寺の変の際には「親父も兄貴も死んだ、これで俺が天下人だ!」と狂喜し、トチ狂って安土城に放火し灰燼に帰してしまった。その後の清洲会議では自分が後継者になろうとするが、あまりの馬鹿ぶりに誰にも構って貰えず、わずか3歳の織田秀信に家督を奪われる。
[編集] 小牧・長久手の戦い
天正11年(1583年)の柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いである賤ヶ岳の戦いでは秀吉に味方した。そして後継者争いで日頃から不仲であった柴田方の異母弟・織田信孝を岐阜城に攻め、その降伏後に自害させた。
しかし、柴田勝家の死後、急速に力を持った羽柴秀吉と織田氏の後継者としての立場から対立する。そして秀吉と袂を分かち、徳川家康と同盟を結んだ。そして天正12年(1584年)3月、秀吉に通じたという理由で重臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時ら3人を殺害して、徳川家康に助けを求めたことから小牧・長久手の戦いが起きる。
織田・徳川連合軍は長久手の戦いで局地的に羽柴軍を破り、羽柴方の池田恒興や森長可らを討ち取った。しかし圧倒的な戦力を持つ秀吉相手に戦いは長引いた。そしてその間に秀吉の調略を受けた信雄は、11月11日に家康に無断で秀吉と単独講和してしまう。このため、信雄を擁して秀吉と対立していた家康には、秀吉と戦うだけの名分を失うこととなり、この戦いは終結した。
以後は秀吉に従い、佐々成政の越中征伐や九州征伐などに参加した。天正15年(1587年)の九州征伐の後、内大臣に叙任される。天正18年(1590年)1月、豊臣秀吉の養女になっていた長女小姫と徳川秀忠が結婚する。なお、当初は伊勢長島城を居城にしていたものの、天正13年(1585年)11月の地震で大破したため、尾張清洲城に移った。
[編集] 改易
力をつけてきた豊臣秀吉に「俺は天下人信長の息子だ。貴様のようなぞうり取りに構ってられるか!!」と言ったために領地を没収され、出家させられた。その後は秀吉のお話相手などを務めてわずかな領地をもらったが、関ヶ原の戦いでは石田三成にだまされて西軍についてしまう。そのためわずかな領地すら没収されてしまい、その日の食べ物にも困り従妹の淀度を頼って大坂城で寄食することになった。天下布武を唱えた織田信長の二男にしては可哀相な末路であった。信雄は「世が世なら今頃俺様は・・」を口癖に侍女に愚痴をこぼす毎日だったが、大坂の陣で豊臣家と徳川家が戦争することになると、豊臣家から総大将を任せたいという申し出があった。信雄は仰天したが、何のことはない。もしも豊臣軍が負けたら信雄に罪をかぶせて、秀頼と豊臣家を守るためのアリバイづくりである。信雄は大雨の夜の中を脱走して家康のもとへ逃げ込んだ。信雄は家康から領地を貰い、ちっぽけながら大名に戻れたのであった。
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[編集] 関連項目
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