織田信雄

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「此奴が織田家を衰退させたのじゃ!!許せん、切腹じゃ!!」
織田信雄 について、織田信長

織田 信雄(おだ のぶかつ、又は、のぶお、1558年 - 1630年)とは、バカである。

概要[編集]

織田信長濃姫の間に生まれた次男で織田信忠は同母兄だが、キリリと引き締まった兄貴とは似ても似かぬ、ブヨブヨ肥太った容姿であった。父の横死の直後に父の一世一代の作品である安土城を焼却したり、豊臣秀吉に幾度も機先を制せられ懐柔されるという醜態を晒し、数々の状況を弁えないマヌケな発言を発して部下達を辟易させ、また周囲からは失笑を買った。あまりに阿呆なので「戦国武将ではなく大道芸人なのではないか?」とまで言われている。実際、欲望を剥き出しにして散々足掻いた結果5万石と謂う僅かな知行の近世大名として終わっている。いずれにせよ、武将としては3流以下の評価が定着している。同じ様な境遇と辿った叔父の織田有楽斎とは莫逆の友でもあるが、彼方は世捨て人で此方は欲豚である。また、信雄の名は、「真(信)の雄(おす)」という意味を込めて名付けたらしいが、名前負けしてしまった。

織田信雄の生涯[編集]

爆誕[編集]

永禄元年(1558年)、織田信長の息子として生まれる。幼名は茶筅(ちゃせん)丸。生まれたばかりの信雄の頭部が茶筅(ちゃせん)に似ていたので、父信長にそう名付けられたのだが、その名の通り、茶道が信雄の生涯の趣味となった。そして信雄は生まれた直後、「俺は天下人になる」と言って真っ裸で城の外に出て、城下町の人々にションベンをぶっ掛けたり、嫁入り前の叔母・お市夜這いを仕掛けて処女を喪失させようとするなど不埒な素行が多かったため、一時は信長から捨てられそうになった。しかし、口が達者で周囲に媚を売るのが上手であったことや学問や武芸は苦手でもを舞うことが得意だったことで、イエスマンとはいえ仲間が増え、実は異母弟の織田信孝よりほんの遅れて生まれていたにも拘らず、次男にしてもらえた。

おツムの方はかなり残念である。それもその筈、CPU及びRAMの大半をダンス(能楽)用ROMに直結している為に、その他の事に関してはダンス用以外の、演算処理2bit、容量64kbで何とかするしかなかった。この為、周囲からは「能を舞うしか能がない」などとダジャレのような陰口を叩かれる始末であった。

伊賀攻め[編集]

しかし信長からは自分の息子として織田家を盛り立ててゆく資質を疑問視されていたようで、伊勢の剣豪大名・北畠具教の元に養子に送り込まれ、具教の娘の雪姫と結婚した。しかし信長からは「今から五年以内に北畠家を乗っ取れ。もし出来なかったらお前を勘当した上で放逐するかもしくは腹を切らせる」と、制限期間を設けた課題を出される事となった。自身の立場と命が懸かっている為、流石の信雄も血眼になってあらゆる手段を尽くす。まず剣豪として名高い具教の元へ、冬の早朝マラソンに誘うという触れ込みで、信雄の腹心・滝川雄利率いる織田軍が大挙して押しかけ、具教が寝ぼけていたところを襲撃した。それでも具教は抜刀して迎え撃とうとしたが、あらかじめ信雄に買収されていた具教の側近が、具教の刀を強力接着剤で鞘にくっつけていたため、具教は抜刀できなかった。それでも具教はいつも腰に差している脇差一本で、織田の兵19人を討ち取るという宮本武蔵レベルの獅子奮迅の活躍を見せたが、最後は力尽きて討ち取られてしまった。一方で、同日に信雄は北畠一族の大半を宴に招いており、信雄が合図の鐘を鳴らすと、密かに待機していた織田の兵が、招かれていた北畠一族に斬りかかって全員粛清した。こうして信雄は北畠家を完全に乗っ取った。「この鮮やかな御家乗っ取りで信長からはさぞや称賛されるだろう。ひょっとすれば兄織田信忠を出し抜き俺が嫡男になるのも夢じゃない」と小躍りしていた信雄だった。ただ信雄も養父の北畠一族をだまし討ちしたことに多少良心の呵責があったのか、具教の娘の雪姫とは、その後も離婚も別居もせずに夫婦生活を続け、後に息子の秀雄が生まれると自身の跡継ぎとした。

さて、これに気を良くしたのか、その2年後の天正7年(1579年)、信長に無断で伊賀に攻め込む。しかし忍者に落とし穴に落とされたり、早朝バズーカで起こされたり、挙句に大川栄作のようにくノ一 の色仕掛けにかかるなどの数々のドッキリに引っ掛かり大敗する。信雄はさすがにヤバいと思ったのか、突如「お前のせいだー!」と下山甲斐という伊賀から寝返った男に全ての罪をなすりつけてあっさりと殺すが、「お父さんを騙そうたってそうはいかないぞ、プン、プン!」と使い魔を使役して全てお見通しだった魔王様(親父)からこっ酷く叱られ勘当されかかり、『嫡男』になるどころかとんだ『災難』であった(・・・審議中)。

しかし天正9年(1581年)、親父に大軍を借りて再び伊賀に攻め込み忍術合戦の末、勝利する。無論、本人は何もしていない・・・ていうかスペック不足で出来ない。

本能寺の変[編集]

本能寺の変で父信長と兄信忠が京都で明智光秀に討ち取られた時には動転して、一番京都に近い伊勢にいながら、明智軍相手に何も戦えなかった。やがて秀吉が中国地方の戦線から駆け戻って、光秀を討ち取ったのだが、信雄は「親父も兄貴も死んだ、これで俺が天下人だ!」と狂喜し、トチ狂って安土城に放火し灰燼に帰してしまった。その後の清洲会議では自分が後継者になろうとするが、あまりの馬鹿ぶりに誰にも構って貰えず、秀吉にも媚を売ったにもかかわらず、秀吉の推薦でわずか3歳の甥・織田秀信に家督を奪われる。そのとき、甥だけに「オイ、オイ!」と言った・・・かどうかは定かではない。織田家の天下布武の象徴である安土城を焼き払ってしまったことで、天下人だった織田家が早々に弱小化したのはこのバカ次男のおかげである。

小牧・長久手の戦い[編集]

父信長の仇を討ったサル(羽柴秀吉)だが、今度は織田の天下を簒奪して自身が天下人になろうと野心を抱く。天正11年(1583年)、サルは信雄を「旗頭」として擁立し、柴田勝家と弟・織田信孝に勝利。秀吉に言われるがままに、弟の信孝を切腹させてしまった。何やっとるんや・・・

しかし秀吉が下剋上を企んでるなんて夢にも思わない信雄は、秀吉のことなんてな~んも気にせず、「信孝が死んで、事実上わしの天下だな」と鼻高々だったが、それはとんだ間違いであった。秀吉はあっさりと織田家家臣の仮面を脱ぎ捨て、燃え残っていた安土城二の丸まで壊し、諸大名に命じて大坂城を築き始め、独自の政治を始めた。そして、秀吉から「挨拶にこい」と言われて激怒し、父信長の弟分であったエロ狸・徳川家康と同盟を結んで秀吉に対抗する。天正12年(1584年)3月、秀吉に通じたという理由で重臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時ら3人を殺害して、徳川家康に助けを求めたことから小牧・長久手の戦いが起きる。

非情なことに、信雄が織田家の家臣たちに秀吉への抗戦を呼び掛けて応じたのは、越中の佐々成政ぐらいであった。それでも織田・徳川連合軍は長久手の戦いで局地的に羽柴軍を破り、父信長の腹心でありながら秀吉に味方していた池田恒興森長可らを討ち取った。しかし圧倒的な戦力を持つ秀吉相手に戦いは長引いた。そしてその間に秀吉の調略を受けた信雄は、ホイホイ騙されて11月11日に家康に無断で秀吉と単独講和してしまう。このため、信雄を擁して秀吉と対立していた家康には、秀吉と戦うだけの名分を失うこととなり、この戦いは終結した。この記事は嘘ばかり書いているが、この顛末に関しては全く嘘をついていないのだからタチが悪い。

以後は秀吉に従い、佐々成政を討伐する越中攻めに参戦した。佐々成政からみれば、信雄の呼びかけに応じて、秀吉に差し出していた人質の娘を見捨ててまで、秀吉相手に戦いを挑んだにもかかわらず、その信雄が秀吉軍に加わって、自分を征伐に来るというのだから、開いた口が塞がらなかっただろう。成政は秀吉に降伏したのだが、信雄も悪いと思ったのか、秀吉に成政の助命を求め、実現できた(ただ3年後に成政は別件で秀吉の命令で処刑された)。天正15年(1587年)の九州征伐の後、信雄は内大臣に叙任され、豊臣政権の大名で一番の高官で唯一の大臣となった。また信雄は伊勢長島城を居城にしていたものの、天正13年(1585年)11月の地震で大破したため、尾張清洲城に移った。

なお、この頃、信雄は荒木村重の息子の岩佐又兵衛を小姓として採用した。荒木村重は父信長に反逆した者で、信長に敗れて単身逃走したのだが、信長は村重に置いて行かれた妻子、一族家臣の妻子100人以上を捕えて処刑した。まだ2歳の乳幼児だった岩佐又兵衛は乳母に助けられて脱走したのだが、そんな岩佐をあえて小姓として採用した信雄の度量は興味深い。また信雄は千利休の弟子として茶道に専念していた荒木村重本人とも再会を果たし、茶壷をもらった。なお後に岩佐は画家として活躍することとなる。

改易と復活[編集]

やがて天下を統一した豊臣秀吉に、尾張から三河への国替えを命じられると、「俺は天下人信長の息子だ。貴様のようなぞうり取りに構ってられるか!!」と暴言を吐いて拒んだために領地を没収され、出家させられた。ただ、その後は秀吉のお情けで、お話相手という役目をもらい、わずかな領地をもらった。そして秀吉に命じられて、天皇の御前で舞っている。能自体は信雄の特技であったとはいえ、ついには父信長の草履取りだった者の命令で、能を舞わされる羽目になってしまった。

ところが、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは石田三成にだまされて西軍についてしまった。結果は石田三成は敗死し、勝者の徳川家康によって信雄はわずかな領地すら没収されてしまい、その日の食べ物にも困り従妹の淀殿を頼って大阪城で寄食することになった。天下布武を唱えた織田信長の次男にしては可哀相な末路であった。信雄は「世が世なら今頃俺様は・・」を口癖に侍女に愚痴をこぼす毎日だったが、大坂の陣で豊臣家と徳川家が戦争することになると、豊臣家から豊臣軍の総大将を任せたいという申し出があった。信雄は仰天したが、何のことはない。もしも豊臣軍が負けたら信雄に罪をかぶせて、秀頼と豊臣家を守るためのアリバイづくりである。そもそも信雄にそんな軍事的才覚があったら、父信長の死後に織田の天下を継承し、秀吉に天下を乗っ取られることもなかっただろう。信雄はいったんは「家康なんて父信長の前では小僧も同然!!恐れるに足らず!!」と大法螺を吹いて総大将を引き受ける返事をしながら、その夜、雨の中を脱走して家康のもとへ逃げ込んだ。信雄は家康から5万石の領地を貰い、ちっぽけながら大名に戻れたのであった。豊臣家の貴重な情報を家康に提供したスパイとしての功績で5万石をもらえたという指摘もあるが、貴重な情報といっても戦が始まる前に信雄は大阪城を逃げたので、信雄が家康に提供した情報だけで家康が勝てるわけでもなく、スパイは信雄以外にもいたわけで、スパイの功績だけで5万石は多すぎる。きっと老い先短い家康が、あの世で信長と再会する「恐怖」を考えて、信雄に5万石を与えたものと思われる。信雄は晩年は京都で趣味の茶道などに没頭し、73歳で亡くなった。

Nemurineko.jpg この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。
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関連項目[編集]

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