織田哲郎

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どう見てもマフィアのボスか不審者です。ありがとうございました。

織田 哲郎(おだ てつろう、1958年3月11日 - )は、日本の作曲家・音楽プロデューサー・シンガーソングライター。見た目は「マフィアのボス」「麻薬組織のドン」といった例えがよく似合う非常に怪しい風貌をしているものの、外見だけではとても想像が付かないが恥ずかしがり屋で繊細であり、ポップでメロディアスな曲を作る。

作曲家としては筒美京平小室哲哉に次ぎ日本で3番目に売れており、彼の作曲した曲に「世界中の誰よりきっと」(中山美穂WANDS)、「ボクの背中には羽根がある」(KinKi Kids)、「碧いうさぎ」(酒井法子)、「おどるポンポコリン」(B.B.クイーンズ)、「負けないで」「揺れる想い」「マイフレンド」(ZARD)、「このまま君だけを奪い去りたい」「翼を広げて」(DEEN)、「世界が終るまでは…」(WANDS)、「恋心」(相川七瀬)、突然(FIELD OF VIEW)その他多数のミリオンセラー(ヒット曲)・名曲を作り出してきており、とにかく挙げるとキリがない。

しかし、「TVに出ると自分の姿がみんなに知られてしまうから出たくない」というぐらいの恥ずかしがり屋であり、TV局から出演要請のオファーをほとんど断ってきてしまったため、実績のわりには自身の知名度は非常に低い。

容姿[編集]

その風貌は、例えるなら"マフィアのボス"。また、エラの張った顔で「エイみたいな顔の人」とも称される。若い頃から非常にシブい顔立ちをしており、悪いことをしてそうな外見をしているからか、単に道を歩いていただけで警官に職質されてしまうのが悩み。いかにも麻薬に手を出していそうな外見だが麻薬には手を出してはいない。一時期アル中状態だったことはあるが。また二丁目系でも無い。容姿のわりにおちゃめな性格で、ニコニコ動画の歌ってみたを熱心にチェックしているなど年の割にはネットもよくみている。

経歴[編集]

子供の頃は、親が転勤族(国鉄職員)であちこち転勤するため、学校で友達が出来てもすぐにお別れ(転校)という生活を送っており、東京神戸高松名古屋東京(2度目)、挙句の果てにはロンドンまで引っ越しさせられた。しかも日本語学校ではなく現地のイギリス人が通う中学に入れられ言葉の壁に悩んだと思ったら、わずか2年で今度は超田舎の高知に引っ越し。これでまともでいられるわけもなく、遂に気が狂ってしまい、思いつめて自殺まで図ろうと刃物まで持ち出したが、その時聴いたエルトン・ジョンのカセットテープに心を救われ自殺を思いとどまり、音楽に傾倒する。

音楽家になる前は、スナックで弾き語りや伴奏(※飲み屋でサラリーマンが自分の好きな曲を歌うのに合わせて、ギターを弾く仕事)のアルバイトで生計をつないでいた。まだカラオケが無かった頃ならではの仕事であったが、カラオケが登場・一気に普及してからはお役御免になってしまい、失業、ギタリストとしてバックバンドの仕事をするも大した金にならず路頭に迷ってたところ、スカウトされてミュージシャンになった。

1986年にTUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」(作曲・編曲)がヒットし、作曲家としてブレイクすると、前述のように「おどるポンポコリン」(B.B.クイーンズ)のヒットを皮切りに1990年代終わりまでミリオンセラーを連発。音楽事務所「ビーイング」のメイン作家として、中山美穂WANDS、ZARDやDEEN、WANDSやField of viewなどの作曲家として時代を築いた。自身の作曲したCDシングルの1993年の年間売り上げは1240万枚を超え、まさに「時代の寵児」と言うべき存在だったが、メディアへの露出を抑えたため、(同じく1995年以降に音楽界の「時代の寵児」と言うべき存在になった)小室哲哉のように、もてはやされることは無かった。

また相川七瀬をプロデューサーとして一から発掘、プロデュース・作詞・作曲・編曲を手掛けて大ヒットさせた(「夢見る少女じゃいられない」「恋心」などが代表曲)。

一時期は重度のアル中に陥ってしまった。相川七瀬のプロデュースが忙しすぎて疲れてしまったゆえの依存症であったが、ミュージシャンにありがちなヤク中でなかっただけマシであろう(見た目はクスリに手を出してそうだが)。何とか禁酒に成功し、アル中は断ち切った。2000年代に入るとさすがにペースは落ちてきたが、今もなおCMソングなどを手掛けている。

歌手として[編集]

シブい外見にふさわしく、声もまたシブくてイイ声をしており、歌唱力も高いため、作曲家としてだけでなくシンガーソングライターとしても活動している。

ただ、前述の恥ずかしがり屋の性格が災いしてか、せっかく全曲自分で作詞・作曲・編曲して歌手としてシングルやアルバムを発表しても、「もしこの作品が大ヒットしたら、どうしよう……(目立ってしまい、表に出なくてはいかなくなる)」という想いから、シングルやアルバムの宣伝をほぼ全く控えてしまうため、イイ曲を作っても歌手としての自身の曲が売れることはあまり無かった[1]

恥ずかしがり屋を克服しようと、1987年には「洋楽王国」というテレビの番組ホスト(司会進行)を1年務めてみたり、いいともにゲストで出たり、TUBEのメンバー達と「渚のオールスターズ」というユニットを組んでTVに出たりしたが、あまり克服できなかった。

織田本人的には、作曲家として自身の作った曲が大ヒットしたり作曲家として「織田哲郎」という名前自体が有名になることは全然大丈夫で、TV自体が嫌いというわけではないのに、どうしてか自身の姿や声が注目されたりTVに出るのは苦手なようである。

とはいえ、あまり(歌手としての)自分の曲がヒットしないのも悔しいので、1992年に一度だけ(自分が歌う用の楽曲に)渾身の力をこめて「いつまでも変わらぬ愛を」を作り(作詞・作曲・編曲)、タイアップもポカリスエットのCMをつけたところ、うっかり大ヒット、ミリオンセラーになってしまった。ただ、それによりTVや雑誌へたくさん露出するはめになったので、ついに自分がTVに出演するのがトラウマになってしまった。それ以降、作曲家としては活躍しても、TVには滅多に出演しなくなったうえ、歌手としてもあまり表だった活動はしなくなった(作家として他人への楽曲提供が忙しかったのもあるが)。今では少し気が変わり、ときどきは音楽番組に出演しているようである。他者に提供する曲はポップな曲が主だが、自身の歌う楽曲は「男臭い曲」が多い。例:[2][3]

音楽作家として[編集]

1990年頃までは楽曲提供する際は作曲・編曲をしていたが、1991年頃から事務所の方針もあって楽曲提供する際は編曲(アレンジ)は音楽事務所「ビーイング」の他の編曲家にまかせ、自分は作曲提供だけに専念した。本人的には編曲は大変で時間がかかり、作詞ならなおさらだが、作曲だけならスンナリあっという間に出来るらしい。1993年から96年頃にかけての一連のヒット曲はほとんどが作曲のみである。

ただし、その反動や、小室哲哉(※作曲・編曲だけでなく作詞やトータルプロデュースまで行う)のTRFでの成功などに触発されたこともあって、作曲以外にも色々やってみたくなり、一からアーティストをプロデュースしたくなった。その結果、プロデュースしたのが相川七瀬である。

ただし、自身も作家としてビーイングに所属するうえ、相川七瀬自体はビーイングの主催するオーディションで発掘したにもかかわらず、何を思ったのか相川七瀬をエイベックスでデビューさせた

相川七瀬の曲は作詞・作曲・編曲・トータルプロデュースまで全部織田がやり、ビーイングでやってるような「ポップな感じの曲」とは逆のダークな方向性の曲を作り、シングルのミリオンヒットやアルバムをダブルミリオンヒットさせたのはよかったものの、ビーイングの社長(長戸大幸)は快く思うはずもなく、他にも色々ビーイングに対して思うことはあったので、結局デビュー当初から一緒にやってきた社長とは仲違いし独立してしまった。また相川七瀬のプロデュースもあまりにやることが多すぎて疲れてしまった。(作曲だけならどんなに忙しくても平気だが、色々やることが多岐にわたっているとダメなようである。)

ビーイング独立・事務所移籍後も基本的には作曲に専念して楽曲提供しているが、やはりたまに作詞作曲編曲全てやりたくなる時もある。2004年には上戸彩「愛のために。」(作詞・作曲・編曲)を提供した。(※自分が自分で歌う用の楽曲は作詞作曲編曲全部やっている。)

エピソード[編集]

  • 見た目はいかにも怪しい胡散臭い雰囲気のため、前述の通り、単に交番の前を通り過ぎただけでお巡りさん職務質問されてしまっていた。ただし、最近は職務質問の頻度が極端に落ちてきている。というのも、今まではせいぜい「スリ」か「浮浪者」にしか見えなかったのが、加齢により風貌の怪しさにますます磨きがかかり、ついに右の画像のようにまるで「マフィアのボス」か「麻薬組織のドン」のような出で立ちになってしまったことに起因している。お巡りさんも単なる三下の犯罪者ならともかく、マフィアやヤクザみたいな「大物」など厄介すぎて、相手にしたくないだろう。
  • 道を歩いているだけで職質される理由を、本人は「歩いている時にキョロキョロしてるから」と自己分析しているみたいだが、どうみても見た目のせいです。ありがとうございました
  • そんな容姿だが、これでもパリコレには2回出ている(1994年と2000年)。確かにダンディというか妙な男臭さはあるが、パリコレはどこか玄人向けでマニアックなところがあるから、それで選ばれたのだろう。
  • 1983年、まだ金に困ってた頃、「TETSU」名義でアニメ装甲騎兵ボトムズOPとED主題歌を歌った。曲自体は既にアニメの制作側に用意されたもの(※織田本人が作ってないもの)であり、もし作家になってなくても、十分「歌手」としてだけで通用することがわかる。
  • ZARDのメイン作曲家だったが、坂井泉水とは顔を合わせたこともなかった。(当時の事務所の方針で)
  • 同じ1990年代に活躍した作曲家であるとして、小室哲哉と比較されることがある。余談だが、小室と織田は1996年2月に「TK MUSIC CLAMP」(HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMPの姉妹番組)[2]で対談している。
  • 1990年代は、自分の提供した曲(シングルCD)が10万枚売れても「なんだ…たったの10万枚しか売れなかったか…」と本気で悔しがっていた。
  • ふらふらと旅に行くのが好き(放浪ではない)。相川七瀬のアルバムが200万枚売れていた頃も、自分は一人、海の見える半島や山里深い所へ旅に出ていた。最近のお気に入りの放浪先は沖縄で、沖縄本島をうろついた後、沖縄のネット喫茶に入るのがお気に入り。

織田哲郎の娘[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「織田哲郎」の項目を執筆しています。

余談だが、織田哲郎には二人の娘がおり、そのうちの下の娘は歌手の織田かおりである。まあ嘘ですけど。


織田かおり
織田かおり



エラの張った顔
若かれし頃
若かれし頃2

織田かおりはFictionJunction・Sound Horizonなどのグループでボーカリストとして活躍している。

脚注[編集]

  1. ^ そんなことでは普通の歌手なら事務所クビとなるところだが、織田の場合は作曲家の仕事では十分金を稼いでいたため、「歌手」としては事務所からは放任されていた経緯がある。
  2. ^ インターネット上にその会話がアーカイブとして残っている。[1]

関連項目[編集]

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本項は第16回執筆コンテストに出品されました。