織田長益

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

織田 長益(おだ ながます 別名「織田有楽斎1547年~1621年)は織田信長の弟。茶聖と呼ばれ、日本における茶道を確立した千利休門下で茶人として名を上げ、最終的に利休七哲の一人として数えられることになる。現在ある東京有楽町の名前の元となったことでも有名である。もっとも、有楽町に住んでいた記録も有楽町に土地を拝領したという話も存在せず、さらに言うなら、この土地が昔「浦原」と呼ばれていたことから「有楽原」になったんじゃね?という説も存在している。

でも、まぁ、この記事では本人の数少ない逸話であることを配慮して、ほとんど上方から居を動かさなかったんだけれど、東京にある有楽町という地名の語源になった説を信じることにする。大人ですから。

目次

[編集] 生涯

[編集] 誕生

1547年、尾張の大名織田信秀の11番目の子供として生を受ける。幼名を源五郎。母親は不明。この時点で、家中でどう扱われていたかは推察しないこと。その後、1551年に父が死亡、直後に織田信長織田信行の兄弟間でお家騒動が勃発。いったん収束するも1557年に信長は弟を謀反の疑いで暗殺。というわけで、わずか10歳にしてこの世のものとは思えない兄弟げんかの真っ只中、源五郎も一時歴史から姿を消すことになる。

あってのものだねである。

[編集] ぼちぼち姿が見え始める

姉川の戦いの後、織田家が急速に覇者へと駆け上がっていく中、長益はまったくと言っていいほど目立つ存在ではなかった。これは、織田家が完璧に実力主義を行っていたため、ようはそれに見合う水準になかっただけの話である。初めて歴史に名を残すのは1581年。そう、アレの前年である。もっとも、30歳過ぎてなお信長の息子である織田信忠の軍の末席に名を連ねている程度の存在であり、信長の弟というステータス以外まったくといっていいほどなかった。ちなみに、この時代は信長の兄弟たちが次々と戦死していった時代であり、まあ、生き残っただけでもよしとするしかない。ちなみに11人いた兄弟のうち、この時代、4人戦死している。それ以前に1人戦死、1人誅殺、1人家臣が誤まって弓で射殺すなど、大変ろくなもんではない状況である。そのため、どんな家庭環境だったかは考えないほうがいい。

[編集] 歴史の表舞台へ

そして、兄弟のうち7番目の戦死者は、織田家当主であった信長本人だった。1582年6月2日に起こった本能寺の変において明智光秀の軍勢は信長のいる本能寺と、後継者である信忠のいる二条御所を襲撃。両人を敗死せしめる。その際、信忠直属でさら信長の弟だった長益は、戦場で死のうとした信忠を説得、腹を切らせたと言われている。そのくせ、本人は気が変わって二条御所を脱出。岐阜へ逃亡する。この行為について、多くの人間は「人間じゃねえ!」と彼を攻撃するも、本人はむしろこの変をきっかけに急速に存在感を増していく。

併せて、信長、長益の末の弟にあたる織田長利もこの変に巻き込まれて戦死している。生き残っている人間を探すのがそろそろ辛くなってくる。

もっとも、単純に明智軍に降伏しただけという説もあるにはある。

[編集] 小牧・長久手の戦い

生涯における最も危ない一瞬を切り抜けた長益は、逃亡した岐阜から今度は、伊勢を治めていた信長の次男である織田信雄の下に仕えることになる。単に逃げこんだという気もしなくはない。しかし、その直後に信長の跡目争いが本格化し、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が一歩抜け出すところに、いらんちょっかいを出してきたのが長益の仕えることになった次男。彼は東海一の弓取りと言われた徳川家康と反秀吉連合を結成し、秀吉と相対することになる。結果、1584年に秀吉の大軍団は小牧長久手の戦いで敗北。しかし、その後の戦闘で織田信雄の支配する伊勢が占領されると織田・徳川連合もまた講和を考えざるをえなくなってしまう。

そんな中、秀吉に顔が利き、なおかつ殺されても別にいいという最高な立場の人間がいた。

幸いなことに、これ以上の戦闘は秀吉も無意味と判断しており、織田・徳川連合と秀吉軍の戦いはほとんどなし崩し的に休戦することになり、間を取り持つことになった長益の名もまたなし崩し的に高まることになった。

ちなみに、小牧長久手の戦いでまた一人信長の弟が秀吉軍の捕虜になっていたりもする。あの兄弟は絶対に呪われている

[編集] 茶人として

小牧長久手の戦いの後、四国・九州征伐、そして小田原征伐を受けて戦国時代は終わりを迎えようとしており、世の中はまさに平和へまっしぐら。商工業を重視する秀吉の政策とも相まって京都や堺などの大商人どもと信長の配下連中が細々やっていた金持ちの道楽が一気に武家社会に広まっていく。そうした中、やけに頭の長い坊主と書いて栄西と読む室町時代の坊さんが中国から持ってきて、村田珠光というタマのヒカリと読めるなんとも卑猥なこれまた坊さんが創設したわび茶という遊びみたいなものがそうした武士の心を見事にキャッチ。一気に日本全国を巻き込みながら武家社会に浸透していくことになる。そんな中、一人、名前と血筋と悪名が大層有名だった長益は、武家と書いて脳筋と読むような連中と茶の湯の文化の間を嬉々としながら取り持っていくことになる。

なお、当時はまさに戦国時代さながらの死ななければそれでよしの世界であって、甥と弟を見捨てて生き延びただの、兄を見殺しにして逐電しただのいう話では、さほど問題にならない。そんなことを行ったら松永久秀はどうなる。そのため、武士道とは死ぬことと見つけたり、などという精神世界は、九州のド田舎で少人数を相手に語られていた話でしかない。でなけりゃ、御伽衆などという連中はどう考えたって全員腹をかっさばいてなんぼの存在である。

[編集] 千利休との出会い

戦国末期、茶の湯の文化は堺の豪商であった武野紹鴎から千利休他、細川藤孝やら三好義賢松永久秀、さらには将軍足利義輝にまで伝えられ、分かりやすく言うならてんでばらばら。各人各様で自分の好みを追求していった時代であったが、秀吉の登場と共に、そのまま秀吉の好みである茶の湯の形式がそのまま茶の湯の精神に乗っかって行くことになっていく。権力者万歳。その大波に乗っかったのが、堺の商人であった千利休。後に茶聖と称せられる彼の下で、それまでの茶の湯ではありえないほどの外国志向だの、わびさびだのなんだの、とにかく色々な要素をごった煮にして秀吉が気に入る形での茶の湯が出来上がっていく。そんな彼には権力志向の強い弟子たちがわんさかと集まり、公家やら商人といった文化人がまったく存在しない全員が武士階級出身の利休七哲と言われる連中の中に、長益もいた。権力志向万々歳

[編集] 秀吉配下として

1590年、秀吉によって織田信雄が改易されると、その配下であった長益はそのまま秀吉の御伽集として召抱えられることになる。その存在はむしろ茶人として高名なものになっていく。この頃剃髪し、織田長益から織田有楽斎へと名を変えている。ちなみに、剃髪前にはキリスト教の洗礼も受けていたりもする。なお、長益改め有楽斎の為した流派「有楽流」はウィキペディアにおいて、武野紹鴎を師として仰いだとの記述があるが、武野紹鴎が死んだのは1555年、有楽斎がまだガキの時分であることから、これはつまり、有楽斎の師である千利休のそのまた師であった紹鴎が為した茶の湯の形式を復活させたということである。きっと。その教えは、何よりも客の饗応を重んじたとあるように、秀吉の茶の湯が最終的に黄金の茶室まで行き着いたのとは別路線を歩んだようである。

もっとも、1594年から始まる朝鮮出兵から1598年醍醐の花見まで、秀吉の権勢も寿命も落ち目にあることを知っているならば、併せて、何かしらの美意識も働いたとするならば、とりあえず秀吉の絢爛豪華でドハデな茶の湯から離れるほうが得策であると感じてもおかしくはない。

[編集] 関が原の戦い

1600年に起こった関が原の戦いにおいて、有楽斎は息子とともに家康側に属する。

彼の真骨頂である

武人としては大した力量もないのに功を焦ったのか、蒲生頼郷だが横山喜内だか言う石田三成方の猛将相手に一騎打ちを申し込み、斬り付けられて落馬するという醜態をさらす。喜内だか頼郷だか言う正式な名前の判然としないその猛将は直後有楽斎配下の将兵に討ち取られたため有楽斎自身の武功と言う事になり、珍しく武功を挙げた事になる。戦後、有楽斎は猛将横山喜内だか蒲生頼郷だかを見事討ち取ってやったぞと嬉々として吹聴していたが、周りの東軍諸将には嘲笑され、白眼視されていたのは言うまでもない。もっとも、生き残っているだけマシ。なお、彼が見捨てた甥、信忠の息子、織田秀信は西軍に所属。敗北後に改易、高野山に追放。その後、行方知れずと、まぁ大変素晴らしい結末を迎えている。

あの一族には何かあるに違いない。

[編集] 江戸幕府成立

関が原の戦いの後、大和に3万石の所領を得た有楽斎は、しかし、今度は豊臣方に入り込もうとする。これは、豊臣方に彼の姪である淀君がいたことと、徳川、豊臣双方に顔が聞くという彼の立場が大きく物を言ったためである。併せて、彼の兄弟で数少ない生き残りである織田信包も大阪方についたこともある。

まぁ、当然ながら幕府のスパイ説もあったわけだが。

なお、この時代、彼は建仁寺の子院を再建しその中に茶室を設ける。有楽斎のクリスチャンネームから「如庵」と名づけられたと言われるそれは、現在国宝として愛知県犬山市に存在する。

[編集] 大阪の陣

1610年、彼の兄弟の数少ない生き残り、織田信照が死亡。仕えていた本田忠勝に殉死した結果だった。残り2名

そして1614年大阪冬の陣の直前、最後の生き残りであった織田信包大阪城で喀血して死亡。兄弟中、一番ぱっとしない有楽斎が唯一の生き残りとなる。しかし、そんな彼も冬の陣では活躍。淀君の叔父として大阪城内に一家言を持つ存在として家中を取りまとめる。

夏の陣の直前に城内から逃亡したけれど。

これは、家中において和平を推進したため肩身が狭かったためではないかといわれているが、まぁ、彼のことだから

[編集] その死

豊臣家の滅亡とともに、彼は隠居し京都にて茶の湯三昧の日々を送ることになる。しかし、彼の長男であった長孝は1606年に死亡、次男であった頼長が家を継ぐことになる。また、有楽流については頼長が継ぐことになるが、残念なことに有楽斎が存命中の1620年に死亡。そして、有楽斎も1621年に死去する。その際、まだ幼少であった頼長の子供、長好を後継者に任命していなかったため、家も改易されている。最終的に有楽斎の四男で、家康の小姓でもあった織田長政が有楽流を継承していくことになる。

[編集] 一応

織田有楽斎よりも長生きした織田家の人間は、一応、織田信雄がいる。併せて、織田信長の九男、織田信貞も彼より長生きしており、彼の子供である貞置は、その後、有楽流を継承することになる。

これしかいないことについて、深く考えてはいけない

[編集] 結論

この一族は呪われている。

[編集] 関連事項

Wikipedia
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