聖武天皇

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畏クモ天皇陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ
本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ
Naval Ensign of Japan.svg 大本營認可
本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ
全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル天皇陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ
此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル天皇陛下ヲ疑フト同義ニシテ
誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ政治犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス

聖武天皇(しょうむてんのう)とは、ケインズに1200年も先駆けた公共事業の偉大なる名君に御座います。

即位まで[編集]

聖武天皇は701年、文武天皇を父に、藤原不比等翁の娘を母に生誕なされた。幼名は首(おびと)。これは人をクビにする厳格さを持てという願いが込められたものである。その教えを受けて、王子様は父から文武両道の精神を、不比等から人民を平等に扱わない統治の美学を学ばれ、幼くして神童となられた。

7歳の時、首皇子は父を喪ったが、既に十分すぎるほどの統治の片鱗をのぞかせていた。しかし、皇子は礼儀正しく自分はまだ天皇には幼すぎるとこの年で天皇になることを拒み、祖母上に地位を譲られた。これが元明天皇だが、その治世に起きた平城京遷都および古事記日本書紀の完成は、すべて首皇子の発案によって始まった事象である。

元明天皇から譲位を打診されたこともあったが、親孝行な首皇子は「まだ俺の嫁ができていません」とこれを拒まれた。結婚して本格的に政治の現場に乗り出したのは、18歳の時である。藤原不比等翁は立派に育った息子をみて、即位が決まったら奸臣の長屋王を一端左大臣にしてから直ぐに追い落とすよう遺言して、息を引き取った。首皇子が即位して聖武天皇となられたのは、その4年後、24歳の時である。

遷都活動[編集]

民を思う心誰よりも深き聖武天皇が何より熱を注がれたのは、民衆経済の復興であった。折しも奈良の都では疫病と飢饉が蔓延し、民衆は経済不況に苦しんでいた。ヒロツグという名の偽メシアが革命を説く不穏な情勢の中、東方に広まるネストリウス派キリスト教の教えにも精通なされていた聖武天皇はこのような不況こそ天からの試練と受け止め、画期的公共事業政策を実行なされた。

それが度重なる遷都事業である。聖武天皇は民に仕事を与えるべく、難波に離宮を構えられた後、東国を巡業して多大な財貨を民の前に見せつけられ、その後恭仁京紫香楽の地に続々と遷都を重ねられ、最後に平城京に舞い戻って「住めば都」という言葉を民草に定着させられた。相次ぐ都建設事業による景気活性化効果は極めて大きく、日本の国旗が赤く染まるほどのものであった。

後世の歴史学者はこの遷都事業を「天皇になって始まった決して実現しない自分探しの旅」などと全く的外れな評価を下している。だが、これは整備に巨額の費用を要する都を「つくったら、すぐ放棄する」という世界初の画期的な公共事業政策だったのだ。これは、「穴を掘って埋めれば景気は一気にV字回復する」と説いた英国のケインズに1200年余り先行する画期的な神政策であった。日本は今でも公共事業が盛んな国であるが、その起源は奈良時代から存在したのである。もちろん、直ぐに成果の出る公共事業として、全国に国分寺国分尼寺を整備することも忘れなかった。

大仏建設[編集]

しかし、頑迷な大臣たちはこの論理を認めず、遷都をこれ以上しないよう求め、これからの標語は「混凝土から人へ」でなければならないと建議した。大臣の言うことに耳を傾ける度量大きい寛容なる聖武天皇は、この意見を取り入れ、新事業として大仏を建設することを発案し、黄金山という陸奥の山を神通力で出現させ、大多数の同意を得た。

これに対して左大臣の吉備真備は「黄金山から出る金を土木でなく福祉事業に振り向ければ、民衆の生活は劇的に改善します」と公共事業の重要性を認めない発言を行った。しかし、聖武天皇は「君の意見は余りにも知識人的すぎる。どうせだったらもう一回へ行って字を知らぬ民衆と触れ合ってきたらどうか?」と述べ、愛情深く平穏に唐へ送りだされた。

こうして異論を民主的に説得された聖武天皇は、建築責任者に行基を任命された。これは抵抗勢力の寺院が誰よりも人民に奉仕していた行基を攻撃して自分たちの利権を保持していたのを見透かした洞察力溢れる措置にあらせられる。行基はお家芸の人海戦術を駆使して一瞬の内に必要な人員を集め、これまでにない速度で大仏を創造された。ここに上からの強制動員があったという説は、すべて自虐史観の作り出した虚妄である。聖武天皇は経済効果を更に挙げるべく、紫香楽で一度造った大仏を一度ぽしゃらせるという小技も駆使された。

大仏の完成式典には唐からはるばる鑑真和上が駆けつけ、大仏の完成を祝福した。今でもこの大仏は全世界の全大仏に優越する仏として日本人の間に記憶されている。その完成を待っていたかのように、聖武天皇はその生涯を終えられた。民衆を上から救う公共事業は見事に成就したのであった。

総括[編集]

以上が聖武天皇の聖蹟である。全国民が習う小学校史観において、奈良時代の名声が全て聖武天皇の名声に帰せられるほど、聖武天皇は生涯にわたって偉大な業績を挙げ続けられた。いかに歴史学者が実像を歪曲しようと、聖武天皇が偉大なる聖君だったことを全否定できる輩は一人も存在しない。

だが、まだまだ不足している。聖武天皇が興した東大寺の名前を冠した東大の入試問題で、上に挙げた史実を記述すると、採点者たちは独自研究の名のもとで一切配点を行わない。これを史実を認めないで、何がニッポンの最高学府だろう。我らは聖武天皇の真実を伝えるべく、思想攻勢を強めねばならない。

関連項目[編集]