自虐史観

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自虐史観 について、歴史上の敗者

自虐史観(じぎゃくしかん)とは歴史上の出来事が全て「痛めつけられることによって性的快感を得る」事を目的としたマゾヒズムで起こったという学説、もしくはその学派の一派である。日本では国立五反田大学で提唱された比較的新しい学派であるが、海外では18世紀にマルキ・ド・サドによって提唱されて以来の比較的古典的な学派である。日本の学会では異端視されているが、歴史上の敗者の考えに視点を置くという点ではきわめて斬新な史観である。

近年、日本の歴史認識や外交などにおいて「自虐史観」という言葉が乱発されているが、これは誤用であり正確な使い方では無い。

自虐史観の考え方[編集]

自虐史観では歴史上の敗者は全て「負けるべくして負けた」「偶然負けた」のではなく、本人が負ける事によって性的な快感を得る為に行ったという観点である。この考え方では歴史上の敗者は全て重度のマゾであり、彼らの行動は全て最終的に痛めつけられるために行ったと考えられている。この考え方では歴史上の敗者たちは冷遇されようが、矢が刺さろうが、斬首されようが全て彼ら自身が望んだプレイの一環と考える事が特徴である。

この考え方では、キリストは磔にされて羞恥心を楽しむためにローマ帝国に捕まったとされ、項羽も項羽に斬られた虞美人もマゾであり、ジャンヌダルクは看守によるレイプ火刑を求めてイギリス軍に捕らえられ、マリー・アントワネットは衆人環視の中でギロチンにかけられる為にパンとお菓子で民衆を挑発し、ワーテルローで叩きのめされるためだけにナポレオンはエルバ島から帰ってきたのである。

自虐史観での日本史[編集]

もともとのところ、ええじゃないか精神が豊富な日本人において自虐的な性癖を持っていたという人物は少ない。日本において自虐が高貴な性癖としてもたらされたのは中国と本格的に付き合ってからだといわれるが、それ以前においても自虐的な人物は数こそ少ないものの存在する。日本史において自虐史観でもっとも最初に名前が挙がる人物が日本武尊と考えられ、父親と大和朝廷にいいように扱われるさまは原始的ながらも力強い自虐っぷりとして有名である。

その後朝廷が中国との付き合いを本格化するにつれて自虐的な目的で突っ走る人物はさらに数多く散見される。天皇にもなれず蘇我氏の手先となっていた聖徳太子はまさにそのジレンマを楽しんでいると考えられ、その蘇我入鹿大化の改新で天皇の御前(それも女帝の推古天皇)の前で滅茶苦茶にされるというマゾっぷりを示している。そして奈良時代以降、律令制が導入されるとこのマゾっぷりはさらに加速する。貧窮問答歌は山上憶良が「もしも俺があの苦しんでいる小汚い民衆どもだったら」という想像オナニーであり、文学史上の自虐史観である。

平安時代に入ると死刑がほぼなくなるため、究極のプレイ『斬首』が楽しめず自虐史観的には衰退していると考えられている。一方、その中で『中央政界からの左遷』と言う新たな自虐文化が振興し、梅の木に縛り付けられる事を日課としていた菅原道真などはこのプレイを大いに楽しんだといわれる。このように日本独自のマゾプレイ、大陸から来たダイナミックなマゾヒズムへのアンチテーゼとして起こされた文化を国風文化という。

武士の台頭に従い、日本の自虐文化は再度、ド派手でダイナミックなものへと方向性を変える。中でもこの時期、源氏と平氏のプレイによって日本の風紀は大いに乱れた(通称、源平合戦)とされる。この乱れは源氏家中の源義経源頼朝の近親相姦的な背徳感を兼ねたプレイにより収束する。この後の鎌倉時代のSM文化は武家好みの簡素でありながら躍動感あふれるものが多い。三浦泰村北条時輔(赤マフラー)のようにある日突然マゾヒズムに目覚め、幕府に滅ぼされるというような派手な行動が武家には好まれたようである。そして初の海外とのSMプレイが元寇であり、日本側も「てつはう攻め」や「毒矢プレイ」に苦しめられたが、最終的には元側の総員水攻めというスケールの違うマゾプレイに圧倒され、元側の勝利とされた。このため日本のマゾ文化はまだまだ大陸には遠く及ばないとされる。

鎌倉幕府滅亡はこの事に不満を持った鎌倉幕府が日本独自のマゾを開発する中で行われた事であり、その後を次いだ足利尊氏も九州追放プレイや「朝敵」という名の言葉攻めを楽しんでいる。そしてこの時期、SM界の巨頭といわれた後醍醐天皇も倒幕計画密告プレイや吉野追放放置プレイなど様々な攻め方(攻められ方)を開発した。

室町幕府の将軍とその妻日野富子によって行われたマゾヒスチックな性生活(応仁の乱)によって、日本は戦国時代に突入し、日本国中で「下克上」をはじめとしたより完成された武家のプレイが楽しまれるようになった。それまで畿内や幕府所在地を中心に行われていたSMプレイが全国に広がったという意味でこの意義は非常に大きい。日本史上最大のマゾヒストと言われる山中鹿介もこの時代の人物であり、また西洋との交易によって鉄砲とともにヨーロッパのSM文化が流入してきたという側面も重視される。自虐史観では織田信長に負けた連中は全員マゾであり、その信長も明智光秀に攻められて悶えるマゾであり、明智光秀も豊臣秀吉に三日天下攻めであえぐマゾである。この時代は徳川家康による淀殿豊臣秀頼への二度にわたる親子丼SMプレイによって終焉した。またこの時期は淀君以外にお市の方の北の庄絶望プレイや義姫の最上家伊達家による二穴攻め、駒姫の結婚&即斬首など日本での女性によるSM参加が始められた事も意義が高い。

江戸幕府はSMを禁止した事で、戦乱を収束させ、日本を支配したと考えられている。海外との交易を幕府が独占し、諸大名には争いを禁止する事で、権力争いというSMを幕府内でのみ行えるようにし、海外からの新しいSM文化を拒絶している。下克上をはじめとした戦国期的なSM文化は衰退したが、幕府内での陰険でネチネチしたプレイが流行した(忠臣蔵浅野長矩吉良義央、赤穂浪士によるSMプレイの応酬はその代表的なものである)。また諸大名もお家騒動という名のSMプレイを幕府に隠れてこっそり行っていた。一方、この時期の民衆は公的にはSMを禁止されていたため、心中という形でSMプレイを楽しんだり、あえて一揆打ち壊しを行う事によって幕府からムチを戴くという方法で楽しんでいたとされる。

幕末での幕府・長州その他入り乱れての京都でのSMプレイは、幕府のSMプレイ独占を崩すものであり、結果的に徳川慶喜は恥辱を楽しみながら大政奉還を行うことになった。ただ、倒幕派の人物でも西郷隆盛のようにマゾに目覚めて明治政府に反乱を起こしたりといった問題も頻発することになる。明治以降は日本独自のSM文化をさらに昇華させ、対外戦争によって自虐を楽しみ、その風潮は一億総火の玉でアメリカにシバかれるまで続く事になる。明治政府のSM的な意義として四民平等を推し進めたものがあり、これまで武士のものだけだったSMを民衆に広げるという面があった。明治政府はそれだけではなく、徴兵制や治安維持法で定期的に国民を調教するというサドなサービスを提供するにいたっている。この政府による国民へのムチのサービスは形態こそ変わっているものの、明治以降日本のSM文化の中心をなすものとして現在まで続けられている。

関連事項[編集]