舒明天皇

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舒明天皇
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基本資料
本名 田村 
通り名 マスオさん 
身体情報 胃潰瘍が持病 
職業 天皇 
好物 百済、仏教、平穏な生活、和歌 
嫌物 后とそのドラ息子たち 
出身地 日本 
出没場所 飛鳥 
所属 朝廷
親戚等

検閲により削除(父)、敏達天皇(祖父とされる)、斉明天皇(妻)、天智天皇(息子)、天武天皇(息子)蘇我馬子(義父)

「はは~ん、我がながら人を見る目はあるってことか。」
舒明天皇 について、用明天皇

舒明天皇(じょめいてんのう)は、飛鳥時代の大王である。父親が実在するかどうかよく分からない検閲により削除で、母親は、凄く長生きな糠手姫皇女である。皇子時の名は田村皇子(たむらのみこ)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。后には後の皇極天皇、息子には後の天智天皇と後の天武天皇がいる。推古天皇に自らの後継者としてヘッドハントをされた人でもある。聖徳太子没後にそれなりの実績を上げたのかも。亡くなった年齢がだいたい50歳くらいと言うところで、聖徳太子とか用明天皇とかあたりとほぼ同じ没年齢と言うところか。とは言えど、もし用明天皇が603年あたりまで生きていたら用明は一気に60代以上になるから比較対象としては必ずしも相応しいとは思われなくなるようだ。

即位の経緯[編集]

推古天皇が当時としては思いきり長生きした、というよりも、今一歩、長生きすることがかなわなかった聖徳太子の不徳のため、後継者候補の年代が一気に下がって30歳前後までになるという、王朝にとってあまりにも不意な出来事があった。
そんななかで、大王候補2人として、彼、田村皇子と聖徳太子の息子、山背大兄王が推古天皇に呼ばれ、「次、田村皇子、次の次、山背大兄」と指名されたと思われるはず......だったが、それにもかかわらず山背大兄王関係者が逆ギレして、さらにその空気に飲まれた山背大兄王が、「大王の位にすぐ就けない」という事実を不満に思うという内容の、いま考えてみればゼイタクかもしれない発言をおこない、その後、蘇我氏がはちゃめちゃになる一悶着が起きた、ということだけれど、さすがにこの事件に関するいきさつは割愛する。
そして、田村皇子が大王に即位することになったんだけれど、それを支える蘇我蝦夷父親と違って、必ずしも敏腕イケイケ政治家ではなかったので、まあ、田村皇子(舒明天皇)と普通に二人三脚、と言うことになったと言うことらしい。

蘇我蝦夷との上下付かぬ関係[編集]

まあ、さえない蘇我蝦夷とそれを読んでか、あまり出しゃばらなかった舒明天皇。結局は恩人たる蝦夷に配慮する場面が続いたという。そして、蝦夷も、舒明天皇の気持ちを理解して、舒明天皇の政策をほとんど変更せずに実施したと言われる。舒明天皇は他の家臣へも大臣・蘇我蝦夷と同様に気配りを欠かさず、それ故に、『飛鳥王朝のマスオさんと言われるようになってしまった。

マスオさん的立場で考えたときの家族の配置[編集]

舒明天皇(マスオさん)の后・妃を「サザエさん」と仮定してみる。

后側では、皇極天皇がサザエさんなら、その兄弟である孝徳天皇カツオ君と類推される。また、タラちゃんに当たる皇子が後の天智天皇や天武天皇と言うことになる。

一方、妃側では法提郎娘がサザエさんになり、カツオ君に当たるのが蘇我蝦夷。まあ、それなら意外と舒明天皇が一目置かれるところがあってもおかしくはないかもしれない、と言うのもあるかも。

とすると、波平さん蘇我馬子という、あまりにもベタな流れになるのも驚くべき事じゃないかもしれない、という事がかえって驚き。

で、タラちゃんに当たるのが古人大兄皇子、と言うことになり、ぶっちゃけ、タラちゃんがカツオ君を殺したり、挙げ句の果てにはタラちゃん自身を殺したりするという、また、カツオ君がカツオ君をはめて破滅に追いやるという非常に頭の痛いことが発生してしまうというシュールな世界が繰り広げられるので、これはここではあまり追求しないでおく。

なお、后版サザエさん・皇極天皇の母、吉備島皇祖母命(きびのしますめみおやのみこと)は、后版フネさんになることが判明している。

それなりに誇らしい功績[編集]

舒明天皇は、基本的には出しゃばらないと言われるマスオさんなので、歴史書に極端な分量で特筆される露骨なほどの目立った成果は上げなかったが、隋滅亡後に途絶えた遣隋使の代わりに、新たに建国された唐に向けて倭国(後の日本)初の遣唐使を実施したり、寺を造りそこで仏教大会を開くなど、大王としての威厳は平均以上には発揮できていた。
貢ぎ物を外国から受け取ったり、王朝に逆らったエゾを部下に見事に討たせたり、先述した遣唐使を通じて諸外国のいろいろな学問を部下に身につけさせることをするなど、国の統括者としての大王としてやるべきことはきちんと実行している。推古天皇の治世の後、聖徳太子が亡くなっている中でのこの健闘、なかなか誇らしい。もし、舒明天皇の熱烈なファンがいたら、遣唐使を行ったことについては大きく宣伝してもかまわなそうだ。
それに、史書通りならば、彼、舒明天皇は天智・天武両天皇の父親だ。それもアピール材料になりそうである。

かかあ天下[編集]

その一方で、舒明天皇はどうやら皇后相手では異常なまでのかかあ天下だったと言うことが、学会の定説になっている。
舒明天皇は、大王としての仕事の上でこそ、主体性がばんばん発揮できたのだが、家庭に戻ると、権勢欲の固まりである後の皇極(斉明)天皇。おとなしそうだがいきなり逆ギレして攻撃的になる中大兄皇子。四六時中、暴力的な大海人皇子......。そんな家族に囲まれて肩身が狭くなっていたことが想像がつく。
さらに、妻の兄弟の後の孝徳天皇は、信じられないほどの腹黒野郎で、この男が来るたび、舒明天皇としては命が狙われているようで生きた心地がしないときもあったと思われる。
そんな環境なので、もう一人の妃の方に行くが、その妃の息子、古人大兄皇子は男にもかかわらず、蘇我入鹿と恋仲で、舒明天皇にとってはやはり深刻な悩みの種であったことがうかがえる。寿命が縮むのも無理からぬ事である。
で、さらにもう一人の妃の所に行って癒やされる...が、元の所に戻るとストレスだらけの生活に戻る。
......なので、やはり、寿命が縮む思いはしていたようだ。

息子に弔辞を読んで貰える[編集]

舒明天皇は前述通り、641年に50歳前後という壮年で崩御した。そして盛大に大葬が行われ、その時、息子の中大兄皇子が父親への弔辞を読んだ。これについては史書に書かれている。もし、マスオさんが天寿を全うしたあと、タラちゃんはマスオさんの弔辞を読むのだろうか…

唯一、マスオさんではない気質[編集]

舒明天皇とマスオさんの唯一の目立った違いを示す和歌が万葉集に収録されている。

 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山
 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ
 海原は かもめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

壮大気宇な内容である。マスオさんにはさすがにそのような思考回路はないと思われる。 その一方で舒明天皇は、とても視力が良かったとこの和歌から推測されるのである。具体的にしめすとという、大和の国にはありえない、それ以外の国の地理的特徴まで詠んでしまったからだ。現在の大阪湾まで見通したら、推定視力500。もし紀伊半島方面の海だったら、推定視力650~800、若狭湾だとしたら推定視力1400前後になると思われる。もし、琵琶湖を海と間違えてみたとしても、推定視力は370前後になると思われるので、極めて視力が良かった、という事も推定できるのである。

さらに補足[編集]

どうやら、百人一首の裏バージョンにもこの人の和歌が収録されているようだ。
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かず寝ねにけらしも 〔万葉集〕
普段は鳴いているはずの鹿の鳴き声がしない、その鹿はもう寝てしまった、という内容の和歌である。
ただ、なーむくんがライバルのせんとくんたちを想起して小倉の山周辺にいる鹿を退治してしまった懸念もあるという話も伝わっている。
真相はどうやら不明だが、舒明天皇が鹿の様子に気が付くという、案外細やかな神経の持ち主であろうと言うことは想像できる。

関連項目[編集]

Wikipedia
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