芙蓉姫 (寇鴻安)

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ウィキペディアの専門家気取りたちも「芙蓉姫」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。


「劉備~!!こんな女子を~、カワイイのぉ。」
~ 芙蓉姫 について、曹孟徳
「うるさい! ハイハイ~! あんたはアーン♥♥ばかりなんだから!」
~ 曹操の発言 について、涼宮ハルヒ
「こんな、ワシも…若かった時が…ありました。」
~ 長生きしてたらきっと糞ババアの芙蓉だろうな について、劉玄徳
「親父ーーー植木等の「無責任人生」ぢゃねんだから、もっと母さんを大事にしろや!!!この放蕩親父が。」
~ 父劉備の発言 について、劉封
「わかったわかった!!!だから落ち着け…な?!」
~ 血気にはやる劉封 について、張飛
「劉備ィィ!!貴様は尚香だけでなく、芙蓉殿までも泣かせておったかぁ!!」
~ 芙蓉姫の扱い について、孫仲謀


玄徳さま~他のアーン♥♥したでしょ!!」と嫉妬しながら怒る芙蓉たん。

芙蓉 姫(ふよう ひめ 生年不詳 - 没年不詳)は、中国三国時代に在命していた女性である。彼女は正史の『三国志』には登場せず、吉川英治横山光輝の『三国志物語』のみに登場する人物とされる[1]劉備先妻劉封生母とされる。

目次

[編集] 人物・経歴

[編集] あらすじ

彼女は上谷郡の豪族の「寇恢」[2]の娘、姓は「寇」で、諱は「鴻安」…らしい。あの張飛は彼女の幼なじみでよく遊んでいた。やがて、涿郡にいる後漢の宗族(広義の皇族系)の劉備の許嫁者となったらしい。しかし、劉備は遊び好きでプレイボーイだったので、なかなか結婚できなかったらしい。

[編集] 劉備に翻弄された人生?

「可愛い私の子…」と微笑む芙蓉たん。

184年に劉備は黄巾党の乱に対抗すべく、旧知の中山国の富豪・張世平らの軍資金によって、いとこの劉徳然と関羽らととも挙兵した。しかし、ライバルの曹操と比較して目立った功績はなく、師匠の盧植宦官の左豊に対して「キショい!!女男はキエロ!!」暴言したため、喧嘩となり、讒言のため更迭された。残された劉備らは左豊から「田舎モンはさっさと帰りなさい」と言われて“プッツン”と来て「なめんなや!!このオカマ野郎がああ!!」と叫んで、左豊をボコボコにして郷里に戻った。

やがて傷心の劉備は、いきなり芙蓉姫に向かって「芙蓉たん。俺と結婚しよう!!!」といっていきなり結婚したのである。程なく劉備は朝廷から中山国安喜県の尉(警察副署長クラス)赴任の沙汰があった。当然ラブラブだった劉備夫妻は一緒に赴任した…らしい。

しかし、これこそあの左豊のワナだったのである「盧植も劉備とやらも、私に楯突くムカつく師弟だわね。この際は痛い目にあわせないと」と言い、腹心の督郵(名ではなく州郡の監察官)を中山国に派遣した。督郵が安喜県に到着すると、たまたま芙蓉姫を見て「ねーちゃん、俺の妾になんねえ~」と迫った。当然彼女は嫌がったが、督郵はわざと彼女の頬の「チュー」したのである。

これを見た劉備は怒涛の如くに激怒し「モルアアアアアアアアーーーーーー!!!!!俺の女房にナニしやがる。てめっ!!!生かして帰さねえぞ!!!!!」と拳を「ボキッベキッ!!」と鳴らして、北斗神拳もどきの「玄徳炸裂拳」がうなりながら「ほぉあたたたたたたたたたたたたーーーー!!!!!」と督郵をボコボコにしたのである。しかし督郵は切り札を出し「ワシは左豊さまの腹心なるぞ!!!このことを左豊さまに直訴し、盧植ともどもに飼い殺しにしてやるぞーーー」と叫んだ。これを聞いた劉備は「なんじゃい!!こんな官職なんぞ未練はないわい。ほらよ、印綬は返すぜ」と言って印鑑を投げた。劉備は督郵の脳天を目掛けてK1なみに蹴り、「芙蓉、ここからおさらばしょうぜ!!!」と言って、一家揃って退散し、上谷郡にいる舅の寇恢を頼ったのである。

やがて、劉備らは上谷郡に隣接する代郡にある五台山付近で夫婦そろって、仲良く暮らしたのである。やがてしばらくしてふたりの間に劉封が誕生し、幸せに暮らしたという。しかし、このころ芙蓉姫は病に罹っていて、床に伏してたのである。劉備はそんな妻の心情を理解してないのか、先輩の公孫瓉と一緒になって近郊の女のコに「ねーちゃん。俺と遊ばない」ナンパししまくって謳歌してたのである。

これを聞いた芙蓉姫は怒りのあまりに父の寇恢に夫の行為を愚痴ったという。ある日、劉備は岳父の寇恢に呼び出されて「もう娘の余命はない、玄徳どの、あんたはもう子供がいるし、そろそろ身を固めたほうがいい」と諭された。すると劉備は「すんません…おいらは元来女たらしでさあ…お義父上や妻に悪いことしました。」と言った。やがて、芙蓉姫の容態が急変し劉備は駆けつけて「すまねぇ…芙蓉、こんな女たらしの旦那を持っちまってなあ…」と詫びながら言った。すると彼女は「私はわが子の封が心配です。あなたは大事に育てられますか?」と訊いた。劉備は「あぁ…心配すんな。封は俺が責任もって育てるからさ。」と答えた。これを聞いた彼女は安堵し間もなく亡くなったという。おそらく187年ころと思われる。

まもなく、劉備は兄弟子の公孫瓉を頼るため、身を固めて官職を得るために芙蓉の遺児・劉封を岳父に預けたらしい。やがて193年に曹操が亡父の曹嵩の仇討ちのため徐州の陶謙を討伐し、大虐殺を行った時に、公孫瓉は陶謙の援軍要請で青州刺史・田楷を派遣した。その副将に平原国の相(太守補佐)の劉備が田楷を補佐して徐州に進撃した。しかし、曹操は参謀の陳宮が曹操の親友の張邈と組んで、呂布を迎えて反乱をおこしたため撤退した。

劉備は陶謙らに迎えられ、上司の田楷と話し合って駐屯し、田楷は引き揚げた。翌年に陶謙がを喉に詰まらせて亡くなると、劉備は周囲の勧めで臨時的に徐州刺史となった。やがて上谷郡から劉封ら家族を呼び寄せて、一緒に暮らしたという。


また、別の説では彼女はそのまま在命し、夫の劉備が徐州刺史の時に、呂布に敗れて妻子を放置して逃げた時に、子の劉封とともに呂布の捕虜にされるも、紳士の呂布に大事に扱われたという。まもなく劉備にもとに返還されると、劉備から「おめぇ…まさか、呂布と禁則事項ですしたんじゃねぇだろうなあ?!」と疑われて、そのため徐々に夫婦の仲の溝が深まったという。

やがて、劉備が豫州牧となった時に、新参の劉琰が劉備の心情を察して「わが君はまだお若いのです。別の女性を伴侶として、新たにお子を儲ければよろしいではありませんか?」と囁かされた。この言葉で意を決した劉備は関羽を召しだして、何かの秘策を授けた。

まもなく、関羽は芙蓉姫の寝所に赴き突如、を抜き出し「わが君の厳命で、貴女には死んでいただく!!」とおそろしい鬼の形相で言い出し、剣を振りかざし、彼女の寝所は鮮やかな紅血で染まったという[3]

[編集] 余談

そのため、芙蓉の子・劉封は母の仇とする関羽と折り合いが悪く、また父劉備とも微妙な関係のためにこれが後年の劉封の破滅につながったらしい…(劉封の項を参照にしてください)。また、劉琰の最期(234年)に関しては、エロジジイにありがちな女絡みで、激怒した劉禅によって刑死したのである。これは、芙蓉姫の怨霊の祟りだったともいわれる。

まさに、運命に翻弄された美女薄命の芙蓉たんの悲劇的な生涯であった……お察し下さい。

[編集] 芙蓉姫からのお願い

もっともっとわが子の封を労わってください!!
(母の叫び)

[編集] まめちしき

  1. 吉川英治が創作したとされる鴻氏の娘・芙蓉姫。清末~中華民国初の学者・盧弼の『三国志集解』注の『三国志集解補』の著者・林国賛(盧弼の先輩)は、「劉封は劉備の「実子」で、その母は『後漢書』「寇恂伝」に記してある後漢の雲台二十八将のひとり寇恂(雍奴威侯)の末裔ではないか?」と述べている(ただし盧弼は「それは厨房電波に過ぎない!」と先輩の林国賛をハナっからバカ扱いしている)。その根拠は、寇恂は劉備の郷里の涿郡からやや西北にある上谷郡出身であると記されている。また、当時の「寇」と「鴻」は同音だったとされる。さらに、彼女は久保田千太郎園田光慶の『三国志』にも登場し、芙蓉に手を出した督郵を劉備が斬る設定となっているが、フィクションである。
  2. 羅貫中(羅本)の『三国志演義』では代州(代郡)の富豪の劉恢。後に劉備を幽州牧劉虞光武帝の長男・東海恭王劉彊の末裔)に推挙する設定となっている。
  3. これが、『三国志演義』に記されてある、沛の猟師の劉安の逸話の因となった。…豫州牧だった劉備が呂布に惨敗し、劉安の家に厄介になった。接待した劉安が自分の妻を殺害し、それを「人肉料理」として劉備のご馳走としてを差し出した。事情を知った劉備は驚愕しその報酬として、劉安の子・劉封を養子にした…という、信憑性の怪しい美談を参考とした真実の出来事…らしい。

[編集] 関連項目


Roman Saotome03.gif この項目「芙蓉姫」は、ゼブラの丸ペンAのような加筆が必要なのだ☆たはは
え?誰に向けて喋ってんのかって? ナーンセンス! 細かい事は気にしないのだ☆ (Portal:スタブ)