萌え漫画の軛

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萌え漫画の軛(もえまんがのくびき)とは、2000年代以降、日本の漫画業界がはまった巨大な落とし穴についての簡単な報告である。

この記事では、一匹の動物に右往左往する読者について語ったこの記事と同じく、萌え漫画が陥っているどうしようもない運命、さらに言えば、2011年現在、すでに片足が突っ込んでいて身動きが取れなくなっている泥沼について、皮肉に皮肉を重ねて、さらに皮肉の粉をまぶして皮肉の油でカラっと揚げたように説明する。

別に萌え漫画の運命とか萌え漫画の泥沼とかいう名前でもいいのだけれど、ネコ漫画で一度やった方式を再度持ってくるためにわざわざ「軛」などというメンドクサイ漢字を使用する。平たく言えば嫌がらせである。

概要[編集]

日本の漫画業界において、2000年代以降急激に勢力を伸ばし、ある意味業界を席巻したと言っても過言ではない、少女を中心とした漫画、いわゆる萌え漫画。この漫画が流行りに流行った背景については、いたってどうしようもない、ごくごく当たり前の背景が存在する。

エロは強し

本当に、どうしようもない。しかしながら、強いばかりがエロではなく、かわいいばかりが漫画でもない。まったくない。そのため、この記事では一般的な萌え漫画が腰まではまっている落とし穴、首まで浸かった血の池地獄、もしくは煉獄についてをサスマタ持って鍋の中で苦しむ亡者どもを突っついている悪魔の気分でもって適当に語る。

本気で語ると同じナントカのムジナになる。

なお、前述した名言である「エロは強し」には、どうしようもない下の句が存在する。もちろん、上の句が適当な言葉である以上、下の句も適当である。知ったこっちゃない。

エロは強し・・・されど儚し

萌え漫画の宿命[編集]

かわいければOK。これは、2011年現在もはや宗教と化している萌え漫画の宿命にして、全ての行動原理の根本を為す思想である。ちなみに、思想という言葉を変換しようとしたところ、死沿うなどとという物騒な言葉が出てきた。あまりのも素晴らしすぎる変換能力に書き手として本当に賞賛を送りたい。

なお、かわいければ、美しければ、きれいならばOKとかいう考えは「面白ければOK」が行動原理である漫画教の分派である以上、その派生から発展、進化までが丸分かりになるため、まったく問題ではない。むしろ、ありがたい。すなわち、日本の出版業界における強烈な表現に関する歯止めの利かなさっぷりが、いかに突出したものであり、なおかつ、そのモラルの破綻っぷりがいかにとんでもないものかは、もはや語るレベルですらない同人業界という名のカオスを出すまでもなく、日本の漫画業界の隆盛を追っていけば誰にでも分かるようにできている。

まぁ、そう書いてもほとんどの人間は追わないことは知っている。気にしない

しかし、このような自らの派生について、萌え漫画真理教では往々にして事実を秘匿する傾向がある。まるで自分達は自然発生したかのごとくに、元々かわいければ面白さなんていらない、美しければそれが表現、エロけりゃなんだっていいなどといったその思想を、まるで己が原罪のごとくに身にまとっている。

これは、どこぞの創価学会が、分派した後に元の宗派を全否定する様に酷似している。

1980年代、ロリコンの汚名をかぶりながら、連続幼女殺人鬼宮崎勤と比較されながらその道を切り開いてきた先人を思うと、まさに隔世の感がある。ちなみに、1980年代というのが、女子高生が活躍するだけでロリコン扱いされ、かわいい少女を書けば少女マンガに分類され、それらを収拾するだけで変態扱いされていた時代だったりもする。そこから、偏見を乗り越えていった先駆者を褒め称えるべきか、それとも、そこに強烈な金の成る木が存在したことを喝破した出版社を褒めるべきか、それは誰にも分からない。

しかし、30年を経た2011年現在、その道を切り開いてきた人々の努力と積み重ねの結果、前代未聞ともいえる形式の漫画が世界に提供されることになる。

その前代未聞とはすなわち、かわいいを求める読者に全部お任せ。何が面白いかどうかではなく、、何がかわいいか。美しいか、興味があるか、漫画にしてみたいか、その他もろもろの判断を、出版社ではなく全て読者が判断するという、それまでの作者が主、読者が従の関係をまるで逆にした、読者が読みたいものを作者が提供する。そんな関係の漫画が2000年代に生まれることになる。

これは、漫画教の行動原理以前に存在する、商売教の行動原理が「売れればOK」である以上、そっちの方が正しいことは確実である以上、ある意味、当たり前の話である。しかし、その当たり前を突き進んでいけば、戦争は勃発ポルノは氾濫詐欺が横行し、奴隷を生み出し、そねみにねたみにやっかみに、人間の隠れた欲望がマグマのごとく吹き出すのがいつもの話である。

幸いなことに、かわいい原理主義の根本にある面白さ万能主義というものには、日本人の気質と言える「空気読め、バカたれ」という最強のモラルが存在しており、同じような絵柄、同じようなストーリーを氾濫させても、平気で人を傷つける表現を避ける不文律が存在した。そのため、萌え漫画は氾濫しても、ぎりぎり日本人のモラルという堤防が決壊することはなく、結果、ある意味日本でしかありえない萌え漫画産業が発展していくことになる。

しかし・・・

作者[編集]

萌え漫画産業の発展。それは、漫画の作者と呼ばれるそれまでの神様が、まるで奴隷のごとく絵のみ描く存在に成り果てる結果につながる。まぁ、それだけ取捨選択の幅が広がったといえば聞こえはいいけれど、やってることはろくでなしの類とさほど変わりはない。結局、同じような作品を書いて読者と呼ばれる金持ちモンスターに定期的にエサを投げ与えつつ好みに合わなくなったらポイ捨てという、見るも無残な光景が、萌え漫画を扱う雑誌に散見されるようになる。

もっとも、書きたいものが書け、それに読者がついてくるレベルの強者はその範疇にはない。

しかし、書きたいものを書いてもまるで売れない連中はそうはならない。そんな彼らは売れ筋であるかわいいを主軸とした作品を、売れるからという理由でのみ描くこととなり、そして、それが売れ続けるという、表現者としての悪循環の中をさまよい続けることになる。けれど、それで売れている、ファンを獲得している以上、悪くはない。悪くはないのだけれど、本来表現というものの根幹にある作者のセンスというものが売れなくなっていくんだからシャレにならない

けれども、それは実は古今東西の大漫画家と言える存在のほとんどがくぐってきた道だったりもする。それを乗り越えたからこそ、彼らは素晴らしいといえるのだけれど、かといって、萌え漫画というジャンルの中、代わり映えしないという血の池地獄にうずもれていく幾多の作品群を見るにつけ、苦労せずに獲得しやすいファンとは、まさに悪魔だとしか思えない。

まぁ、そんなことを言うのなら、汗をかかずに獲得するお金は魔王になるわけだけれど。

落とし穴[編集]

血の池地獄のほかに、同じような作品群がはまる落とし穴について説明すると、古今東西、表現と呼ばれるものには一般的に批評と呼ばれる別の表現がついてまわる。

褒めようがけなそうが、その日の気分と書き手の才能によってうんぬんかんぬんどーたらこーたらと、一つの表現である、絵画音楽小説についてを評者のセンスという色眼鏡を通して語る作業は、時代を通して敷居の高い表現をなるべく多くの対象へと広める役割を担っていた。子供にも分かるような説明や、作者の隠れたセンスやちょっとした遊び心をもらさずにチェック、さらには伝え手に対し、作品に触れることすら時間の無駄とばっさりと切り捨てたりと、作者と読者の主従関係の中に、第三者として存在もしくは介在することで、その必然性を強めていた歴史が存在する。

しかしながら、萌え漫画の批評というものは、これがまた実に難しい。そもそも、描かれている対象であるかわいい少女について、けなしたりくさしたり、バカにしまくったところで、読み手の意識は批評する側を無視するだけであり、そもそも、高尚なものですらない。センスや遊び心を感じさせる作品を探そうにも、むしろ、作者の抑圧された心境や、作品に対する愛を通り越した憎しみ、「完全に月経だろこれ」としか思えない内容の乱れといった、深く読み込めば読み込むほど頭が痛くなるような一定のレベルを維持できない作品群を前に、いっぱしの評者ぶっている長年の漫画愛好家は、ただただため息をつくばかりである。

まぁ、そこらへんは出版社による。もしくは、出版社でなくて、編集部による。

さらに言えば、そんな読み手の批評が作者に届くかどうかというと、前述したとおり、もはや主従関係の主の部分が読者側にある場合がほとんどである以上、作者にそもそも作品を動かす権限があるかどうかすら疑問である。そのため、よくある話として、ある萌え漫画の読者を丸ごと批評し、丸ごと批判、そして丸ごと無視されるような小さな批評家達がネットの世界でよく散見される。ゴマメの歯軋りという言葉を思い描くのに、調度いい題材である。

この文章についてもまさにそうである

そんなゴマメはえてして集団からはじき出された個にすぎず、歯軋りしたところで甘辛く煮付けられる運命は変わりないのだけれど、世の中は実に面白く出来ているもので、多くの萌え漫画が陥る落とし穴として、主である読者側が真っ二つに分かれるバトルが始まると、作者も編集部も右往左往。ネットで信者のみ宗教戦争を始めて他はスルーという、ある意味本当にどうしようもない光景が存在する。

そんなときほど、ゴマメであることが面白いときはない。

実際、どこぞの神様が出てくる漫画なぞ、神様が処女かどうかなどという、いたって他愛も無い話が紛糾したと思ったら、いきなり長期休載。ゴマメ&どうでもいい人間としたら、読者も作者も編集部もひっくるめてアホにしか見えなかったなんて話もある。ちなみに、それ以上に悲惨なカムイ伝などという話も存在する。読者が雑誌の投稿欄に「カムイ伝は死んだ」などという妄想じみた感想を送りつけたら、20年休載した。もっとも、こちらは作者が読者を引きずり回した側面も強い。

このように、読み手が主導権を握った作品というものほど、えてして計画通りに動かせなくなっていく。作者が思い描いたラストシーンなんてものはまるで無視、有終の美なんてものは箸にも棒にもかからない存在と化し、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも同じ作品による同じキャラと同じ仲間達という名のエサを読者というモンスターに貢ぐ作業が繰り返される。で、ある日、そんなモンスターが気づくんだなあ。

あれ、こっちのエサよりも向こうのエサのほうがおいしいんじゃないか

・・・そりゃ、なんの悪夢だよ。結局、現在知られている大漫画家たちは、モンスターに振り回されないレベルにまで成り上がったか、もしくはモンスターを振り回すほど強烈な自我を持ったかの2つに分けられる。後者は、それこそ、10人にも満たない気がしなくもない。

タレギダ[編集]

煉獄については、実際にあった話で説明する。実は、そんな萌え漫画の行く末を示すような話が明治中期から大正にかけて存在する。若い女性への熱狂という点においてもまったく同じ。むしろ、こっちのほうがすごい。それが、女義太夫、別名「タレギダ」と呼ばれた芸能である。ウィキペディアによると女義とも略すそうだけれど、ここはあえて蔑称であるタレギダで通す。

ちなみに、どれぐらいの熱狂的な話が存在するかと言うと、演じている最中に、自分がいかに演者を愛しているかを示すため、小指が飛んできたこともあったそうです。斬り落としたばかりの

日本全国で覇を唱えたタレギダの大きな特徴は、義太夫節と呼ばれる勇壮な歌舞伎の節回しを、可憐な少女やきれいな女性、さらにはかわいい女の子が一生懸命になって演じるという、一種のアンバランスな美が全面的に押し出された芸が、男共に受けたためである。そんな彼らはドウスル連と呼ばれ、一般人からはバカにされる対象になっていた。けれど、そんな彼らはまったく気にすることなく、寄席や演芸場に通い続けた。

お分かりですか?そう、彼らこそ100年前のオタクですよ。

そんなタレギダが廃れていくきっかけとなったのは、ウィキペディアによると関東大震災。より詳しい内情で言うと、震災復興のために東京に流れ込んだ田舎者ども。彼らにとって、義太夫なんていう高尚な文化はさっぱり分からない存在であり、逆にタレギダに押されまくっていた苦しんでいた落語や歌舞伎、演劇連中にとっては、まさに起死回生、まさに天から使わされた救いの使者だった。実際、田舎者に受ける演目を重点的に取り入れることで、それらの演芸は一気に昔年の反映を取り戻す。しかし、残念なことに新作という入り口が無かったタレギダには、そういった新しい客を掻っ攫うだけの力もなかった。なお悪いことに、新作を許すような固定客ですらなかった。その結果、落語や歌舞伎、新国劇といった男が主体の演芸が一気にタレギダを過去のものに押しやることに成功する。

けれど、そこからなぜ復権しなかったかについては、タレギダ自体に根本的な原因がある。

なお、東京を席巻したタレギダといえど、その前身は女芸人の顔と声を売る細々とした芸でしかなかった。しかし、明治中期以降、ひとたび美貌と美声を持つ芸人が登場、時代の潮流に乗ることで、一気にそれまでの既存の芸能を過去のものにしていく。それまで女の芸人は表立った舞台に大量に上がることは少なかった中、美貌と美声と若さにあふれるタレギダの破壊力がいかほどであったかについては、推して知るべし。彼女らの存在は、当時、書生と呼ばれた若者の知識人の性欲を一手に引き受けることになる。それぐらい、若者、しかも男の情熱というものは根が深い。

しかし、そんな彼らの存在こそが、タレギダの命を縮めるきっかけとなるんだから、世の中は皮肉である。

そんなタレギダだったけれど、大震災がきっかけとはいえ隆盛から40年後に廃れるきっかけとなったのは、既存のファンの存在によるものである。すなわち、新規ファンを獲得する間口が、ほぼ都会在住の学生連中という狭さに加え、実力ある若手の登用よりも、もっとも実力のある存在の神格化を優先。中堅の存在が薄かったこと。あわせて、かわいければ客が来るという話が先鋭化した結果、6~7歳の幼女までもが舞台に上げるという青田買いどころの騒ぎではない、芸の質の低下。なにより、そんな芸すら許容するファンの質の低下。あわせて、大正デモクラシーと言われる技術革新がもたらした様々な新ジャンルの芸能活動、映画レコード大学生野球の勃興などなど

これらのことが合わさった結果、タレギダは完全に時代の潮流から外れる。さらに、そのことをまるで気にしない客層がいつまでも彼女たちを支え続けたことが致命的となる。

これらの話を突き詰めていくと、ある意味、心底恐ろしいと感ぜざるをえないような話に到達する。

90[編集]

いつまでも支え続ける。この話を極限まで行き着かせると、こんな話が出来上がる。

1898年、明治31年に女義太夫として初舞台を踏んだ横田ヨシエちゃん7歳。彼女は9歳のときに豊竹団司として関西圏で本格的に活動を始めます。

・・・98歳で死ぬまで

何かの神話でもホラ話でもなく、明治大正昭和を通り越し、平成にまで及ぶ話である。思いっきり実話である。ちなみに、1989年に亡くなった彼女の芸暦は90年に及んでいる。世界で最も長い芸能活動としてギネスブックにも掲載され、重要無形文化財保持者、別名人間国宝として称えられた彼女には、その実力はもちろんのこと、彼女を長年支え続けたファンがいた。

・・・60年、70年レベルで。

このように、かわいい、美しい、きれいを追いかけ続けると、結局、神格化へ落ち着き、そしてもはや誰も寄せ付けないレベルでの支持が得られる。そして、もはや誰も寄せ付けられなくなった結果、本当に誰もいなくなる。本人も死ぬ。ファンも死ぬ。記憶するものも死に、残そうとする人間もまた死ぬ。

・・・そんな信者の後をついていきたいと思えるかどうかは、各人のお任せとしたい。

もちろん、現在も女義太夫という芸能は存続している。けれど、神格化を徹底的に嫌った落語歌舞伎と比べうることも出来ないのは、そこに残したくない何かがあったからに他ならない。

伝え手[編集]

世の中、伝統芸能が後世に伝わるのは、後世に芸能が伝わる土壌が出来ているためである。芸の話については、簡単に伝えることができる。着こなし姿勢といった、目に見えなくても言葉で伝えることができるその場の空気というものが、いかに後世の連中に憧憬や夢想を与えたかについては、想像にお任せする。

ところが、残念なことに、かわいらしさ、きれいといったものは、時代とともに移り変わるものであるため、10年たてば皆ババアレベルで手ひどい取捨選択がいつの時代でも行われている。しかしながら、よき伝え手に恵まれる、もしくは根性のひんまがった伝え手がわざわざ苦労に苦労をかけて次代に残すことで、多くの女性が年老いてもなお、ファンに恵まれるという現実がある。

吉永小百合還暦すぎても美しいといわれるのは、確実に伝え手の質によるものである。

翻って、萌え漫画における伝え手のレベルについては、お察しのとおり、来月のことすら考えることができないレベルである。もちろん、多くの漫画が生まれ、新規ファンも続々と獲得、売り上げ倍増、視聴率アップなどなど美辞麗句はいくらでも探すことはできる。しかしながら、同時に後世に伝えたくない何かにあふれまくっているのも確かであり、なにより、作品を見たことのないファンが見たくなるような伝え手も言葉も作品自体の面白さも超絶に不足している。

2011年現在、漫画映画落語歌舞伎でさえも、小学1年生を楽しませることができる。面白さを伝える技術をもった人間がいれば、より楽しませることも可能である。

さて・・・

面白さ[編集]

自分で作った神は、結婚して子供でも生まれない限り、えてして後世に引き継がれない。引き継がれたら困る。大変に困る

というわけで、美しい、かわいい、きれいといった分野で神となった題材は、一応は歴史上に散見される。いわゆるビーナス小野小町モナ・リザといった題材は多くの人間にとって敬慕、もしくは信仰の対象となっている。しかし、どこぞのイエス・キリストゴータマ・シッダッタのように、人間の生活形式の中に自然と敬うような、もしくは信仰の対象とされるような歴史の積み重ねがあるわけではなく、結局のところ、各個人個人がある日突然に美に目覚めるといった、ある意味解脱を体験してその存在を認識するのがほとんどである。まぁ、本能に根ざしている以上、仕方がないといえば仕方がない。

ちなみに、どこぞの孔子が語るには、人々を啓蒙させるには好きだの愛している以上に、「面白い」、「楽しい」が肝になっていると語っている。こちらは、完全に技術の問題である。伝え手のレベルの話になる。作品を見て、話を聞いて30分後に思い出せるか、3日後に思い出せるか、3週間後、3ヶ月、3年、場合によっては30年。面白さ、楽しさも心に残し続けることはできる。ある意味、トラウマと同じレベルの話だけれども。

萌え漫画に足りないそれらの要素は、果たして今後、補充されることがあるのか否か。

・・・疑問符をつけるまでもなく、否。まぁ、単品レベルであるならば可能性はなくはない。しかし。面白さの質というものは、えてしてかぶる。冒険もの、推理もの、エロ、ほんわかといった各種ジャンルにおいて、切磋琢磨が生まれるならば、何の問題もない。でも、神格化がもたらすものは、オンリーワンの良さに他ならない。

面白いから神ではなく、神だから面白いわけでもなく、神は神。言及するレベルではない。他者がいかに語ろうと耳に入らない。神だから。こういったファンに毒されていった作品は数多い。凌ぎきった作者は少ない。本当に少ない

どこかで見た光景[編集]

2011年3月11日、東日本を中心にしたマグニチュード9.0の巨大地震が発生。東北地方太平洋沖地震と名づけられたそれは、死者行方不明者を数万人規模で発生させ、戦後日本における最大の自然災害として多くの人に記憶されることになる。

しかし、そんな中、場違いな発言が多く聞かれた。今週の魔法少女まどか☆マギカはどうなった。どうなるのか。放送中止するのか。東京アニメフェアが中止になった。運がいい。などなど。

この光景は多分、大正時代にも存在した。

昔も今も、多感な子供たちはこの光景を記憶する。いつまでも記憶する。その子供たちが成長し、大人になって、塗炭の苦しみの中で自分の幸せを優先させようとする連中についてどう思うのか。どう思ったのか。

それは誰にも分からない

けれども、東京において秋葉原はオタク文化の中心地として発展を遂げた。けれど、阪神大震災を経験した関西では、特筆するようなオタク文化の中心地は存在していない。

偶然かもしれないけど、ね。

関連項目[編集]