萩原朔太郎

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おわあ、こんばんは おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ おわああ、この記事の作者は病気です。
37歳のときのサイン入り肖像。高校時代の写真に「どうだなかなか男前だらう」と書いて人にあげた太宰と互角かそれ以上である。

萩原朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年11月1日 - 1942年5月11日)は、日本における口語自由を確立した偉大なる詩人であり、私生活においては、格調高いミステリを好み、マンドリンをたしなむダンディな都会人であった。日本近代詩史に燦然と輝く彼の業績の前ではさして重要なことではないが、生まれは群馬県である。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。


たわけっ。

青竹のころ[編集]

詩人は、群馬県は前橋市のとある開業医」(シャーマンの長男として誕生し、長男かつ朔(ついたち)生まれゆえに「朔太郎」と命名された。「一太郎」である。(おお、何と親しみやすく、明快であることか!)父親は呪術にたけ、煎じ薬の効き目にも定評があり、言うまでもないことだが地元の名士だった。朔太郎はのちの詩の巨人にふさわしい、何不自由ない暮らしを送った。 7つのころより自らの天命を知り詩作に励む彼を様々なものが苦しめたが、ことに大きな障害となったのは勉学であった。その特異な感覚とエリート意識ゆえに他の学童や教師たちとの間に軋轢を感じ、青い空と流れる雲を友として一心に自らの表現を追求していた詩人に最初の不幸が襲ったのは1904年、前橋中学4年のときであった。留年の通知である。

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも櫻の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花弁の散りておつるにも涙こぼるるのみ。


共に歌を詠んだ数人の同志たちは離れ、親からは白い目で見られ、教師には疎んじられても詩人はめげなかった。何のことはない、人は一人一人では、いつも永久に、永久に、怖ろしい孤独なのだから。何とか卒業にこぎつけ、忌まわしき思い出の残る故郷を後にし、20歳の彼は東京の土を踏んだ。早稲田中学におけるシティーボーイとしての新たな人生への期待を胸に。一年とたたぬうちに退学することになるとは思いもしなかった。

朔太郎は父の強制によりやむなく東京を去り、涙をのんで熊本の第五高等学校に入学した。僻地に追いやられてもなお、彼はボードレールのごとき都会の詩人となる夢を捨てなかった。彼は無理解な両親や教師たちに対し、授業中は窓の外の自然に思いをはせ、試験には出席しないという断固たる態度をもって、詩の世界に徹することを主張したのであった。彼の決意は留年という形で実を結び、そしてあくまで予定通り中退した。続いて入った岡山の第六高等学校でも志を貫き、留年ののち中退した。そして念願の東京に、誉れ高き慶応ボーイ(予科)となって舞い戻ったのである。何という不屈の魂!

同人誌の発行、オペラ鑑賞、マンドリンの練習など、様々な手段で自らの精神世界をより豊かにしていくことに努めていた朔太郎だったが、またも学業において苦しめられ、退学の憂き目にあう。おお、よ、なぜこの天性の詩人の行方を阻もうとなさるのか!朔太郎は神に祈った。試験問題の印刷されたにも祈った。しかし聞き届けられなかった。ついに彼が帰郷したのは、京都大学落ちた26歳の秋だった。

天上の松を恋ふるより、
祈れるさまに吊されぬ。


月に吠える[編集]

生家。のちに洋風にリフォームされる。

田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。


暗い家屋の中に貧しい人間が群れ、土壌からは腐った臭いのする大嫌いな故郷に戻った朔太郎は、東京で知り合った北原白秋室生犀星らの同人誌に寄稿する傍ら、『上毛マンドリンクラブ』を結成し、竹筒の伴奏に合わせて、マンドリンや女学校で習ったギターを雄々しくかき鳴らした。こうして地元では有数の文化人で、かつ東京では新進気鋭の抒情詩人としての地位を固めていった朔太郎は、かねてからの夢だった初の詩集『月に吠える』を、1917年の2月に刊行した。タイトルの由来が、このころニーチェにかぶれニヒリズムをこじらせて気がふれた末の奇行か、はたまた単に故郷の風習かは議論が分かれる。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。


ともあれたしかに朔太郎は狂っていた。毎日のように遠眼鏡で荒廃した風景を覗いては薄気味悪く笑う彼の姿を、ナタを手に農作業に勤しむ半裸体の人々は訝しげに眺めた。そして詩人が粗い窓ガラスに移った自らのゆがんだ顔に向かって「なんだつてそんなに薄気味わるく笑つてゐるんだ!」と絶叫するのが聞こえると、悲しげに首を振るのだった。悩ましい夜の屋根の上では、2匹の黒猫が会話していた。

『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』


ここらでもし結婚していなかったら、大手拓次(略してオタク)になっていたかもしれない。しかしを娶り二児をもうけたことで朔太郎はかろうじて立ち直り、東京への移住を決めるのだった。

漂泊者の歌[編集]

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ


憧れの都会に戻り、貧しいながらも満ちたりた暮らしを始めるはずだった詩人を待っていたのは、田舎者として生きなければならない宿命と、どうしようもない孤独だった。「私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。」と処女作の巻頭に書いた詩人の思いを右から左に馬耳東風と受け流し、苦悩と挫折の思い出にまみれた群馬は、蒼ざめたとなってどこまでもついてきた。シャレか。どれだけ都会の芸術家たちと親交を深め、オシャレな洋服を着、沢山の趣味で取り繕っても、自分は東京人にはなりきれず、永久によそ者のままだという思いは、朔太郎を苦しめ公園のベンチにナイフで「復讐」と刻むなどの痛々しい行動に走らせた。

よにもさびしい私の人格が
おほきな声で見知らぬ友を呼んでゐる
わたしの卑屈で不思議な人格が
鴉のやうなみすぼらしい様子をして
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る。


朔太郎は真の理解者を求めてさまよっていた。その彷徨は、コクトー気取りのすきっ歯野郎耽美なゴリラなどの若い門人たちを得てもまだ続いた。というかむしろ彼らのせいで、とくに一番弟子を自称する三好達治のせいで終わらなかった。真の美の追求のためにその両手を幾度となくに染めてきた三好は、朔太郎が自由律で描く病んだ神経や、干からびた血や、酔っ払いの腹からはみ出た臓物の迫真性に心奪われた。そして病める魂を詩へと昇華させる術を自分よりもよく知る者として曲解した彼は、勝手に朔太郎を生涯の師と仰ぎ、その道から少しでも外れることを許さなかった。このようにひじょうに迷惑な男に気に入られてしまっていたのだが、朔太郎はそれに気付く余裕が無かった。妻とは離婚して家庭は崩壊、加えてそれまで散々スネをかじってきた父親が死んで、すっかり参っていたのだった。それだけにいっそう、三好には全幅の信頼を寄せた。それまで書いていた口語詩に区切りをつけ、文語でもって詩らしい詩を書いてみるか、と少しずつ書きためた詩集『氷島』を1934年に発表する少し前に、「僕の詩集がもうすぐ出るから是非読んで感想を聞かせてね」という手紙を三好に送った。少し遠慮して、「気に入らなかったら何度でも書きなおす」とは書いたものの、三好の返事はあまりに率直だった。

一括して申上げて、それは不自然な印象であります。(中略)ある意味では詩歌よりもなほ一層詩的な、人生そのものの悲愁を感じ、眼底の熱くなるのを覚えます。

訳:お前はもう死んでいる。

この一件ですっかり老けこんでしまった朔太郎は、「僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し廻つて、結局やはり祖国の日本より外にはない」と50過ぎの感想としては至極相応な事を言ったが、批評家にコテンパンにやられ、失意のうちに風邪をこじらせてポックリ逝ってしまった。は東京にある。往生際の悪い奴だ。

関連項目[編集]