藤代御膳

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藤代御前(ふじしろごぜん、生年不詳-慶長?年没)とは、津軽為信の酒肴(おつまみ)である。

人物[編集]

陸奥国津軽地方にある藤代村の肝煎りであった藤代何某の妻であった彼女(以下「藤代」)が津軽為信に見初められたのは、ちょうど彼が主君・南部信直に叛旗を翻して石川城主・石川高信や浪岡城主・北畠顕村を攻略、津軽独立戦争に勝利してまさに有頂天になっていたその時であった。彼には既に糟糠の妻であり幼馴染みでもあった(正直羨ましいだろう、と心の声)お戌の方(戌姫)が正室に納まっていたと言うのに、あろうことか藤代を正室に迎えるために戌姫を側室に降格させようとまでしたが、流石にこれは息子・津軽信牧をはじめとした家臣たちに諌められて思いとどまっている。が、どうしても藤代を我が物としたくてどうしようもない為信は、さしあたって藤代の夫であった何某をあっさりと暗殺、これで邪魔者はいなくなった……かと思いきや、最後にして最大の邪魔者が、まさか本人だとは夢にも思わなかったのであった。

藤代村の戦い[編集]

最期まで奮闘した。
「さぁ、来るなら来やがれ、夫の仇!」
津軽為信 について、藤代御前

肝煎りが殺されたとあって、藤代村では老若男女、牛馬犬猫にいたるまで総動員して武装させ、藤代自身もまた南蛮胴の甲冑に一丈五尺の大薙刀を携えて津軽為信の陽気な嫁入り行列を待ち構えた。戦いは藤代勢の奇襲によって火蓋が切って落とされ、考え付く限りの奇策やを巡らすことによってまともな武装をしていなかった津軽勢は、担いできた藤代用の嫁入り道具を捨てて退却、一度は戦いに勝利できたものの、もはや二度目はなかった。藤代勢の兵員約200(老若男女+牛馬犬猫含む)に対して津軽勢は完全武装の兵5000で村を完全包囲、どう見ても勝ち目はなかった。が、為信は最後にチャンスをやることにした。欲しいのは藤代一人であって、別に自国の領民の殲滅ではなかったのである。

「おーい、俺と結婚してくれたら、みんな助けてやるぞー!」
藤代御前 について、津軽為信

その言葉に藤代村民は藤代とその一人息子を残して全員あっさり降伏、さしあたって命ばかりは助けられたが、藤代の意志は変わらなかった。

だが断る。
為信の求婚 について、藤代御前

そのままたった一人で大薙刀を振り回して津軽勢5000の中へ斬り込み、さんざんに暴れ回って7、8人ばかり倒したものの、あえなく討ち取られてしまったのであった。

死後[編集]

かくして首級となった藤代は首実検に出されたが、死ぬまで意のままにならなかった藤代に対して、憤懣やるかたなかった為信は八つ当たりに彼女の遺体を切り刻んで肉醤(ししびしお)にし、毎日少しずつ酒のつまみとして賞味したと言われている。ともあれ、もはや死んでしまったものはしょうがない、残った骨は始末に困るので藤代村のはずれに埋葬される事になった。しかし、藤代の受難はそこで終わった訳ではなかった。慶長12(1607)年に為信が亡くなると、その遺言によって藤代の墓の上に覆いかぶせるように墓を作り、永遠にむさ苦しいヒゲ野郎に圧しかかられた状態で眠り続けるのであった。さらに慶長14(1609)年には陸奥国藤崎にあった革秀寺(為信が生前建立した)が移転されて来たため、歴代津軽藩主の崇敬を集めるのであった。

関連項目[編集]