藤原泰衡

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藤原 泰衡(ふじわら の やすひら、1155年 - 1189年10月14日)とは奥州藤原氏の4代目。父や曽祖父のような凶暴な独裁者ではなく、その辺にいそうなごく普通の人。つまり小心者の凡人であり、イメージとしては上下の板挟みに苦しむ中間管理職のオッサン辺りがピッタリ。周りの気違い共に振り回され滅びの道を辿り、挙句後世の人間からもバッシングを受けている(´・ω・) カワイソスな人である。

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生涯[編集]

誕生から家督相続[編集]

藤原秀衡の次男として生まれた。庶兄に国衡がいたが、側室の子だし顔つきが気に入らなかったし国衡は腕っ節ばかり強くて俺に腕相撲で勝ちやがったから、それが癪に障ると言う、秀衡個人の無責任極まりない私情で泰衡に家督が譲られた。国衡はまあしょうがないよねと笑って許したが、無論国衡自身にとってはとても納得のいく結果ではなく、後に義経が奥州を訪れた折、弟の忠衡と共に一時義経派に転じたこともあった。頭の固い史家達の中には、腕は立つが思慮に欠ける猛将の国衡より、多少小心なれども思慮に長ける泰衡を後継者にしたとも言われるが、秀衡にそのような深謀遠慮があるとは到底思えない。

父秀衡の暴走[編集]

中央からはるか北方の辺境平泉には時の支配者平家の干渉も届かず(無論、清盛から服従を促す書状は送られていたが、秀衡は馬耳東風でこれらの文を握りつぶしていたと思われる)、表面上、平泉は安穏を保っていた。しかし鞍馬山から逃亡してきた源氏の御曹司源義経を父秀衡が匿ったことで、平泉もまた平家と源氏の戦のうねりに巻き込まれてゆくことになる。泰衡は不吉な予感を感じ取った。それは秀衡が義経を担ぎ、やがて京都まで軍勢を押し進めようとしているのではないかという懸念である。果たせるかな泰衡の不安は的中し、秀衡は義経に洗脳教育を施して立派なDQNに育て上げた。義経がこの後ワンマンに走って周囲との協調性を乱したのも、秀衡の教育の賜物である。

源氏の若君に振り回される日々[編集]

元々野生児のような義経はなんの疑いも持たずに秀衡の悪影響を受け、しまいには秀衡こそ我が父であり、師匠でありますなどとのたまう始末であった。泰衡は秀衡のような思考ルーチンの崩壊した気違いを父であり師匠だと慕うなどと、頭がどうかしてると理解に苦しんだが、凡人の泰衡には天才であり気違いでもある秀衡や義経の思念など到底理解できなかったのだから仕方がない。秀衡や義経を理解できるのは、今で言うなら窪塚洋介押尾学ハイレベルな哲学を理解できる相当狂った頭脳の持ち主であり、凡人である泰衡にアイキャンフラ~イと言って断崖絶壁から飛び降りろと言っているような者である。それはあまりにも酷である。

泰衡は義経が生理的に苦手で、義経の天真爛漫(悪く言えば自分勝手、礼儀知らず、空気読めない)な挙措にバールのようなもので頭蓋骨が陥没するまで殴打してやりたい衝動に駆られた事が何度もあったが、仮に義経を殴り殺すどころか僅かにでも傷をつけたりすると、父秀衡から廃嫡されてしまうばかりか従者の武蔵坊弁慶に何をされるか分かったものではないので迂闊に手が出せない状態にあった。結局、義経が身勝手に振舞うのを泰衡は黙視するほか無かったのである。この頃の泰衡はストレスから下痢や嘔吐する事が多く、一日中厠から出てこないこともあった。

しばしの平穏[編集]

空気の読めないまま成人してしまった義経に秀衡は家臣の中でも若手で腕の立つ佐藤継信忠信の兄弟をつけた。それはつまりこの二人に義経の我侭勝手を我慢し、なおかつ人間を超越した身体能力を誇る義経の足手まといにならないようにしっかりついていけと言う無理難題を押し付ける事であった。この時秀衡は、佐藤兄弟に対し「義経様の玩具となり、時にストレス発散のためのサンドバッグになり、時には馬代わりに義経様を背負って険しい山麓を飛び越えてゆくべし」と語ったと言われる。兄継信は初めやや難色を示したが、秀衡に異論を唱えたりしたら命がいくつあっても足りないことを知っていたため義経に従う他なかった。泰衡は心底同情し、おそらく二度と平泉の土を踏めないであろう佐藤兄弟に前もって黙祷した(事実、佐藤兄弟は平泉に戻ってくることは無かった)。間もなく義経は兄源頼朝の平氏討伐の軍に合流すべく平泉を離れていった。泰衡は安堵した。

源氏は生涯の疫病神[編集]

しかし義経は呼んでもいないのに帰ってきた。話によると義経が兄頼朝の家来を自分の家来のように尊大に接したり、兄頼朝が朝廷と距離を置いた独自の武家政権の構想を練っている中で、義経は後白河法皇の忠実な下僕になってしまうなど、義経のKYさが頼朝の逆鱗に触れ、そのままエクストリーム・かくれんぼに進展したのだと言う。もちろん義経に甘い秀衡は義経を匿い、さらには頼朝を徹底的に挑発して怒らせた。しかし頼朝に喧嘩を売るだけ売っておきながら秀衡は病でポックリ逝ってしまった。そしてそのしわ寄せは全て泰衡に来る羽目になる。

ところで秀衡は自分の死後に泰衡と、兄の国衡が兄弟で争う事態を恐れ、なんと泰衡の生母を国衡の妻にして嫁がせた。泰衡からすれば母が転じて兄嫁になるなど狂気の沙汰というほかなく、意味不明であったろう。ただおかげで国衡と泰衡の兄弟間の争いは起きなかったが、代わりに泰衡と、義経を慕っていた弟の忠衡・頼衡との間で義経の処遇を巡って争うようになった。義経はというと、平泉に居座りながらもう少しで海外逃亡しますんでそれまで匿わせてくださいと言いつつも、裏では頼朝と無謀な合戦に及び、相打ち覚悟で頼朝を滅ぼすつもりであった。恐るべき事に、義経は平泉を戦場にする焦土作戦を画策していたのである。義経の思惑を知ったとき、泰衡の精神が最早平常を保てなくなっていたのは言うまでもなく、畳み掛けるように頼朝から脅迫状や脅迫電話を送られた。泰衡はついに発狂して義経一党を襲撃して抹殺する。ついでに異論を唱えた義経よりの弟の忠衡・頼衡らも殺し、さらに泰衡をなだめようとした祖母まで処刑した。

この血の粛清で万事解決かと思いきや、頼朝は天才武将・義経がいない奥州藤原氏なんて怖くないといわんかばかりに、28万4千という日本史上かつてない大軍勢で攻め込んできた。泰衡は頼朝の理不尽さに激怒しつつ、自分の短慮さに慟哭するなど錯乱状態になってしまい、兄国衡が代わりに奥州藤原軍2万を率いて頼朝を迎え撃つ。しかし国衡は大敗して戦死し、泰衡は自暴自棄になって平泉の文化なんかもうどうでもよくなったのか、奇声を発しながら平泉の御所や寺院を焼き払って逃亡蒸発した。頼朝に命乞いのお手紙を書いたが無視され、やむをえず北海道へ逃げようとしたが、潜伏先を提供してくれていた家臣に裏切られて死亡。頼朝は泰衡のおでこに釘を打ち込んで柱に掛けて、さらし首とした。

後世の評価[編集]

英雄源義経を死に追いやったボンクラ、間抜けとして徹底して低い評価を下される傾向があるが、泰衡自身はどこにでもいそうな凡人であり、父秀衡が調子こいて義経を庇ったり鎌倉と戦争を起こす気になったりしたその負の遺産を背負わされただけだった。本部以蔵範馬勇次郎の代わりをやれと言われても、それは無理な話である。なお最近(1950年)の調査で、泰衡の首桶の中に、蓮の種子が100個入っていたことが判明した。蓮は仏教を象徴する花であり、泰衡に同情した誰かが首桶に入れたのだろう。800年間も首桶に閉じ込められていた種子だが、実際に植えたところ、発芽して開花に成功し、今に至る。

「まあ、生まれてきた家と時代が悪かったんだ。次はもっといい時代に生まれて来いよ」
藤原泰衡 について、オスカー・ワイルド


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