蜀漢のお家騒動

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
「俺自身、本当はこーゆーの書きたかったんだよ。でも晋の歴史家たちに弾圧されたから、あきらめたのさ…」
蜀漢のお家騒動 について、陳寿

蜀漢のお家騒動(しょくかんのおいえそうどう)とは、別称「蜀漢のお家争い」と呼ばれる蜀漢劉備の息子たちの皇太子皇帝継承者)をめぐる内訌である。すくなくとも曹操孫権にとっては格好の餌食であったことは言うまでもない

概要[編集]

これは219年~221年にかけて起こった出来事であり、劉備の嗣子の劉封とその異母弟劉禅をめぐる家臣たちがそれぞれ扇動し、唆したことが最大の原因だった。

直接の要因は、豪族連合の盟主たる劉備が諸葛亮李厳黄権ら代表格のご機嫌を窺い、そんな父の歯がゆい態度に劉封が不満を爆発して、明くる日に諸葛亮らに「俺が後を継いだら、お前らなぞ粛清してやるからな!」と暴言を吐いたことから、彼らの怨みを買ったために、波紋が広がったのである。

さらに、前年(217年)に法正の進言で、劉封は劉備から、の房陵郡太守の蒯祺(諸葛亮の姉婿、蒯越の族子)討伐を命じられ、魏延孟達を副将にして討伐した。約2年もかけて劉封は勢いに任せて、これを攻め滅ぼしたため、諸葛亮の怨みを買ったのである(219年ごろ)。

また、劉備自身も故劉表を尊敬して、その二番煎じを真似て劉封を疎んじたり、関羽を見殺しにした事情もあり、諸葛亮とともにこれを廃嫡する動きを示したが、劉封の「後見役」と自認した法正、魏延の必死な諫止によって事態は深刻化したのである。

さらに先年に、品行が悪劣な彭羕が劉備を見限って、「老い耄れ!」と罵り、馬超に謀反を勧めるが、却って馬超は劉備に彭羕の造反を劉備に奏上し、彭羕を生理的に嫌った超潔癖厨の諸葛亮はこれを聞いて、「彭羕は奇怪な容貌を持ち、八尺五寸もあるとんでもない有害な大男です。今のうちに粛清すべきです!」と進言した。こうして彭羕は即刻に逮捕投獄されて、「俺は無罪だ~!冤罪だ~!」と叫んで、わずか37歳の若さで処刑されたが、その黒幕が劉封と魏延だといわれてるのである(216~217年頃)。

まあ、諸葛亮ら豪族の代表にペコペコした父・劉備の煮え切らない態度に苛立ちした劉封(または魏延など)なら、あり得るかも知れないカモ…


そこで、この「お家騒動」をめぐって「劉封派」の派閥グループと「劉禅派」の派閥グループを下の図式で簡略に示す。

その図式を見ると、いわゆる「劉封派」は「武断派」が多く、魏延・鄧芝を除いて、ほとんどが220年前後に死んでいる人物ばかりである。そして「劉禅派」は「文治派」の諸葛亮をはじめとする、彼の息のかかった人物たちばかりである。

一方、「中立」派は『三国志』の表舞台で活躍が少ない人物たちで、ほとんどが「事なかれ主義」のセコイ連中である(馬良、馬岱の例外はある)。

「蜀漢の派閥グループ」[編集]

劉封派(益州派閥)[編集]

法正簡雍(耿雍)、魏延黄忠馬超鄧芝、傅彤(傅肜)、劉巴、雍茂、張裕

劉禅派(荊州派閥)[編集]

諸葛亮諸葛均李厳劉琰蒋琬費禕楊儀馬謖廖化趙雲

中立(幽州・徐州派閥etc...)[編集]

許靖、黄権、陳式陳寿の祖父)、陳戒(陳式の子)、張嶷張翼王平李恢馬良馬岱馬忠 (蜀)、李福、董允、陳震、張裔、向朗、来敏、高翔

二大継承者候補の特性[編集]

劉封(兄)[編集]

劉備の嫡子(定説では養子)で、生母は名家の寇氏(芙蓉姫)。しかし、元来格闘技好きで、周りに迷惑をかけるDQNぶりを発揮し、すくなくとも諸葛亮ら「文治派」から「粗暴で君主らしくない公子」と決めつけられて大変嫌われている。とくに関羽は劉琰とグルになって生母を讒言で殺害している過去があり、それが原因で孟達とともに関羽の援軍を拒否し、見殺ししその仇を討っている。しかし、そのために父劉備に憎まれて、廃嫡の憂き目に遭うことになる。同時に「やらないか。」も大好きである。

劉禅(弟)[編集]

のちの蜀漢の2代皇帝の後主。劉備の庶子で、生母は甘夫人。同母弟は劉永(ただし、劉禅自身が劉備の"何男"かは不明)。幼いころに父劉備から「こんなガキはいらん!」と言って地面に投げ落とされるも趙雲のナイスキャッチにより、危機一髪から救われた。そのため父劉備のことは心底から嫌っている節がある。もちろんはじめから劉備の後嗣ではなかった。しかし、周りに気を使う優しい性格で、兄劉封のように武芸に興味を示さなかった。そのため、諸葛亮らから「劉封廃嫡」による形の擁立で祭り上げられたのである。本人はアキバ&ゲーム大好きなオタクであり、とくに長門争奪戦は大好きである。

お家騒動の終焉[編集]

しかし、このお家騒動は「劉封派」の大黒柱の法正が220年にのために46歳で逝去したことで、決着はついたのである。ある意味法正のカリスマ性を警戒していた諸葛亮らは法正の訃報を聞いて「イヤッホーウ!!」ガッツポーズしたという。そこで過去に罪状があった雍茂と張裕を逮捕投獄したのである。さらに黄忠も老齢で病死し、馬超も病で臥せっていた。

また、劉巴は張飛のことを「郷士あがりとは対等に付き合えない!」という暴言を吐いたので謹慎された。のこりは魏延と鄧芝であった。そこで諸葛亮は 魏延と鄧芝の買収に動いた。しかし、魏延は劉封の「後見役」と自負し諸葛亮のことをニート軍師と言い出して、反抗した。一方、鄧芝は劉封のに当たったが、個人的に諸葛亮とはおホモ達同士であったので、問題はなかった。

やはり、課題は魏延であった。そこで諸葛亮は劉備に上奏し「魏延は、無断で封君(劉封)を擁立するクーデターを企んでいるようです」と讒言した。しかし、魏延は劉備のお気に入りの武将だったので、劉備はこれを却下したが、念のために諸葛亮の意見も取り入れて魏延を更迭し、謹慎を命じた。

こうなると、劉封の運命は決定された。魏に奔った孟達に大敗した劉封は成都に逃げ戻った。それを待っていた諸葛亮はただちに軍勢を動員し、劉封を捕らえて投獄した。まもなく劉封は市場に曳き出されて、雍茂と張裕とともに処刑され、晒し首にされた。

劉封の刑死を聞いた魏延は思わず男泣きをした。この件以来から魏延は諸葛亮・李厳・劉琰・楊儀らを憎み抜き、衝突を繰り返したのは言うまでもない。

傅彤(傅肜)は、夷陵の戦いで呉に降伏することを拒み戦死した(これは諸葛亮がひそかに呉と密談して、目障りな傅彤を亡き者にした説が最有力という)。

蜀漢の外戚筋で古参の簡雍も、諸葛亮が簡雍の品行を嫌っていたために干され、無位無官のまま、さびしく老衰死したという。

この結果として、おバカな劉禅が兄に代わって、太子となり、諸葛亮らは「ヒョー!!」と叫んで狂喜したという。


これが陳の字(陳寿)が書き記したかった「劉封の最期」&「蜀漢のお家騒動」の真相であったことは言うまでもない。

関連項目[編集]

Wikipedia
ウィキペディア専門家気取りたちも「蜀漢のお家騒動」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。
歴史の渦に巻き込まれる! この項目「蜀漢のお家騒動」は、歴史に関連した書きかけ項目から歴史に残る記事進化しなければならない。
歴史は今作られている!君の名をこの記事(の履歴)に刻むのだ。 (Portal:スタブ)