被害者の人権

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被害者の人権(ひがいしゃ - じんけん)とは、犯罪被害者が有すべき諸々の人権であって、わが国には存在しないか、存在するとしても極めて軽視されているものである。

国によって軽視されている例[編集]

人権とは[編集]

人権[1]とは、国民国家にああしろこうしろと言う権利(対国家的権利)である。人権は、歴史上、国民が自らの生命自由財産を守るために、国家に対し暴力憲法を押し付けることによって獲得したものである。

昔は、国民の生命と自由と財産を守るために、国家から干渉しないでいてもらう権利(自由権)だけが人権だと考えられていた。しかし、「じゃあ干渉はしませんよ。国は自由権だけを保障します。国民の皆さんは勝手におやりなさい」と言って国民を放置しておくと、実際には国民の生命・自由・財産が確保されない場合が非常に多いことがわかってきた。そこで、20世紀初頭~中葉ころからは、国家に何か行動を求める権利(社会権国務請求権)も、生命・自由・財産を守るための人権だと広く認識されるようになった。

国家が国民の自由権を侵害した場合、つまり検閲だの自由民権運動弾圧だのといった積極的な人権侵害をやらかしてきた場合は、その行為を違憲だと言って争うことが可能である。これに対し、国家が「何もしない」ことを違憲だと主張するのは難しい。すなわち、国家に「何かをしろ」と求める社会権と国務請求権については、たとえ憲法にこれは人権ですよと書かれていても、国会でそれを実現する法律具体化立法)が作られていない限り、国家は何もしなくてもいい――し、実際何もできない――のである。

被害者は、国に何をしろと請求できるか[編集]

では、犯罪の被害者は、自らの生命・自由・財産を守るという人権の具体化として、法律に基づいてに対しどのような請求ができるのであろうか。これがまた、現状では非常に限られたことしか請求できないのである。

  • 犯罪被害者は、告訴刑事訴訟法230条)ができる[2]告訴とは、犯罪事実を捜査機関(これは国である)に申告し、犯人の処罰を求める意思表示である。つまり、犯人をとっつかまえて裁判をして処罰をしたら国の仕事はおしまいであり、被害者の損害の回復だとか、ましてや精神的ケアだとかは、全くもって国の知ったことではない。
  • 被害者は刑事とは別個に、民事で加害者の不法行為に基づく損害賠償民法709条)を請求できる。もっとも、民事はあくまで弁護士を通して加害者と被害者が私的な紛争=カネのぶんどり合いをやるだけであり、国に対しては「裁判所で裁判をしておくれ」と請求できる(憲法32条)にすぎない。そして、加害者に資力がなければ損害賠償請求など絵に描いた餅である。

結局[編集]

結局、被害者の人権の具体化として、現時点で被害者が国へ請求できることは、

  1. 犯人を処罰しろ。
  2. 犯人から賠償金を取れない場合に限り、代わりにカネをよこせ。

せいぜいこの2つなのである。すなわち、不幸にして犯罪に巻き込まれた被害者への事後的なケアについては、わが国の法制度はハンムラビ法典[4]から全く進歩していないといっても過言ではない。これは、国が犯罪被害者の人権を軽視し、せいぜい「刑事裁判で検察に有利に働く証拠の1つ」くらいにしか扱っていないことの現れである。

#一方的な犯罪などでも時間やコストがかかりすぎる点も問題である。被害者にとって 加害者の都合なんぞ知ったこっちゃないのである。人を殺しても3000万とかで決着がつく中、詐欺などの場合、それに対する労力や時間は被害者の心を更にズタズタにするだけである。一番必要なのは加害者の被害者に対する賠償の義務化と自動化である。 ぶっちゃけ内臓売ってでも慰謝料払えを実用化するしか方法はなく、それには憲法の一部を改正し一部加害者を除く基本的人権の尊重と言う形にしないと話にならないと思われる。

世間によって軽視されている例[編集]

前述のように、人権とは、国民が自らの生命・自由・財産を守るために、国に何かをしろと言う権利である。

ところが、世間では人権は「自らの生命・自由・財産を守る」という機能をはるかに超越した、一種の魔法呪文と考えられることが少なくない。そのようなわけで、どんな無茶苦茶な内容でもとりあえず「被害者の人権」と付けておけばそれなりにもっともらしく聞こえる効能がある。以下はその利用例である。

  • わが国の司法制度は犯罪者の人権ばかり擁護している。被害者の人権のためには、犯罪者には弁護士をつけず、迅速な裁判で素早く有罪判決を下し、できるだけ死刑にするべきではないか。
  • 痴漢事件には必ず加害者が存在するのであるから、冤罪者が出る危険性もあるが、被害者の人権の擁護を第一義的に考え、冤罪のリスクは社会的コストとして受け入れるべきではないか[5]
  • 少年法少年犯罪者の実名報道を制約しているが、被害者の人権のためには実名を広く世間に知らしめて社会的制裁を加えるべきではないか。
  • 被害者の実名報道を控えるべきだという意見もあるが、被害者の人権のためには、むしろ実名を広く世間に知らしめて社会を事件に注目させるべきではないか。

こうした発言は、一見被害者の人権を考慮しているようでいて、「被害者らの生命・自由・財産に生じた害を回復するために、被害者がどのような支援を国家や社会に請求できるようにするのがよいのか?」という点をまるで考えていない[6]。すなわち、被害者の人権とは何の関係もない

そのような主張をする者にとって、何が被害者にとって助けになるのかなどは実は全くどうでもよく、自分の好きな主張を権威づけるために「被害者の人権」という呪文を唱えているだけである。いわば被害者の人権屋にすぎない。この意味でも、やはり被害者の人権は軽視されているといわざるをえないのである。

脚注[編集]

  1. ^ 人権とは、そもそもは私人が国家にああしろこうしろと言う権利であるが、それは国家が社会的強者のいわば代表格として、私人の生命・自由・財産を脅かす例が歴史上多かったからである。現代では、本来は私人であるはずの大企業やマスコミもまた(国家には及ばないにしても)社会的強者であり、その力を用いて容易に私人の生命・自由・財産を脅かすことができる。そこで、弱者となった私人を助けるために、憲法の私人間効力というものを認める必要も出てくる。
     とはいえ、人権が対国家的権利であることはやはり大原則である。したがって、私人どうしの争いである民法の世界や、主に個人が個人の利益を侵害することが罰せられる刑法の世界では、実は人権という概念はあまり登場しない。人権が登場する必要性のない場面で、自分に都合のいい議論をでっちあげるために「人権」を軽々しく持ち出すと、その論者は人権屋と呼ばれることになる(逆に、国家から国民に対する権利侵害があるか、その可能性がある場合には、人権の議論をする必要性がある。その場合に相手を「人権屋」と呼ぶのは誤用である)。
  2. ^ その他、刑事訴訟における諸権利として、優先的に傍聴をしたり被害者参加人として被告人にいろいろ訊いたりする制度が、最近ようやくできた。
  3. ^ 被害者死亡の場合で、生前の収入など様々な条件を満たして3000万くらいが限度であり、加害者に資力がある場合と比べれば実際にはかなり安い。これが現状である。
  4. ^ ハンムラビ法典23条・24条には、強盗・強盗殺人の犯人が知れない場合に、被害者や遺族に対し、損害の補償として自治体がいくらかの給付金(の現物)を支払う規定がある。本当である。
  5. ^ どこかの政党党首がこの発言をしていたという噂があるが、これはどうも「ベッキーが『痴漢を5人捕まえたけどそのうち2人は間違いでしたアハハハ』って言ってたらしいよ」という話と同じくらいの信憑性のようである。
  6. ^ なかでも、「犯罪者の人権ばかり守って被害者の人権を軽視するのはけしからん」という言説は特にタチが悪い。それは被害者の人権を単なる「犯人の処罰を求める権利」に矮小化して、国民が国家権力から獲得した自由、国民の生命・自由・財産を守る行為を国に求める権利という人権の本質を見誤らせるものである。また、「被害者の人権が重要だから犯罪者の人権を守るな」というのは、冤罪防止のために設けられている刑事訴訟法上の厳格な手続(刑事手続が厳格なのは、それ自体は素晴らしいことである)の適正な履行をないがしろにするのに、錦の御旗として「被害者の人権」を持ち出しているだけである。
     上の言説の帰結するところは、「被害者が満足するには、誰か適当に怪しい奴をしょっぴいてきて冤罪でも何でもいいからサクサク死刑にすればいいっしょ。被害者のその後のケアとか知らないよ」ということに他ならない。これはずいぶん被害者をコケにした結論であるし、この理屈がまかり通ることによって得をするのは、やるべきことが減って仕事が楽になるお役所だけである。

関連項目[編集]