角田秀松

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角田秀松(つのだ ひでまつ、嘉永3(1850)年2月12日―明治38(1905)年12月13日)とは、大日本帝国海軍における中将である。

生涯[編集]

維新時代[編集]

会津藩医・角田良智(つのだ、よしとも)の二男として生まれる。親の跡目は長男に継がせるとしても、医者として独立して欲しいと願った両親によって藩校・日新館(にっしんかん)へ通学させてもらうも学業成績はいたって不振であり、おまけに素行不良とあって危うく放校(退学)処分とされかけたが、絶妙のタイミングで会津戦争(戊辰戦争)が勃発したために、さしあたって経歴に疵をつけることだけはどうにか免れた。当時数えで19歳であった秀松は朱雀隊(18~35歳の壮丁によって編成される)に編入され、大いに戦った(と、あくまでも本人は語っている)ものの衆寡敵せずに会津藩は新政府軍に降伏。やがて沙汰(戦後処分)が下って主家・会津松平氏は陸奥国斗南(となみ)へと転封(左遷)され、角田家もそれに従った。かくして極貧の中、主従ともども心を合わせて耐え抜いたはよかったが、間もなく廃藩置県によってすべての藩はなかったこととされてしまい、辛うじて主君である・松平家のみは斗南県の知事として存続を許されたものの、他の家臣たちはそのほとんどがリストラされてしまい、食べていくあてがまったくなくなってしまった。が、秀松これをかえってチャンスととらえた。幸い自分は兄と違って気楽な次男坊しかも独身であり、上京して新しい可能性に賭けてみよう、と。この辺りが同郷の秀才達とは一味違った、既成概念にとらわれないバカならではの自由さであり、まだ世の中全体が進取の気概に満ち溢れていた、時代の大らかさでもあった。

海軍時代 (青年期)[編集]

かくして上京した秀松は航海術を学び、明治7(1874)年に長崎海軍出張所に転がり込み、雲揚に乗り組んで下積みに入った。苦手だった勉学もどうにか克服して海軍少尉の任官試験に合格、その後順調に昇任して行ったが、当時海軍と言えば薩摩閥がほとんど独占状態(ちなみに陸軍は長州閥がほとんど独占していた)であり、会津藩出身の秀松はなにかといじめられた(わざと薩摩弁だけで会議が行われるなど)が、その腹いせに下士官や水兵をいじめるような事はせず(これは別に彼が人格者だからではなく、もしもそんな事をしたら、海軍特有の陰湿な仕返しが待っているのを知っていたためである)に、あくまで飄々としてまるで気にかけなかった。あくまで任務は任務として淡々とキャリアを積み上げ、征台の役(明治7(1874)年)、江華島事件(明治8(1875)年)、西南戦争(明治10(1877)年)に従軍し、中でも江華島事件では抜群の功ありとして一番手柄と認められたものの、秀松自身は淡々と「大砲を撃つよう命令したのは私ですが、大砲を撃ち、砲弾を敵に当てたのは水兵・検閲により削除(非著名人により伏せ字)です。」としてその勲章をその水兵にくれてやり、恩賞として下賜された賞金は彼が当時乗り組んでいた孟春の乗組員総員を巻き込んでの飲み会に使ってしまい、面目をつぶされてしまった艦長・副長をはじめとする高級士官から大いに睨まれたものの、やっぱり気にしなかった

海軍時代 (壮年期)[編集]

そんな調子で清輝(明治8(1875)年)、(明治12(1879)年、副長)、扶桑(明治13(1880)年)、迅鯨(明治15(1882)年、副長心得)と乗継いで、海軍少佐に昇任してからは陸上勤務で水雷(水測(水中測的)と魚雷(魚型機雷)の総称)分野における研究開発の任務(栄転のようでいて、陸上勤務は艦艇勤務に比べて評価査定が不利であり、実質的な左遷である)につき、やはり士官につきもの(下士官・兵に比べて士官は転勤が多く、これは現在も概ね同様である)の転勤を繰り返しながらコツコツとキャリアを積んでいった。しかし、やはり海が恋しくなった秀松は明治22(1889)年に初めて浪速の艦長となれたのも束の間、明治28(1895)年に海軍少将に昇任するともう前線で戦いの指揮を執る訳にも行かなくなってしまい、非常に残念がったがそこは大人の事情を察して諦めざるを得なかった。その後も台湾総督府佐世保鎮守府呉鎮守府の司令官を歴任、ついに明治32(1899)年に常備艦隊司令官に任じられると、もう何もすることはなく、ただ重鎮としてドンと構えていることだけを要求されるようになり、非常に退屈したと言われている。そして明治33(1900)年にはもうほとんど名誉職であった海軍中将に昇任し、海軍中枢の運用を決定する将官会議議員に招かれるようになると、いよいよ退屈がピークに達したのか、ストレスで倒れてしまった。やがて病気がちになった秀松は名前だけの存在とされてしまい、明治37(1904)年に勃発した日露戦争の直前、緊急に編成されることになった連合艦隊司令官候補者の人選会議で東郷平八郎の対抗馬として名前を上げられたものの、その実質はかませ犬でしかなく、ただ候補から蹴り落として嘲り笑うためだけの、薩摩閥による悪意に満ちた推薦であった。やはり逆賊は逆賊であり、どこまでも逆賊としか見られていなかった現実を思い知らされ、もはや飄々として身を躱(かわ)すことも、実力で文句を言わせないことも出来ないほどに衰弱していた秀松は辞任を願い出るも、これを「国難を前にして、臆病風に吹かれたか」と笑われたために留任。意地と根性で病床から復帰し、竹敷要港部司令官に任じられるも、激務に耐えきれず、明治38(1905)年に病没した。

余談[編集]

秀松が清輝の航海長を務めていた時、日本海軍として初めてヨーロッパに航海したが、これはアジアからインド洋を抜け、アフリカ大陸を回って(当時スエズ運河は開通していなかった)大西洋を経てヨーロッパへ至るまで、海ごとにさまざまな性質(天候や風向き、潮流など)を持っているため、船員たちの航海技術を高める恰好の演習となった。そのため、現在海上自衛隊においても練習艦隊を編成して遠洋航海に出ているらしいが、その起源がここにあることを蛇足ながら紹介する次第である。

また、秀松の子である角田武雄(-たけお)が後日親の七光りで男爵に叙せられたが、これは恐らく長年にわたるいじめの謝罪ではないかとする見方もある。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]