豊橋市

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豊橋市(とよはしし)は、愛知県の東部、じゃなかった、浜松県の西部に位置する、通商ちくわの街である。

目次

[編集] 概要

愛知県に属すると誤認される事があるが、実際には遠州灘に面しており、浜名湖や天竜川流域の方が近くて古くから交流が深いため、「浜松県豊橋市」と呼ばれている。愛知県が名古屋共和国として独立を宣言すると、浜松や飯田と分断された豊橋は苦情を申し立てて、名古屋共和国から脱退して浜松県に入り、現在は天竜川共和国の一角として現在に至る。

人口は約38万人。方言は遠州辯の地域である。

ヤマサのちくわ、路面電車、恐竜、牛川原人の街として広く知られている。かつては穂国(ほのくに)と呼ばれた地方王国の中心地で、その時代から火薬に強く、なにかあると手筒花火を上げてみたりする。

また、教科書でおなじみのええじゃないか発祥の地で、弥次さん喜多さんの歩いた東海道沿線でも随一の規模を誇る。

[編集] 歴史

[編集] 古代~戦国時代

古代より原人の町として繁栄し、一時は10万人を越す原人が現在の豊橋市の地域に住んでいた。

中世にて、今橋ノ国として立国すると同時に、隣町の田原ノ国、豊川ノ国と共に穂ノ国連邦を建国する。後に穂ノ国連邦は隣国の三河国連邦に併合されるも今橋ノ国は独立性を維持しつつ発展していった。

戦国時代前期、幾度も敵国に攻めこまれ、ウンザリした時の領主は「今橋(いまはし)ってさぁ、忌わしい(いまわしい)に似とって縁起悪いら?ほいだもんで攻められるだわ、改名しよ」と思い付き、縁起の良い吉田に改名した。以降今橋ノ国は吉田ノ国として知られるようになった。

さらに戦国時代後期になり酒井タダ告なるオヤジが「橋がなければ江戸に遊びに行けぬ」と騒ぎ出し、部下が慌てて木造の橋をトヨガワにかけた。もともと「偉大なる首領様がおつくりになられた吉田大橋」と呼ばれていたが、トヨガワにちなみ「トヨハシ」と呼ばれるようになった。これが呼び水となり、吉田ノ国は川をはさんだ二つの地域がつながり発展していくこととなった。

[編集] 江戸時代

江戸になると「偉大なる将軍さま」や「恐れ多い前の副将軍」が夜這いするための道路として5街道(東海道、中央道、東北道、関越道、首都高)が整備され、このうち吉田ノ国は東海道「吉田宿」「二川宿」を配して将軍さまをもてなす場を作った。

[編集] 明治

明治になるとトヨハシが豊橋として名が知れ渡るようになるが、正式名称は相変わらず吉田ノ国のままであった。しかし、明治政府より府県制へ移行する際に「吉田は全国に173ヶ所あるから、吉田ノ国は別の名にするように」といわれてしまい、そのまま流れで豊橋市となった。このあと改名を少しずつ重ね、現在の名となる。

明治になると東海道に変わる次世代の夜這いルートとして「鉄道」が注目され、明治政府の優遇もあり、豊橋の一番目立つところに東海道本線「豊橋駅」を開業する。なお、豊橋駅の現在の正式名称は「日本一の峠・伊那路の玄関口およびキャベツ畑の中枢・豊橋駅」である。しかし、東海道本線が敷設されたことでもともとの東海道は大きく曲げられこれが後の道路事業に大きく影響する。東海道本線によってこれまで人力車・飛脚・馬車に頼る物流が飛躍的に改善され、それまで百俵の米を運ぶのに10日を要していたのに対し、わずか6時間で運ぶことができるようになった。

また、豊橋は周辺の町を次々と征服し、属州支配を敷いていった。

[編集] 昭和

昭和になると、鉄道に続いて巨大な船舶が作られるようになり、現在の明海町が埋め立てられ、造船所及び製鉄・製鋼所が作られた。なお、この埋め立てに伴い、遠州の国との境にあった潮見山は削られて山がなくなり、潮見峠という新たな東海道のルートとして100メートル道路が整備された。この製鉄所からは毎年30万トンという膨大な量の鉄が作られ、日本国中に輸出されていった。同時に港湾整備を行い、80万トン級が停泊できるような巨大な豊橋港が作られた。かつての東三河の辺境の地は一挙に中心地に駆け上がり、豊橋にとどまらず蒲郡、新城、国をまたいで浜名湖周辺にも影響を与えた。

しかし、第3次世界大戦により、「造船=軍艦」という理由でメリケン国による大規模な空爆を受ける。このとき、空爆は明海町について徹底的に行われこの影響で せっかく埋め立てていた明海町が再び海に沈んでしまう。

[編集] 戦後

戦争が終結すると、すぐさま町の再配置が行われた。北方は従来どおり通商の町として、南方は原野であったが、これを開墾してキャベツ畑とした。その後、オートモービルが急速に増加し、従来の東海道では手狭となったため、国家アスファルト省が東海道の再整備として国道を整備した。特に東海道は東京国と大阪国の往来に不可欠であるため、日本国道1号として整備された。しかし、車は簡単に曲げられるという理由で国道1号は道幅だけが広くなり、交通量の増加には対応できなかった。

そのうち、知らないうちに名古屋国に吸収されてしまうい、工業力も名古屋本土に吸収されていってしまう。それに伴い、豊橋は通過地点となり、豊橋~名古屋間の国道1号の輸送能力が飽和し、周辺道路への流入で対向車との接触、狭窄路への車の封止などが発生してしまい、1号のバイパス道路が必要となった。これに応えるために、アスファルト省は豊橋~名古屋~伊勢~新宮を結ぶ通商・参詣道路として国道23号を整備している(現在も事業中)。当初、高速自動車国道として整備する予定であったが、海沿いをとおるため当時の技術では対応できず、結局普通の道路として整備されることになった。

その後、国道だけでは東京=大阪間の輸送量が不足するため、時速200kmまで対応できる「日本高速飛脚道路」ができた。同時に時速300kmで人を輸送できる「新幹線」もできた。しかし、新幹線は豊橋にはほとんど止まらず、一日に0.5本(すなわち、2日で1往復)が停車するだけであった。また高速飛脚道路も豊橋にはインターチェンジはなく、道路が通過しているにもかかわらず乗り降り(インターチェンジ)は最も近いところでも車で1時間以上かかるところとなっている。その代わり、市内の飛脚道路上に豊橋関所が設けられ、利用者からは忌み嫌われる場所となってしまった。

[編集] 軍事

吉田ノ国は古くは徳川家康の天下統一の原動力となった三河武士団の一角を担い、世に三河武士の精強さを知らしめた。

江戸時代は幕府からいらぬ警戒を受けぬために、その軍事力は大きなものではなかったものの、幕末になると特殊部隊を編成し民衆を扇動、いわゆる「ええじゃないか騒動」を巻き起こし、明治維新に貢献した。

明治時代に入ると、明治政府は富国強兵を国家戦略に掲げていたため、同盟国である豊橋も軍事力増強に力を入れ1885年に歩兵連隊を編成したのを皮切りに、砲兵連隊、工兵大隊、騎兵旅団を次々に編成、昭和に入るといち早く航空基地を整備し、日本を見渡しても有数の軍事都市として成長した。

大日本帝国もその軍事力を認め、多くの戦いでその戦力を頼みとし、また豊橋も同盟国として軍事力を提供した。

特に日露戦争における遼陽会戦で豊橋歩兵連隊は戦力の半分を失いながらも戦い続け、大日本帝国の勝利に貢献した。

太平洋戦争では豊橋軍は緒戦、中国に派遣され上海上陸戦、漢口攻略戦に参加するもさしたる戦果はなく、後にグアム島守備に回されるが途中の航海で乗船を攻撃され、戦力は半減、残存兵力はグアム島たどり着き、守備隊として奮闘するも圧倒的物量に勝るアメリカ軍に押され、殲滅された。

戦後、同盟国である大日本帝国軍の解体を受け、豊橋も軍を解体、以後軍事力を有することなく現在にいたる。しかし花火に見せかけた火炎放射機たる「手筒」、祭りに見せかけた「炎の祭典」という名の合同火力演習等、有事に備えた準備・訓練を怠ってはいない。

[編集] 地理

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[編集] 地域性

極度に排他的で閉鎖的な地域性。よそ者を撃退するため地域では強固な隣組を組織するほか各家庭では武器を常備している。まず、家の玄関やのきには「手筒」とよばれる火炎放射器を配置するのをはじめ、携帯用の火炎放射器「ヨウカン」、連発式の小型ダイナマイト「爆竹」を配備。隣組では「台物」とよばれる大砲も準備している場合がある。もともと隣近所に対しても敵視し、言いがかりが絶えない土地柄でもあるため、非常時に備え、訓練として試験点火を頻繁に行っている。

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[編集] 名物

ちくわ♪ちくわ♪ 豊橋市民の大好物である。 というより主食である。 「ちくわごはん」に「ちくわのさしみ」「ちくわの煮付け」「ちくわの吸い物」「ちくわ田楽」などの料理でもてなす「ちくわ御膳」が最高のご馳走である。

かつて、ちくわを販売する業者が談合し売り惜しみをしたため価格が高騰、「ちくわ騒動」なる一揆が発生。この騒動で豊橋がちくわの街として有名になった。

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[編集] 関連項目