足利市
足利市(あしかがし)は、栃木県の南西端、両毛の中央部にある半独立国。
足利市民は、両毛人としての誇りがあるためか、O市と違って凄まじく郷土愛が強い。しかし、中心街は空洞化の一途をたどっており、足利市民の誇りはズタズタに傷つけられている。
地理[編集]
栃木県に属しているものの、市民はそれを認めていない。それどころか、群馬県に属すると信じ込んでいる。それゆえに栃木県は、足利市に対する補助金を一切打ち切ることを表明したため、市内のインフラはどれもみなボロボロであり、これによる風評被害もあってか、人口は微減傾向にあるという。
お堅い百科事典によると、とくに両毛線足利駅前は廃墟的景観が卓越している。とのことである。
足利において「町」といえば、高崎市・前橋市・桐生市一帯を指す。足利が田舎であることの証といえる。宇都宮市・日光市などは、足利にとって遠い存在であり、足利人はほとんど訪れることがない。むしろ、安足地区の佐野市や、群馬県にある桐生市・太田市・館林市との関係が深い。
足利の東地域は佐野市、西地域は桐生市、西南地域は太田市を慕っており、足利の求心力は極めて低い。両毛の首都ながら、なんだか残念な感じなのは否めない。
近隣の邑楽町や大泉町(ブラジル飛び地)から少しは慕われているが、近年太田市や館林市・佐野市に人気を奪われつつあり、やはり残念な感じである。
歴史[編集]
室町時代を開いた足利尊氏の本拠地であったことが、何よりも有名。ところが尊氏は鎌倉で生まれ育ち、京都で幕府を開き、ついに本拠地の足利を訪ねたことは生涯なかったとみられる。そのため230年もの長期間、将軍家として一時代を築いた足利氏の元々の本拠地で発祥の地であるにもかかわらず、あまり恩恵を受けることがなかった。それでも足利学校・鑁阿寺などが創設されたりなんだりして、それなりに発展していたようである。足利学校は、みんなのアイドルフランシスコ・ザビエルに「日本国中もっとも大にしてぇ最も有名なぁぁ゛坂東の大学であるっっ!」などと勝手に評価され、勝手に昇天していった。現在は、このザビエルの発言を最大限活用して、足利学校は日本最古の大学であるとして世界遺産登録を目指している。
さて室町時代が終わって何百年も経つと、今度は足利の地に逆風が吹くこととなった。明治から昭和戦前の時代に足利尊氏は天皇に弓を引いた逆賊であるという批判が日本中で湧き起こり(尊氏を称賛した商工大臣が引責辞任させられるほど)、尊氏が生涯足を踏み入れたことがない足利の地が、まるで逆賊の巣窟のように白眼視されて総スカンを受けることになってしまった。それでも足利の地名を変えることなく、意地をみせて「尊氏すごい」の顕彰活動を続けた。その努力が実ったのか、足利尊氏は心を病んだメンヘラでも将軍になれた英雄としてアンサイクロペディアで評価されるようになった。
ところで明治時代に足利足利銀行が創設されていたが、餃子の街に引き渡すよう通達されてしまった。そのためか経済の縮小が顕著である。過疎化はとまらない。最近になって茨城県の銀行と合併した。
文化[編集]
足利の南部には八木宿があり、そこが八木節発祥の地であるはずだが、どーにかこーにか理由をつけられて太田市に八木節をかっさらわれている。
焼きそばにジャガイモを入れるのは足利が元祖なはずだが、ジャガイモを入れる文化が薄い栃木市の方が有名になっている。
イモフライは佐野市だけでなく足利でもあったものだが、気がつくと佐野市の地域食で有名になった。
佐野ラーメンは確かに佐野発祥だが、両毛全域で食されていたラーメンだった。「佐野ラーメン」と名が付いてからというもの、なぜか足利だけが反発し始めた。
総合すると、足利はアンチ文化の街である。
関連項目[編集]
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