足利持氏

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
グルメー関東公方の持氏さん。
「激情に任せて起こした謀反が成功するか!!そもそも上杉憲実に愛想をつかされる時点で己の器量のなさを悟らんか!!この身の程知らずが!!」
足利持氏 について、織田信長

足利 持氏(あしかが もちうじ 、1398年 - 1439年)は、4代目の鎌倉公方で、幼名は幸王丸足利満兼の嫡男で、母は簗田満助の娘である。子は足利義久(賢王丸)、春王丸、安王丸、足利成氏(永寿王丸)、蔭山広氏ら。

彼は綿菓子ペロペロキャンディなどを嗜む甘党であり、合戦の折も常になめていたという。自称「幻の6代将軍」であり、本人曰く「俺のような英傑が6代将軍になっていたら、足利幕府はあと1000年は長続きしただろう」と言い放ったほどの自信家。

実際に6代将軍となった足利義教とは数年しか年がはなれていないため、犬猿の仲でありながらも、その人となりは似通っているところが多く、同族嫌悪の間柄であったと思われる。器量では紙一重どころか二枚も三枚も義教が上手であったが、己と義教の力量の差に気付かぬ持氏は無謀にも真っ向から義教に反旗を翻した結果誅伐される。後年義教は持氏が自分に勝っていた点は菓子作りの器用さのみだとのたまっている。

生涯[編集]

父満兼の跡を継ぎ4代公方(将軍の他称とも)となる。これを期に、辛党で扇谷上杉家の上杉禅秀は甘いものが嫌いなので、持氏に向かって菓子生産の打ち止めを要求した。しかし、持氏は「毎日歯を磨かない奴が悪い」と一蹴され、禅秀の関東管領を解任した。それを恨んだ禅秀は、持氏の叔父足利満隆と弟足利持仲らとグルとなり、反乱を起こし、鎌倉、奥州を制圧した。

持氏は温泉でくつろいでいるところを襲撃され、あやうく浣腸突きをされる襲撃の憂き目にあい 、ほぼ全裸で遁走して、駿河にいる山内上杉家の上杉憲基(憲実のいとこでその養父)を頼った。しかし、運悪くも時の4代将軍足利義持同母弟の義教(異母兄の義嗣と同年)にその見るに耐えない醜態を見られてしまった。

やがて、将軍義持(世代的には持氏の叔父だが、年齢的にはいとこと変わらない)が禅秀の裏には異母弟の足利義嗣が操っていたと判断した。実は禅秀と満隆は義嗣のホモ達だったので、秘密結社をつくり、義嗣は「俺様が将軍となってハーレムを作るぞ!」と公言した。これに危機を抱いた義持は持氏にからもらった大砲を授けた。こうして義嗣、禅秀、満隆、持仲らは陣営ごとに大砲の餌食となって、くたばったのである。

一息ついた持氏は、将軍義持が趣味の菓子生産に力を注ぎ全世界からパティシエを集めていたのに対し、土地は広いが金銭に本家ほどの余裕がない持氏はお雇い外国人などを呼ばず関東管領上杉氏らとともに独自で菓子生産に取り組み、彼自身が結構な甘党だった事もあってマシュマロや綿飴の生産に力を注いだ。しかし毎日甘いものばかり食べていた為関東や東北の人々の間で虫歯が大流行した。

持氏は義教から鎌倉公方ともあろうものが家来筋の上杉氏によって追放されたことを嘲笑、罵倒され、これが切欠となり義教に対し激烈な憎悪を抱くようになった。

5代将軍の足利義量(義教の甥)とその父・義持が相次いで死去すると持氏は人望も実力も一番の俺こそ将軍の座に相応しいと自分が将軍になる事を確信しており、将軍後継が決定する当日には黄金の鎧を纏った郎党を引き連れて鎌倉より馳せ参じたと言う。しかし、持氏が京都に着いた頃には既に次期将軍がインチキくじ引きで決定しており、よりにもよって犬猿の中である義教が将軍になってしまったのである。

納得のいかない持氏はくじ引きと言うランダム性に頼った選定を弾劾、義教に自らとの決戦のモグラ叩きを要求し、もし勝利すれば将軍職を譲渡すべしと言い放ったが、義教を始め皆々は持氏の戯言などハナから耳にも入れていなかったかのようにそそくさと帰ってしまった。その日、持氏は一日で溜まりに溜まった怒気の全てをモグラ叩きにぶつけ、スコア表がショートしてしまうほどの高得点を叩き出した。

憤懣やる方ない持氏はすぐにでも義教の図体を八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られた。義教への怨嗟はやがて京都そのものへの怨恨に膨張し、メントスガイザーを利用した京都爆破テロを企てるまでに激化する。京都に義教を置いていてはいつ大惨事が起こりかねないと危惧した関東管領の上杉憲実らが持氏を米俵の縄で無理矢理縛り上げ、荷車に乗せて鎌倉まで連れ戻した。帰路の途中、持氏は米俵に縛られながらも大暴れし、脚から放たれた草履が山の岩肌を直撃し、巨大なクレーターを生成したと言う逸話が残っている。

この一件以降、持氏は憲実に対して逆恨みを抱くようになる。そして憲実が京都の方向に枕を向けて寝ていると知った持氏はやはり憲実は義教の回し者であったと曲解、追討を目論み、鎌倉に波紋を起こすことになる。辛うじて逃れた憲実は、持氏の挙措が尋常ではなく、焦点も定まらない異様な虚ろさを醸し出していたことを想起し、一種の精神病ではないかと断定、持氏を精神病棟に入院させようと試みるも、暴れ狂う持氏を一人では流石に取り押さえられず、義教に鎮撫の要請を願い出た。しかしこれは憲実の失策であった。

憲実は持氏が乱心ゆえ、取り押さえて精神病棟に入院させ、治療せねばならないとの旨を再三再四説明したが、義教は3秒で「謀反を起こした鎌倉一党、全員誅殺」と即答した。冷酷非情の義教にとって、取り押さえる、精神病院に入れるなどと言う穏便な手段はその思念の片隅にも無く、全ての問題は「デストローイ」の一択で片付けられてしまうのである。義教の速断より間もなく幕府軍が雪崩の如く鎌倉に攻め込み鎮撫、出家した持氏は子の義久と一緒に斬首された。持氏父子の首には義教により悪趣味なデコレーションを施され、義教の誕生日の祝いのケーキの天辺に装飾された。

尚、謀反を起こした相手が残虐な義教でなければ持氏は許されたかもしれないと言う見解もあるが、曽祖父の基氏は不明だが、祖父氏満、父満兼も謀反を起こしている手前、義教でなくとも三度目の謀反を許すはずも無いのである。持氏と共に伯父の足利満直足利満貞らも、謀反に積極的に加担した、しないを問わず、「ついでに殺っとけ」と義教からの討伐を受け自害、戦死し、鎌倉公方は零落し、末子の成氏が古河公方として再興した。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「足利持氏」の項目を執筆しています。


みなさん、松平です。 この項目「足利持氏」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)
先代
足利満兼
鎌倉公方
-
次代
足利成氏