足利満兼

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足利 満兼 (あしかが みつかね, 永和4年(1378年) - 応永16年7月22日1409年9月1日)) は、足利氏満の息子で三代目の鎌倉公方。威勢よく時の将軍足利義満に真っ向から反旗を翻したはいいものの服従する事になった負け犬公方氏満の嫡男である。

不本意ながら足利宗家に従属する父の背を見て育った満兼は、鎌倉公方の名誉を挽回するべくいつの日か鎌倉公方が宗家に成り代わる事を渇望していた。氏満は義満へ従属した後、それまでの非を清算するべく関東、奥州の統治、平定に尽力したが、京都の義満は恩賞の一つも与えず、開発費用として与えるべき金銭を金閣寺の如き悪趣味な寺の建立などに湯水のように使い、一休さんと呑気にとんち合戦をやっている有様であった。義憤に駆られた満兼は足利宗家に対する反意を一層強め、関東諸侯を率いて幕府と雌雄を決するための挙兵を考えていたが、いざ決起せんと思った時に限り、わらじの紐が切れたり黒猫が目の前を横切るなど不吉な事に見舞われたため、満兼は決断を鈍らせていた。

満兼は関東の同胞達に結束を呼びかける運動を行っていたが、厄介事に巻き込まれることを嫌がった関東諸侯は満兼の呼び掛けに呼応せず黙殺した。家臣の中にも時期尚早と消極的な思考の者が多く、満兼ただ一人のみが昂揚し熱を帯びていたのだが、本人は周りの消極的な空気に気付かなかったようである。満兼は熱心すぎるがゆえに次第に発言や運動が先鋭化してゆき、関東の諸侯どころか、全国の守護大名に所構わず檄文を送りつけるようになり、その内容も倒幕の義挙への参加強制を促すような激しい内容になった。しかし、大勢力でいずれは天下に号令せんと目論む山名氏清に対しての書状を書き連ねている所、軒先に落雷が直撃し松ノ木が真っ二つに割れ、これに不吉な予兆を感じ取った満兼は結局氏清に対して書状を送ることは無かった。満兼が逡巡している内に氏清は義満に滅ぼされる。満兼は「やはりあの落雷は鎌倉公方が滅亡の道を歩むのを止めるための神の警鐘であったか」とのたまっている。

その満兼に目をつけたのが今川了俊である。大内義弘が反乱を起こした折、了俊は遙々鎌倉まで下向し、満兼に催眠術を施した。効果は覿面であり、満兼は大内に便乗して本家を転覆させようと自身も反旗を翻そうとした。謀反決行の前日、満兼は最寄の神社に参詣し聖戦の勝利を祈願したところ、タライが落下して彼の後頭部を直撃した。これにより脳に異常をきたしたのか、それとも元々錯乱していたのかは分からないが、満兼は自らの頭部に落下したタライを「勝利の神より与えられた賜物」と勝手に解釈し、そのタライを兜として纏い合戦に参じた。しかし了俊の思惑を知る関東管領上杉憲定(かつて諫死した上杉憲春の甥にあたる)が了俊の催眠術から満兼を開放するべく自決覚悟の諫言(所謂、一種の死ぬ死ぬ詐欺)をしたため、催眠状態で了俊の思うがままに思索していた満兼も、側近たる上杉氏に先代のように再び自決されては叶わぬとしばし逡巡した。思わぬ横槍を入れられた了俊はより強力な遠隔催眠を施したが、満兼が決起する前に大内義弘は滅ぼされ、乱は収束する。正気に戻った満兼は憲定の忠義に感嘆したが、謀反に片足を踏み込んでしまった手前、最早義満に平伏して服従する以外に取るべき道を失ってしまう。結局、満兼も父氏満同様義満に対して怨嗟の声を吐きながらも彼の走狗として齷齪働く羽目になる。晩年、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすべく奥州の守護大名伊達政宗八つ当たりしてその領土を掠め取り、キレた政宗が謀反を起こすと言う失態を侵してしまうが「陣取りゲーム」と言い訳を作って足利将軍本家からの追及を免れた。

先代
足利氏満
鎌倉公方
-
次代
足利持氏


みなさん、松平です。 この項目「足利満兼」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)