足利義尚

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「よしひさちゃん!あんなごくつぶしのパパみたいになっちゃだめよ!」
足利義尚 について、日野富子
富子はゼニゲバの守銭奴。義尚、あんな化物になったら人間終わりさ」
足利義尚 について、足利義政
緑髪将軍の異名通り、エメラルドグリーンの髪の毛を持っていた。

足利 義尚(あしかが よしひさ)(1465~1489)は室町幕府第9代将軍。緑色の髪をしていたため、通称「緑髪将軍」。ネトゲもない時代なのに昼夜逆転生活を送っていたどうしようもない廃人。母日野富子一条兼良という優れた教養を持つ公家を家庭教師に迎え指導させたが、まったく功を奏しなかった。多分現代に生まれていたらもっとどうしようもない人物になっていたと思われる。近年、モンスターペアレントの研究が盛んになってくるに伴い、母富子の偏った教育が、義尚の人格を屈折させたのではないかと言う見解が強くなっている。

概要[編集]

右の眼球は紺碧であったため宝石将軍、蒼星石とも呼ばれる。本人は自分が超能力者であると勘違いしていた痛い子で、髪を緑色に染めるなどの奇行も多かった。しかし、当時の公家の日記によると、義尚が本当に超能力を行使したかのような記述が散見されることから、人を錯覚させる程度の「超能力」は使いこなせたと思われる。決して「よしなお」、「ぎしょう」などと読んではいけない。死の直前に、「義煕」と改名しているが、誰も気にしない

生涯[編集]

8代将軍足利義政の子として生まれる。実は、義尚の誕生前に父義政は弟(義尚の叔父)義視を養子にし、将軍後継者にしたばかりであった。母富子は「将軍の実子である義尚こそ次期将軍よ!」と言って無理やり義政を追い詰める。一方で義視は「兄上(義政)は私を養子にする時に、実の子が生まれても出家させるから心配いらぬ。次期将軍は義視のままじゃとお約束なされた」と詰め寄る。義政は妻と弟の間に挟まれて決断ができず、酒にますます溺れてしまう。やがて義視の補佐役である細川勝元と義尚の補佐役の山名宗全は、各大名家の跡継ぎ争いや幕府内の権力闘争も相まって対立を深めていき、ついに1467年から双方合計20万を超す大軍が京都一帯で戦火を交える応仁の乱を勃発させることとなった。乱が始まると、義尚や母富子らが住んでいた将軍御所を義視支持の細川軍が占領したため、義尚が次期将軍となる可能性は潰えたかにみえた。ところが義視が細川らと対立して逃亡したため、細川軍が正反対に宗旨替えして義尚の次期将軍を支持することとなった。こうして義尚が父義政から将軍職を譲られて9代将軍になるというまさかの逆転劇となった。

 ただ11年続いた応仁の乱は幕府権威を地に落とし、将軍は京都の自宅警備員同然のお飾り的な存在になった。全国では大名や豪族たちが将軍や幕府の命令を無視して、自己の勢力拡大のための戦争を繰り返す戦国時代へ突入した。それでも義尚は将軍家の権威を回復させるため行動を開始するが、大名たちは将軍の命令や判決になかなか従おうとせず、将軍のもとへ挨拶に来る大名も激減していき、義尚は自尊心を喪失していく。しまいには将軍家の本拠地である京都がある山城国からも、地元の武士や農民たちが「自治」を求めて国一揆が起きる始末であった。義尚はついに酒池肉林電脳乱闘に溺れ、半ば廃人と化してしまった。昼夜逆転生活を送り、遊び仲間を率いては夜中の京都に繰り出して女を廻し、惚れた公家の娘に執拗にストーカーを繰り返したり、隠居していた父義政と妾を取り合って争ったり、母富子と喧嘩して義尚が家出して家臣の屋敷へ駆け込んだりするなど、最早将軍以前に一介の社会人としてまるで及第しておらず、義尚の家庭教師を務めた一条兼良の子、尋尊から北条高時以上の馬鹿だと侮蔑される始末であった。京都の人々は口々に義尚の無能ぶりを嘲笑し、世間の評価に憤慨した義尚は無理な遠征を企図し、みずから出陣して近江国(滋賀県)で六角氏という大名と交戦したが、六角氏に従う甲賀忍者のゲリラ戦に苦しみ膠着状態に陥った。義尚が自分の遊び仲間で側近の結城尚豊を、特に大きな戦功もなく近江国とも特に縁がないにもかかわらず近江国守護へいきなり抜擢したことに、同国の武士たちが呆れて結城に従わなかったことも、膠着状態の大きな要因であろう(義尚の死の直後、結城は幕命で近江守護を罷免されて出家)。

やがて義尚は、ストレスによる酒の飲みすぎで肝臓を悪くし、陣中で逝去した。享年25歳。将軍家の権威復興のために始めた戦だが、将軍みずから出陣しても一大名すら満足に討伐できず、逆に結果として将軍の権威を落とすこととなった。義尚の死後、義尚には実の息子がいなかったので、将軍職は、かつて応仁の乱で争った義視の子の足利義稙へ移るという皮肉な結果となった。母富子は息子の死因を暗殺だと決め付け、刺客探しに躍起になって京都の人々を戦慄させた。

辞世の句[編集]

ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなりけり、もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月、出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」という辞世の歌を残している。将軍としては稚拙な振る舞いの多かった義尚だが、このような虚無的な歌を残す辺り、彼なりに色々苦労をしたんだから察してやれよという同情の声もあがっている。

義尚は「新百人一首」を作成するなど和歌を趣味としていたのだが、一部の歴史研究家は、一条兼良を以ってしてもお手上げと言わしめた義尚がこのような歌を認めるほどの歌の才覚、技巧があるとは思えない。誰かに代筆してもらったのだろうと指摘している。あまりにも穿った、万死に値する偏見だといえる。

なお、「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞかなしかりける」(後撰集:恋五、小野小町) の剽窃とも見られるが、係り受けの間違いがなんともまた痛い。

関連項目[編集]


先代
足利義政
室町幕府将軍
-
次代
足利義稙


みなさん、松平です。 この項目「足利義尚」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)