足利義持

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足利 義持(あしかが よしもち、1386年 - 1428年)は、室町幕府の4代将軍。父は行為簒奪疑惑と金閣寺建立と一休さんの師匠役で有名な3代将軍足利義満。息子に5代将軍足利義量がいたが夭折、そして弟に織田信長の前世として有名な6代将軍足利義教がいる。

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人物[編集]

その治世は30年近くに及んだものの、夭折した義量や義勝を除いて比較的個性的で目立つ存在の多い足利将軍の中にあってかなり地味な存在である。あまりにも地味な存在なので、日本史の授業においても義持の治世は3行程度で済まされることが多く、親父の義満とは知名度で雲泥の差がある。

そんな地味な将軍である義持だが、実は室町幕府は彼の時代が一番安定していた。目立たないけどそれなりに有能な為政者であったことは安定した時代が証明しているのだが、大衆は波乱万丈の生涯を送った英雄を好み、ネット民はDQNや基地外じみた人物を好むので、前者には義満が、後者には義教が支持を受け、間に挟まれた義持(と義量)はわりとどうでもいいという扱いをされている。

親父の存命中[編集]

親父の義満が弁舌と恫喝を用いて朝廷を黙らせたのが功を奏して、義持が元服するころには南北朝の動乱は殆ど収束していた。ところが義満は争いを収めるのも上手だったが、山名氏清大内義弘に挑発を繰り返し、わざと怒らせて蜂起を促し、武力をもって滅ぼす口実を作ってから滅ぼす(明徳の乱応永の乱)など、争いごとの火種をまくことについても天才的な資質の持ち主であった。そして義満は足利のお家にも争いの火種をばら撒いた。父義満は義持が9歳の時に将軍職を譲っていたにもかかわらず、その後でも義満は「こっちの方が俺に似てイケメンだから」という理由で、弟の足利義嗣の方を偏愛し、天皇の御所で元服させ、将軍が本来なら兼任すべき官位(左近衛中将)を任命させるほど破格に優遇していた。幕府の実権は隠居したとはいえ義満が握り続け、義持は名ばかりの将軍で飾り物にすぎない状況であった。争いの中で育った初代将軍足利尊氏や二代将軍足利義詮と違って、義持は磐石な治世の元で最高権力者の跡取りとして表向き育てられたため、なおかつ父義満のようなDQNの素質も持ち合わせていなかったため、それなりの見識と節度を持った人物に成長したのだが、親父が弟を偏愛すれば当然のことながらやさぐれる。征夷大将軍になる男とはいえ親の愛情を受けられなければ屈折してしまうのは当然である。さらにその父親は皇位簒奪疑惑やらをはじめいろいろと黒いところのある得体の知れない人物で、比較的常識人だった義持には近寄りがたい存在だった。

おまけに、義持の母親が死去した翌日、義満は喪に服すどころかゲラゲラ笑いながら酒宴に興じていたという実話がある。もうこれはやさぐれるなと言うほうが無理な話である。

将軍就任[編集]

弟義嗣が天皇の御所で元服を果たした直後、義満がぽっくりと急死してしまう。これにより、義持が名実ともに幕府の主となるのだが、義満が突然死してしまい遺言を残す間もなかったというのがまずかった。義満が義持より義嗣をかわいがっていたことは洛中に知れ渡っており、将軍は本来は義嗣に指名するはずだったなどという風聞が当然のように飛び交う。「椿葉記」などの史料には噂を信じて発狂した義持が脇差を抜いて義嗣を殺そうとしたなどという物騒な記述が残っている。

しかし結果として義持は無事、名実ともに幕府の主に君臨できた。後押しした有力守護大名斯波義将のおかげだと言われている。斯波義将は義満のチープな挑発にまんまと引っかかって身を滅ぼした山名氏清や大内義弘と違って、義満に煽られ弄られながらもその治世の元で出世してきたしたたかな人物で、手回ししてうまい事揉め事を収束させ義持が将軍に就任できるお膳立てをしてやった。なぜお膳立てをしたのかというと、半分が義持に恩を売っておくためであり、もう半分が、さんざん自分を煽り弄った義満への反感とその基地外前将軍から冷遇された義持への共感と憐憫であった。

治世[編集]

父義満は幕府を安定化させた名君だったが、明徳の乱や応永の乱の火種を自分から巻いたことからも分かるとおり、関係に亀裂を入れるのがうまい壊し屋的性格も持ち合わせていて、幕府と朝廷、幕府と各々の守護大名の関係は、表向き安定しているように見えて結構ぎすぎすしていた。そのため、義持はその修繕に腐心することとなる。一見なんら壊れていない建物の、小さなヒビや欠損をこまめに修正してゆく作業のようなもので、放っておくと大変なことになるという点からも義持がやったことは重要な仕事なのだが、目立たないので、皆当たり前のように評価して日記などにとりたて誇張して義持の業績を喧伝しなかった。その結果が今日の義持の地味将軍としての評価である。そして義持の行った地味だが堅実な修繕は次代の義教によって粉々に砕かれたことは言うに及ばない。そのため義持は壊し屋に挟まれた職人と呼ばれることもある。その一方で、生前冷遇してきた父義満への報復のように、義満が若い頃に建築した花の御所にはちょっと住んだだけで引っ越したり、さらに義満が晩年に建立した北山山荘のうち、金閣以外の多くの建物を取り壊したり、前例なく高位高官を極めることに執心していた義満に朝廷が気を使って太上法皇の位が追贈されたが受け入れずに断ったり、義満が趣味としていた猿楽()を遠ざけたりした。

・・・・・・しかし、そんな義持も、突然ブチ切れて公家数名を左遷させたり、関白一条経嗣を罵倒したりしている。こういった所業のため朝廷から「やはりあの義満の息子だ」と恐怖と嫌悪の目線を向けられたという。

明との国交断絶[編集]

義持の父義満は明と交易を展開したことで知られるが、義持はこれを断絶させた。明と交易を行い、その中の書状で自分を日本国王扱いして帝をないがしろにし、さらに明に対して臣下であるかのように振舞ったので日本の神様が激怒して義満を祟り殺したからというのが、国交断絶に関する義持の言い分である。要するに、義持は神に祟り殺されることを恐れていたのだ。こういった理由は、他に何か腹積もりがあって、それを隠すために適当にでっち上げられるものなのだが、どうも義持の場合、本気で神に義満が祟り殺されたと思っていたらしい。国交をいきなり断絶された明は怒り、武力による制圧を示唆して恫喝してきたが、義持は「外国の武力制圧より神様に祟り殺される方が怖い」と、微動だにしなかったという。この国交断絶のせいで義持は左翼からアナクロ人間のレッテルを張られてしまっており、義満より評価が低い一因となっている。じゃあ右翼は義持を賞賛しているのかと言えば全くそんな話はなく、右翼は義持のことなどまるで気にしていない。なぜなら逆賊足利尊氏の子孫だからである。右翼にとっては室町時代の偉人など大楠公小楠公、次点で新田義貞がいればそれでいいのだ。むしろ、義持は南朝の皇子を無理やり寺院に押込めて出家させて南朝の子孫の根絶やしを画策しているのに、右翼は何故怒らないのか?という不勉強の方が問題にされる話である。

義持治世下での騒動[編集]

義持の治世は他の将軍の治世と比べるとそれなりに安定していたのだが、騒乱が全くないわけではなかった。もっとも有名なのが上杉禅秀の反乱である。この騒乱は、義持の弟で後に将軍になる足利義教に匹敵する問題児として有名な鎌倉公方足利持氏が、「公方様の母ちゃん上杉禅秀と姦通してるんだってな、ビッチ、ビッチ!」などという市井のくだらん虚言を真に受けて禅秀を殺そうとしたのが発端である。引くに引けなくなった禅秀が挙兵したところ、思いのほか兵力が集まったので、禅秀はそのまま軍勢を率いて幕府をつぶそうと試みた。かくして義持は持氏の尻拭いをやらされる羽目になるのであった。

だが義持はこの騒動に乗じてあることを思いつき、そして凶行に走った。父義満の存命時には寵愛を受けていたが、その死後は後ろ盾を失い逼塞していた弟の義嗣、彼を粛清したのである。義持の側近でこの後6代将軍義教の代まで将軍のブレーンとして悪知恵を吹き込む役割を担う坊主の満済が、義嗣が禅秀と結託して謀反を起こそうとしているという疑惑をでっち上げて義嗣を粛清しようと提案したらしい。なお本気で謀反を起こそうとしており、しかも有力守護大名数名がその後ろ盾をしていたという疑惑もあるが、細川家や赤松家に伝わる史料には「忠実で清廉な守護大名の皆さんがそんなことするはずがない」と書かれているので彼らは確実に無罪である。

晩年[編集]

安定した幕政を敷いた義持だが、義持の側近の赤松持貞や富樫満成が、有力大名から女性問題を弾劾されて失脚するなど、室町幕府は父義満が構築したワンマン体制から有力大名の寄り合い所帯へと変貌するようになった。そのような中で義持は一人息子の義量に将軍職を譲って隠居したが、まもなく五代将軍足利義量は酒の飲みすぎで、親より先立つこととなってしまった。一人息子を失った義持は消沈し、本来なら義持の弟たちから六代将軍を選ばなければならないが、義持は一切選ばず、将軍職空席のままで幕府政治を指導。しかし、そんな義持も病にかかり、「次の将軍なんか籤引きで決めちまえ」という暴言を残して病死した。この暴言のせいで籤引きと言う名の出来レースが展開され、仏門に入っていた弟の義円が当選、還俗して足利義教となる。その後の義教の所業を見ればこの男はこのまま仏門に入れておくべき男であったことは明白であり、義教のような気違いを将軍にする機会を提供してしまったことが義持最大の失政などと言われたりする。

ちなみに、死の原因となった病は、入浴中に尻の傷を「かい~の!」と言いながら掻き毟り、その傷口から菌が侵入して発症した感染症であるらしく、要するに単なる自爆であった。